2026年7月12日の喜多見チャペル説教動画、ショート動画、説教原稿をアップしました

□2026-07-12 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書14:66-72

□説教題 「鶏がもう一度鳴いた」

□説教者 山田誠路牧師

# 導入 

前回、マルコの福音書を学んでから少し時間が経ってしまったので、簡単に文脈を確認するところから入っていきたいと思います。最後の晩餐が終わり、ゲッセマネの園というところに移動し、イエス様は父なる神との壮絶な祈りの格闘を終え、弟子たちのところへ戻ってきます。そのところへ、イスカリオテのユダが先頭になって男たちが向かってきて、イエス様はあっけなく逮捕されます。ペテロは、大祭司のしもべの一人に切りかかり耳をそぎ落とします。また、ある青年、多分この福音書の筆者であるマルコがイエスについて行こうとしたところ、捕まえられそうになったので、裸で逃げたというエピソードが加えられていました。前回、そこまで進みました。

今日のところは、かなり有名なシーンですね。いわゆるペテロの三度の裏切りの場面です。演出効果としては、かなり手の込んだ構成になっていると思います。一つは、この裏切りは、最後の晩餐でイエス様によって予告されていたこと。そして、ペテロはそれを強く否定していたこと。ペテロが嘘をついてしまった直接の相手は、権威も武器ももっていない召使の女や、そばに立っていた人々であったこと。そして、これもイエス様の予告にあったとおりですが、鶏が二回鳴いたことです。

このペテロの裏切りのシーンは、四つの福音書すべてに書かれています。福音書にはいろいろな記事がありますが、四つの福音書すべてに書かれているものはそんなに多くはありません。このシーンはその数少ないものの一つなのです。

しかし、それぞれに微妙な違いがあります。例えば鶏についてです。鶏が鳴く、私はこれをもじって「鶏告」と名付けているのですが、まず、最後の晩餐の段階で、「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないと言います」と鶏が鳴く回数を二度、と具体的に書いているのはマルコだけです。また、マルコでは14章68節にペテロの一回目の否認の後、鶏が一回鳴いていますが、これを記しているのも、マルコだけです。

要するに、マルコは、ペテロの裏切りの場面に関して、特に鶏の鶏告に関しては他の福音書よりも詳しく書いてあるのです。これは、これまでも何度かお話ししてきているように、マルコの福音書の実際の情報ソースがペテロであり、鶏の鳴き声が晩年になってもペテロの心に深くとどまっていたからではないかと想像することができます。

本日は、このペテロの裏切りの場面に二つの方向から光を当てて考えたいと思います。一つは、この鶏の鳴き声、鶏告です。もう一つは、マルコの福音書ですと1章18節の「すると、彼らはすぐ、網を捨てて、イエスに従った」というペテロとイエス様との最初の出会いの場面との比較です。

本日のポイントとしては、

> Ⅰ 網は捨てても、捨てられなかった計算

> Ⅱ どん底でイエスに会う

> Ⅲ 神が愛されるのはどん底のわたし

という大きく3点でお話を進めていきます。

# 本論

## Ⅰ 網は捨てても、捨てられなかった計算

### ⒈ ガリラヤ湖での出会い

> それでは、本論に入っていきます。まず、項目としては、「網は捨てても、捨てられなかった計算」ということを考えていきたいと思います。私は、常々、このペテロの裏切りの場面を読むときに、どうしてもペテロが最初にガリラヤ湖でイエス様に会った時のことと比較しないではいられなくなるのです。あのとき、ペテロはイエス様から、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と声を掛けられ、「すぐに網を捨てて、イエス様に従った。」のです。

漁師が網を捨てるということは、実質的に何もかも捨てるということです。事実、マルコ10章28節で、ペテロは「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」と言っています。

すべてを捨ててきたはずの男、しかも、イエス様に裏切りを予告された時には即座に「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い切ったペテロです。そのような人間が、どうして、土壇場で自分可愛さのゆえに、自分のすべてを捨ててまで従ってきた師匠を、これほど簡単に裏切ってしまったでしょうか。

### ⒉ 自己犠牲の限界

そこには、人間の自己犠牲、自己放棄の限界が横たわっています。ある崇高な目的のために、自分を捨てるという行為は、そう判断し、それを実行する自分がまだ残っているのです。その判断がブレてくるときに、捨てたはずのものまで取り返しに出ることがあるのです。

もっと、端的に言うと、ガリラヤで網を捨てたペテロには、何もかも捨ててこの人に従うときに、払った犠牲を償ってあり余る宝を得ることができるという計算が成り立ったのです。

イエス様が語られたたとえ話の中にこういうのがあります。マタイ13章44節に出てきます。「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」という短いたとえです。

このたとえにも「すべて」ということばが出て来ます。「持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」というのです。ペテロはまさに、ガリラヤ湖でイエス様と出会ったときに、そのような心境だったのではないでしょうか。

しかし、宝が手に入るはずだったのに、ここへ来て事態が急展開して、イエス様は逮捕されてしまったのです。このままでは、殺されてしまうのが目に見えています。宝であるはずのイエス様がただの人になってしまったかのようです。

### ⒊ イエス様の本当の価値

ここに、私たち人間がイエス様について行く限界があります。この限界は、言ってみれば、「私たちがイエス様を宝だと思ってついて行く限界」です。そのような動機でイエス様について行こうとするとき、必ず行き詰まりにぶち当たります。なぜなら、イエス様の本当の価値は、私たちが生身の感覚では宝とは思えないところに実はあるからなのです。

それは、マルコ福音書の全体の主題から言うならば、イエス様は王として来られたには違いありませんが、僕としてすべての人に仕えるためにこの世に来られたのです。ご自分のいのちを、すべての人の贖いの代価として捧げるために来られたのです。イエス様を王としたい人たちの目には、このイエス様がしもべとなり、贖いの代価としてご自分の命までもを差し出す姿は、魅力的ではないのです。自分もそのようになりたいとは思えないのです。しかし、その姿にこそ、イエス様の本当の魅力と尊さがあるのです。

## Ⅱ どん底でイエスに会う

### ⒈ 未明の鶏告

> 次に、「どん底でイエス様に会う」ということを考えていきたいと思います。さきほども申し上げましたとおり、ペテロにとって、この日の未明に聞いた鶏の鳴き声は、一生涯心の一番深い所にしまい込まれたのではないかと思います。

ペテロの手紙第二の1章19節にこういうことばがあります。「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」少し不思議なことばです。

実は、鶏が第一声を上げるのは、空が少し明るくなり始める直前の「もっとも夜が暗い時間帯」なのだそうです。これは、私の推測ですが、「夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を」という表現は、ペテロがイエス様を三度裏切ってしまった直後に鶏の声が聞こえてきたという、このシーンが下敷きになっているのではないでしょうか。それは、確かに、ペテロの人生の中で一番暗い時。夜が明ける直前の一番暗い瞬間だったのです。

しかし、ペテロは、そこでイエス様との確かな出会いをしたのです。ガリラヤ湖で出会い、畑に隠された宝を見つけた瞬間に、すべてを捨てる決心がついたときの出会いに勝る出会いを!ペテロは、この夜が一番深い暗闇のどん底で、耳をつんざくような「コケコッコー」の非常な鳴き声を聞きながら、あとから振り返ってみた時イエス様との一番確かな出会いを経験したのです。

### ⒉ 良い時の出会いよりもどん底での出会い

ペテロは、ガリラヤ湖での出会い以来、一番弟子としていつもイエス様の一番近くにいました。イエス様が病人を癒やされたときも、悪霊を追い出したときも、嵐を沈めたときも、5千人の人を5つのパンと2匹の魚で満腹にしたときも、神の国のたとえを語られたときも、だれよりも近くでそのすべてに居合わせました。また、ピリポ・カイサリアの近くで「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」とイエス様に問われたときに、まっ先に「あなたはキリストです。」と答えました。自分が良い形で収まっているイエス様との思い出はいくらでもあったでしょう。しかし、人は、成功しているときに、ものごとがうまくいっているときにはなかなかイエス様との本当の出会いを経験することは難しいのです。

勿論、人生の良い時にもイエス様とともに歩むことの大切さは一つも低く見積もられるべきではありません。しかし、その人の人生を根本的に変えてしまうような、決定的な出会いは、どん底と思われるときに、夜の闇が一番深くその底に達したときこそ備えられているのです。

## Ⅲ 神が愛されるのはどん底のわたし

最後のポイントに入っていきますが、それは、「神が愛されるのはどん底のわたし」ということです。

### ⒈ 推し活との類比で

私は最近、学校の図書館で借りて「イン・ザ・メガチャーチ」という今年の本屋大賞をとった小説を読みました。著者朝井リョウの才能に驚嘆しました。推し活のことがいろいろ複雑に取り上げられている作品です。一般的に自分の「推し」が売れなくなってくると、推し活している人たちには、①「変わらぬ支援」②「熱量の分散」③「静かなる離脱」と3種類の反応があるそうです。3パターンあるとしても、いずれにしろ共通しているのは、どれも「推し」のパフォーマンスの好調時が自分と推しとの関係のバロメーターの基本に据えられているということです。『そこ』に留まり続けたり、『そこ』から熱量が分散したり、『そこ』からフェードアウトしたりする、ということです

### ⒉ どん底での結び付き

しかし、イエス様とペテロの関係はそういう繋がりではありません。ガリラヤ湖で出会って、その時すぐに何もかも捨ててくれた。ピリポ・カイザリア近くで、「あなたはキリストです。」と間髪入れずに信仰を告白してくれた。そのようなペテロのパフォーマンスの好調時を基準にイエス様はペテロとの関係を見ていないのです。

むしろ、ペテロが失敗し、後悔し、涙し、立ち上がれないほど落ち込んでいる、そのどん底にいるペテロにこそ、イエス様は一番深く結びついてくださるお方なのです。

### ⒊ 打たれた傷による結びつき

その結びつきをもっと教理的に言い表しているのが、交読文で読んだペテロ手紙第一の2章24節と25節のところです。もう一度その二節をご覧いただけますでしょうか。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」というところです。

ここには、羊のようにさまよっていたものが自分のたましいの牧者のもとに帰る、ということが述べられています。このさまよっていた羊は紛れもなくペテロのことでしょう。そして、さまよっていたのはいつの時のことかというと、それは、「ガリラヤ湖で最初にイエス様にお会いするまで」のことではないと思います。網を捨てて、何もかも捨ててイエス様について行ったあとも、実は、自分はまださまよっている羊だったのだと、言っているのです。

そして、たましいの牧者に帰ることができた理由も記されています。それは、キリストが十字架の上で負われた打ち傷のゆえだ、というのです。私の罪をイエス様がご自分の身に負い、私たちが罪を離れ、義のために生きるようになるために受けられた打ち傷のゆえだった、というのです。

ここで大切なのは、この傷はペテロが受けた傷ではないということです。ペテロも十分に傷つきました。立ち上がれないほど、自分が嫌になり、自分の内に踏ん張りどころが何もないほどに自分がズタズタ、ボロボロになりました。しかし、その自分の傷のゆえに、私たちはたましいの牧者であるイエス・キリストのもとに帰るのではないのです。もし、それができるのなら、イエス・キリストの十字架は不要なのです。私たちの傷ではなく、イエス様が十字架の上で受けてくださった傷のゆえに、私たちはイエス様のもとに帰ることができるのです。

それを言い換えると、「神様が愛していてくださるのは、どん底にいるわたしだ」ということになります。神様が探し求めている本当の私は、どん底にいる私です。ガリラヤ湖ですぐに網を捨てるペテロではなく、鶏の声を二度目に聞いて泣き崩れるペテロです。なぜなら、イエス様は、そこでペテロと会うならば、ペテロには朝が来ることを知っているからです。

暗闇の底にいるペテロを十字架の上で、ご自分の身に受けた傷の一つ一つで愛し抜かれたイエス様は、その愛のゆえに、ペテロが魂の牧者のもとに帰ってくることができると知っておられるからです。

# 祈り

 一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今回は、有名なペテロの三度の裏切りの場面を学びました。あの男気の強い、直情型の思いより行動の方が先に立つようなペテロが「あなたもあの男の仲間だ」と言われただけで、3度も知らない、知らない、知らないと嘘をついてしまいました。そして、三度目の直後に鶏が鳴きました。それを聞いてペテロも泣きました。けれども、これはペテロにとってはとてもよいことでした。自分の弱さを通して、イエス様の打ち傷に触れることができました。そして、そのイエス様の打ち傷によって、ペテロは癒やされることができたからです。どうぞ、私たちも、どん底で与えられるイエス様との出会いを大切にしていくものとしてください。また、そのようにイエス様に触れていただいたものとして、周りの人々と関わり合っていく者としてください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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