▢聖書箇所はマルコの福音書15章33節~39節
▢シリーズ:マルコの福音書を学ぶ第79回
▢説教題:「真っ二つに裂けた」
序
先週、福音書の十字架の場面では、多くのことが書かれないままになっているが、書かれていることによって十字架の意味を明確にする意図があるとお話しました。今回のテキストで書かれていることとしては、
①時刻(9時[25節これは前回]、12時[33節]、3時[34節])、
②ことば(イエスのことば〔34節〕、百人隊長のことば〔39節〕)、
③現象(3時間の闇〔33節〕、神殿の幕が裂ける〔38節〕)となる。
ということが挙げられるでしょう。
今日は、この中から特に、①34節の「イエスの言葉」、②38節の「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」こと、そして最後に、③39節の「百人隊長のことば」を取り上げて、マルコが記す十字架のクライマックスをともに読んでいきたい。
本論 Ⅰ イエスのことば(34節)
⒈ 情報的説明
34節に十字架につけられたままのイエス様が語ったことばが記されています。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイの27章46節では出だしが「エリ、エリ」となっていて、これはアラム語とヘブル語の発音の違いであとは同じです。
そして、この叫びは、詩篇22篇1節をそのまま引用した形になっています。これは、私にはとても不思議なことです。極刑に処せられて究極の苦しみの中で何かをしゃべるのに、それが何百年も前に書かれた詩篇の一節そのものだというのです。そんなことってあるのでしょうか。
両手両足に釘が刺し通され、それで自分の体重を支えていて、激痛、出血、呼吸困難、そのような苦しみの中で、自分のありのままの心から吐き出される思い、感情をやっとのことで言葉にしたのが、このイエス様の口からついてでてきた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」だったのでしょう。
それが、約1000年前にダビデが全く別の状況で上げた悲痛な叫びとピッタリと一致したのです。それをもって、初代のクリスチャンはイエス様の十字架が単なる出来事でない。逮捕されて、不正な裁判に掛けられ、ピラトが群衆の叫びに押し切られたから十字架に掛けられた、などという表面のいくつかの出来事の連鎖の末に起きている出来事なのではない。そこには、深い、深い、神様のご計画が働いていた。その証拠は1000年も前から旧約聖書に預言されていたからだ、というように受け取ったのです。
⒉ 身代わりの叫び
このイエス様の十字架上での叫びは、人が捨てても、親が見捨てても、神様は私を決して見放したり、見捨てたりすることはない、という人間にとっての最後の頼みの綱のような神様への信頼が断ち切られようとする、なんとも悲しい、なんとも切ない叫びです。人間が叫ぶ叫びの中で、一番悲痛な叫びと言ってよいでしょう。信頼していた友に裏切られた、愛する者に捨てられた、という叫び声を上げている人には、「でも、どんなことがあっても神様はあなたと共にいて、あなたを見捨てることはありません。」と言って、その人を慰め、励ますことが可能です。しかし、神に信頼してきた人が神様から見捨てられた、と感じた時には、慰めようがありません。「神様があなたを見捨てても、大丈夫、だって、〇〇だから!」ということばはありません。
その悲痛な叫びをどうして、イエス様が十字架の上で叫ばれたのでしょうか。
私たちはゲッセマネでのイエス様の祈りを知っています。あのところで、主イエスは、ご自分では飲みたくない杯を、「父の御心であるならば飲みます」と祈られました。それは、自分の生き方からすれば、或いは別の言葉で言うと、ご自分と父なる神様との関係からいうと、決してご自分の身に起こるはずのないことを、敢えて、父は御子イエス・キリストの身に負わせようとされている、ということが分かります。そして、イエス様はそれをご承知で、その道を選ばれたのです。
ですから、この「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、「信頼してきたけれども裏切られた」という意味では決してありません。
それでは、どういう「叫び」だったのでしょうか。それは、「身代わりの叫び」です。本来、誰かほかの人が上げなければならなかった一番悲痛な叫びを、イエス・キリストが代わりに叫んでおられるのです。
⒊ イエス様に最も相応しくない叫び
そして、「身代わり」ということを考えるときに、心に留めなければならないことがあります。それは、身代わりに罪を背負い、断末魔の苦しみの叫びを上げた主イエス様は、そのような苦しみを受けるに最も相応しくない存在だ、ということです。
例えば、学校で8人で一つの班を構成しているとして、その班の7人が掃除をさぼり、1人だけさぼらないでまじめに掃除したとします。そうすると、「こらー、おまえはどうして掃除さぼったんだ。今日さぼった分、あしたから一週間は、おまえ一人でやれ。さぼったバツだ!」などと怒られるのに一番ふさわしくないのは、その一人だけきちんと掃除した生徒です。7人さぼったのなら、その7人は、1人1人、一週間単独での掃除を命じられてもおかしくないかもしれませんが、きちんと掃除した生徒だけは、それにふさわしくありません。まったく、相応しくありません。
しかし、イエス様は、まさに、この一人だけ掃除当番をきちんとしていたのに、残りの7人の分の罰をすべて一人で背負わされたようなものです。一人一週間、7人で7週間の「一人掃除」を「お前がヤレ!」と言われたようなものです。何度も繰り返しますが、一番そうされるのに相応しくない方がそれを負わされているのです。
掃除当番の話ならば、まだ、笑い話で済むかもしれません。しかし、イエス様が背負わされたものは、私たちにとって一番重大で、自分ではどうしようもない、罪が当然払うべき報酬としての罰なのです。
私たちは、そんなに自分は悪い人間ではない。罪を犯して罰を受けるような生き方はしていない、と大抵の人は思うものだと思います。
9歳の時、集団赤痢から脳性麻痺にかかり、その後はちゃぶ台に顎をひっかけて座り、瞬きしかできないで47歳までの生涯を送られた水野源三さんという方がおられました。12歳の時に信仰に導かれ、「まばたきの詩人」と呼ばれた水野さんが残した「砕いて砕いて砕きたまえ」という詩があります。
み神のうちに生かされているのに
自分ひとりで生きていると
思い続ける心を
砕いて砕いて砕きたまえ
み神に深く愛されているのに
ともに生きる人を真実に
愛し得ない心を
砕いて砕いて砕きたまえ
み神に罪を赦されているのに
他人の小さなあやまちさえも
赦し得ない心を
砕いて砕いて砕きたまえ
このような光に照らされるとき、誰が私には罪がない、と言えるでしょうか。
イエス様は私たち一人ひとりのすべての背きの罪をあの十字架ですべて負ってくださったのです。
Ⅱ 神殿の幕が裂けた(38節)
続いて、38節に書かれている「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という不思議な現象・出来事について見ていきたいと思います。
⒈ 神殿の幕の説明
イエス様の時代にエルサレムに存在していた神殿は一般に「第二神殿」と呼ばれる神殿で、バビロン捕囚後に再建されたものです。その前にソロモンが建てた第一神殿がありました。それより前は、神殿ではなく、移動式の天幕、幕屋が神殿の代わりでした。その幕屋の時代からずっと、一番奥の「至聖所」と呼ばれるエリアとその手前の「聖所」と呼ばれるエリアを分けていたのがこの「神殿の幕」でした。
至聖所には、神の臨在が常に表されているところで、そこは、人間の中では、大祭司一人だけが生贄の血を携えて、一年に一度だけ入っていくことが許される特別の場所でした。
それに対して、その手前の聖所は、祭司が毎日、燭台の火の手入れ、香壇の焼香のために入り、週に一度、安息日には備えのパンと取り換えていました。
ですから、聖所までは人間の到達可能な世界。至聖所は神の臨在の世界。そこは、人類の代表が一年に一度だけ入れる世界でした。この至聖所と聖所を隔てていたのがこの神殿の幕でした。
一言でいうなら、神の世界と人の世界を分ける境界線だったのです。
⒉ 上から下まで真っ二つに
この幕がどのように裂けたかについて聖書は短い記述の中で二つのことを述べています。一つは、「上から下まで」裂けた、ということです。第二神殿にあったこの幕は高さが18mもあったそうで、人間が裂くとすれば「下から上に向けて」裂いていくしか方法はなかっただろうと思います。それなのに、「上から下に」裂けた、ということは、これが人間が裂いたのではなく、神が裂いたのだ、ということを意味しています。
⒊ 人類と神との関係が一新された
そして、この幕が裂けた意味はなにかを考えていきましょう。それは、神の世界と人の世界の隔てが取り払われて、自由に行き来ができるようになった、ということを意味します。ヘブル人への手紙10章20節を見ると、そのことがもっと明確に書かれています。
先程、聖書交読で読んだ最後の節です。そのところをお読みいたします。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」
ここに「垂れ幕」という言葉が出て来ますが、これは、今わたしたちが問題にしている「至聖所と聖所を隔てている神殿の幕」のことです。「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」というのは、「イエス様の肉体が十字架で裂かれ、いのちを落とし、死に明け渡されたことによって」ということです。
では、どうしてイエス様の肉体が裂かれいのちが失われると新しい生ける道が開けるのでしょうか。新しく買ってきた電子辞書を使い始める時に、ボタン電池の下に敷かれている薄い薄い絶縁テープを引き抜くと、通電して使えるようになります。それと同じように、神様と人との間には、もともと祝福と愛が思う存分両方向に流れるように構造的になっているのに、罪の隔ての幕が仕切ってしまっていたのです。イエス様が、全人類の身代わりとして、あの悲痛な叫びを上げ、ご自分のいのちを死に明け渡された時に、神と人との間に存在していたその呪いがなくなったのです。神と雖も、もはや私たちの罪ゆえに、私たちを祝福しないということができなくなったのです。イエス様はご自分の死によって、この神と人とを隔てていた仕切りを撤廃されたのです。
昔、伊豆の南へ行くためには天城の山を越えなければなりませんでした。「天城越え」です。天城越えは「峠七里」と呼ばれるほどの難路でした。山がそこにある以上、人間のすることは、その山を苦労して登り、峠を越え、また下ることでした。
ところが1905年、そこに全長445メートルほどのトンネルが開通します。山がなくなったわけではありません。しかし、それまでなかった道が、山を貫いて開かれたのです。
ヘブル人への手紙は、イエス・キリストが私たちのために「新しい生ける道を開いてくださった」と言います。私たちが努力して神のところまで登っていく道ではありません。イエスご自身が、私たちには開くことのできなかった道を開いてくださった。だから私たちは「大胆に聖所に入ることができる」のです。
Ⅲ 百人隊長の証言
最後の三つ目に、39節にある「この方は本当に神の子であった」という告白を見ていきましょう。
⒈ 「イエスは神の子」はマルコ福音書の主題
まず、指摘しておきたいのは、この節、あるいはこの百人隊長の告白が持つ、マルコの福音書全体の構造上に持つ特別に重要な意味です。マルコの福音書は、1章1節に、こう書き出して始まっています。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」この短い一句は、マルコの福音書の表題と言ってもよいものです。そして、少し角度を変えて受け取ると、「これからはじまる福音書を通して書いていくことは、イエス・キリストが神の子である、ということ。そして、福音とは、この書に記されたようにこの地上を歩まれたイエス・キリストが神の子である、その事実こそが私たちへの『良き知らせ』福音なのだ。」ということです。
⒉ 異邦人の口でテーマの回収をしている
そして、この福音書が大詰めに差し掛かって、このマルコの福音書を貫く主題「イエスは神の子である」ということを、最終的にこのローマの百人隊長の告白によって、確認印を押しているのです。
この大切な役割を担った人が十字架の足元でたぶん処刑執行の現場監督のような立場だったローマの百人隊長であった、ということには大きな意味があります。
まずは、この人物はユダヤ人ではなく、異邦人です。なんということでしょうか。何千年というスパンで救い主が生まれるために、その準備段階を特別に任されてきた選民イスラエルとは関係ない異邦人がこの最後の一言を言ってしまっているのです。
しかも、ユダヤ教指導者たちは最後までイエス様を十字架上でもののしり続けました。一番弟子のペテロは、裏切り、涙し、十字架の足元には近寄れませんでした。しかし、この異邦のローマの軍人の口がこの告白をするのが相応しい、というところに福音のダイナミックさがあるのです。そのことを最後に味わいたいと思います。
⒊ この告白の広がりと意味
まず、この百人隊長がなぜ、このように言ったか、その直接のきっかけについて聖書がなんと言っているかを確認しておきましょう。もう一度39節を最初から見ていただきましょうか。「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。」とあります。
この告白は、イエス様がどのように死なれたかをつぶさに見たことによって生み出されたものです。きっと、9時から3時までの6時間、ずっと、イエス様の十字架を最初から最後までずっと、正面で一番よく見ていた人がこの人物だったのでしょう。十字架に磔いにされた状態でお芝居はできません。その人の素が、その人そのものが一番リアルに現れるのがこのような場面でしょう。イエス様の内にあったものが、そのまますべて出てきたのが十字架の6時間です。それを一番近くで、正面で見続けたことによって、この証言は出てきたのです。
ある意味、キリスト教はこの告白から生まれた、と言っても過言ではありません。キリスト教信仰は、イエスがどのような死に方をされたかを見て、告白することによって生まれていくのです。イエス様の死は、私の身代わりであったこと。あの悲痛な十字架上のイエス様の叫びによって、父なる神の私たちの罪ゆえに臨む裁きと呪いは私たちから取り去られたこと。そして神殿の幕があのとき、上から下まで真っ二つに裂けたことが象徴するように、神様と私たちの間に、「新しい生ける道」が開通したこと。それを十字架のイエス様の死の姿にみるとき、私たちに「イエスはまことに神の子です」という告白が与えられ、信仰が芽生えるのです。
血筋によらず、功績によらず、払った犠牲によらず、この告白による。これは、今も同じで、この開通している「新しい生ける道」を一歩一歩、大切に歩んでいきましょう。
祈祷
一言お祈りをいたします。
天の父なる神様、あなたの聖名を心から賛美いたします。ここまで細かくマルコの福音書を学んでまいりまして、今日は79回目でとうとう十字架上でイエス様がこと切れるところまで進んでまいりました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫び。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたこと。百人隊長が「この方は本当に神の子であった」と証言したことを学びました。どうぞ、私たちに、このイエス・キリストが十字架で遂げられた死の意味を聖霊によって知ることができるように助けてください。そして、私たちにも「この方はまことに神の子である」という単純で真実な告白を与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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