□2026-04-19 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書14:22-25
□説教題 「わたしの契約の血」
□説教者 山田誠路牧師
導入
3年前まで住んでいた実家が売却されることになり、私はこの1年半ほど、ほぼ毎週末、片付けにいっておりました。昨日、廃棄物処理の会社に見積もりに来てもらいました。これ以上、捨てたり整理したりしても費用は下がらない、ということなので、私の長い実家の整理の戦いが昨日終わりを告げたのです。私は、深い感慨にひたりました。そして、この作業を通して多くのことを教えられました。
最後は私の息子が一人で済んだのですが、私の祖父母の代から四代にわたって住んだところです。一度家は建て替えられましたが、65年近く間にモノがたまりにたまりました。そして、ほとんどのものをゴミで捨てました。そして、多くのものをそれが何であるか知らずに持っていました。あるいは、持っていることも知らずに、捨てるときに初めて持っていたことを知ったようなものに囲まれて生活していたのです。
けれども、知らないで持っているものは、持っていないのと同じです。また、知っていての使わなければ、やはりないのと同じです。今日は、最後の晩餐でのイエス様のお言葉を学ぼうと思いますが、イエス様のお言葉は、私たちにすでに与えられているものを私たちの宝とするものなのです。
今日は、ポイントとしては、
Ⅰ この食事の重要性
Ⅱ この食事の特殊性
Ⅲ わからなくても語る神の愛
ということでお話しを進めていきます。
本論
Ⅰ この食事の重要性
⒈ 聖餐式の制定
今お読みした聖書の箇所は、聖書の中でも特別に重要な箇所です。ここは、いわゆる聖餐式を規定している箇所です。カトリックや聖公会、或いは東方正教会は聖餐式についての考え方や名称、礼拝における位置づけなどが私たちプロテスタントととはだいぶ異なっています。彼らの方がより聖餐式を重視しております。プロテスタント教会では多くの場合、私どもの喜多見チャペルもそうですが、月に一度第一聖日に聖餐式を執り行なっています。どのキリスト教会でも聖餐式を行なっているのは、今日読んだところに根拠があるのです。
⒉ 礼拝の中心
そして、もう少し踏み込んで言うならば、聖餐式は礼拝に添えるお飾りではありません。むしろ、聖餐式で大切にされていることこそが、礼拝の中心なのです。
初代教会は、説教を聞くために集まったのでもなく、交わりを楽しむために集まったのでもなく、共にパンを裂き、今でいう聖餐式に与かるために集まってきたのです。マルコには書かれていませんが、ルカの福音書には、「わたしを覚えて、これを行いなさい。」とイエス様が言われた言葉が書かれています。すなわち、パンをキリストの体としていただくこと、ブドウ酒をキリストの血としていただくことは、最後の晩餐でイエス様と弟子たちが一回限り行うためのものではなく、イエス様がいなくなった後、残された者たちが、イエス様はあのとき、こうおっしゃってパンを裂いて渡され、こうおっしゃって杯を回された、と思い出して繰り返し行いなさい、ということだったのです。ですから、初代教会の人たちは毎週、あるいはもっと頻繁に集まるごとにパンを裂いてのです。
⒊ 契約の確認
そして、そのことは、最後の晩餐で主と同じテーブルを囲んだ12弟子たちだけに語られた命令ではなく、21世紀に至るまで、連綿と主イエス・キリストの名によって集まるどこの教会でもこれを大切に守ってきたのです。ですからこの箇所は、キリスト教会が歴史の中で形成されていったプロセスの中でもっとも大切な聖書箇所だといっても過言ではないくらいです。この聖書箇所を大切にしてきた結果として、今のキリスト教があるいはキリスト教会があるのです。そして、それは、キリスト教が何者であるかも規定しています。
今日は24節の最後のことばである「わたしの契約の血」というところを説教題にしました。ここに含まれる「契約」ということがとても大切です。教会或いはクリスチャンというのは、キリストの血によって、神との契約に与かっている者たちなんだ、という自己認識を、パンを裂きブドウ酒を共に飲むことによって確認する、それを何度も繰り返す、そのことによって、キリストの体である教会が造られてきたのです。そして、これからも造られていくのです。
Ⅱ この食事の特殊性
⒈ ほぼ普通の過越しの食事
続いて、「この食事の特殊性」という二番目の項目に入っていきます。そして、特殊性について話す前に、ある一つの点を除いてはこの食事は極めてオーソドックスな過越しの食事であったことを確認しておきたいと思います。おそらく、この最後の晩餐が持たれていた同じ時間帯、エルサレムの町の中では、数え切れないほどの家族が、あるいは地方から出てきたグループが、同じメニューで同じように過越しの食事をしていたと思われます。何回か前に礼拝で学んだように、イエス様は二人の弟子を先に遣わして、過越しの食事の用意をさせました。それは、当時のユダヤ社会の伝統に則った用意でした。ですから、私たちは「最後の晩餐」「最後の晩餐」と特別な食事だと認識していますが、実はほとんど特別な要素はない、まわりと変わらない「普通の晩餐」だったのです。
⒉ 特殊性はイエス様のことば
では、この「最後の晩餐」を後世まで語り継がれる特殊な晩餐にしている要素は何でしょうか。それは、イエスの言葉です。それは三つあります。
①「これはわたしのからだです。」
一つ目は、22節の最後に出て来る「これはわたしのからだです。」です。ユダヤ人が出エジプトした夜に初めて食して以来、過越しの食事は守られてきました。そして、それをキリスト教会では聖餐式の形で受けついできました。その数えきれないほどパンが裂かれてきた中で、「これはわたしのからだです。」という言葉を添えた人は、この時のイエス様以外にはいません。もちろん、皆さん、お分かりのように、翌日、ご自分の体が十字架に釘づけられて、引き裂かれることを予表してこうおっしゃったのです。
そして、その裂かれたパンを「取りなさい」「食しなさい」ということは、「わたしの打ち傷によって癒されなさい」ということです。今朝は聖書交読にイザヤ書53章を選びました。5節に「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷によって、私たちは癒された。」とありました。
これは、不思議な言葉です。普通、誰かが隣で打たれ、傷つけられることは、私たちに平安ではなく、トラウマを与えます。AさんがBさんの身代わりに苦しんだことが、Bさんの平安となり癒しとなるのは、唯一、それが正式な裁きとしてなされたときです。一つの罪に対して刑罰が実行されたならば、相手を間違えましたといって二度目に振り下ろすならば、それが不正義になってしまうのです。イエス様が私たちの代わりに私たちの罪ゆえに下る刑罰を、正式にまともに受けてくださったので、私たちはもはや裁かれることはない、ということなのです。
②「これは…わたしの血です」
二つ目にイエス様のおことばは、24節の「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。」のところです。こちらは一つ目のパンのときにはなかった言葉が付けくわえられていて幾分長くなっています。
それは「契約の血」の「契約」という言葉です。「契約の血」という言葉は出エジプト記24章8節に初めて出て来るのですが、それ以来ユダヤ人は、動物の血を流すことによって、神との契約に与かるという中にずっといました。しかし、旧約聖書には、「契約のパン」ということばは出て来ません。
「パン」は引き裂かれたイエス様のからだ、そして苦しみ、打ち傷を象徴します。けれども、あえて言うならば、神と私たちとの契約を有効ならしめるものは、キリストの血です。契約としては、パンと血の二本立てではなく、「血の契約」一本です。
それでは、どのように「パン」が象徴する苦しみ、打ち傷が「血」と関係するのでしょうか。それは、「血」を特別な血にするという意味においてです。
イエス様が流した血ならどんな血でも私たち罪人の罪を赦し神の子とする効力を発揮するかというと、無条件にそうであるわけではないのです。キリストの流した血が罪のない血であるときはじめて、「契約の血」となれるのです。更に言えば、誘惑され、試みられ、打たれ、極限まで苦しみを受けても罪を犯さなかった、という血でなければならないのです。
さきほど、イザヤ書53章から身代わりの苦しみという話をしましたが、その苦しみも罪がない人が苦しんだのでなければならないのです。そのようにして、パンと血は繋がっています。しかし、あくまで血が最終的にはモノを言うのです。
それは、旧約聖書レビ記に書かれているのですが、「いのちは血にある」という教えともつながっています。最終的に、罪のない尊いキリストのいのちが投げ出されることが契約を確かにするのです。
③「新しく飲むまでは」
三つ目のイエス様のおことばは、25節全体です。「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」ということばです。最初の二つも弟子たちには、理解が難しいことばだったでしょうが、三つめはもって難しかったでしょう。ここには、二つの要素があります。
一つ目は、これが地上での最後のブドウ酒だ、すなわち自分は、もうまもなく死んでいく、ということを言っているわけです。しかし、それだけではなく、「神の国で新しく飲むその日」とも言っているので、その「最後」は、もっと素晴らしい「新しいこと」が成就するためになくてはならない「最後」なんだ、ということです。弟子たちにとっては、最高に悲しいことと、それを越える希望が語られたのです。
しかし、これまでの弟子たちの様子を見ていると、このどちらも喜ぶことはできなかったでしょう。すなわち、イエス様が殺されるということはあってはならないことであるし、「神の国」ではなくこの「エルサレム」でイエス様が王座につき、自分たちが重要ポストに就き、それでもっとおいしいブドウ酒を飲みたい、と弟子たちは考えていたことでしょう。
マルコの福音書には、この3つのイエス様のお言葉に対する弟子たちの反応は全く書かれていません。たぶん、弟子たちは反応しないことができる精いっぱいのことだったのかもしれません。
Ⅲ わからなくても語る神の愛
⒈ 理解できないけれども語る
さて、これから三番目の項目の「わからなくても語る神の愛」に進んで行きます。実は、今回、ここが一番伝えたいところなのです。私はこの説教の準備のために何度もこの箇所を読み返す中で、一番心に残ったのは、「イエス様が語られたという事実」でした。「何を語られたかという内容」よりも、「語られたという事実」です。
どうしてそれが心に響いたかというと、この時、この場面で弟子たちに語っても、弟子たちは理解できないのに語られたからです。相手が理解できないことを語る、ということを私たちはあまりやりたいとは思いません。
イエス様もこのとき、何も言わずに、翌日十字架にかけられたしても、その裂かれたお体と流された血が私たちを救う効力を父なる神様との間で発揮するということには何ら変わりはなかったでしょう。しかし、イエス様は理解できない弟子たちに語ってから十字架に付いたのです。
⒉ 後に理解するために語る
それは、十字架が父なる神との間だけではなく、私たち人間に対しても効力を持つ、或いは意味を持つようになるためです。私たちに意味を持つためには、私たちが理解できなければなりません。そして理解するためには、出来事が起きる前に、それが語られている必要があったのです。
適切な例話はないかなと考えて、ノーベル賞に選ばれた人への連絡方法について調べました。ノーベル賞に選ばれた人への連絡方法は電話だということは何となく知っていました。そこで、たとえば、日本人のところに突然、英語やスウェーデン語で電話が掛かって来ても、何のことかわからないかもしれないじゃないですか。そこで、私は、「これからノーベル賞選考委員会から電話が入ります」といったような予告が日本語で入るのかなと思って調べたところ、そういうことはないそうです。いきなり、本人目掛けて電話をするそうです。なので、実際、迷惑電話だと勘違いされて切られてしまった例もあるそうです。
ノーベル賞ならたとえ電話を切ったしても受賞できなるわけではありません。しかし、少なくとも第一報で自分の名誉を理解することはできなかったのです。もし、事前に知らされていれば、受話器を取った瞬間、外国語が聞こえればすぐにそれとわかるでしょう。
イエス様の地上生涯は、「理解されずに愛の行いをなし、後にわかるために今語っておく」ということの連続だったのです。
⒊ これこそ神の知恵と愛
そして、それこそが神の知恵と愛なのです。私たちは、コスパ、タイパの時代に生きています。投資効果が期待できないところには、お金も時間も投入しません。むしろそうすることが罪であるかのようにさえ印象付けられています。
しかし、神様はわかってもらえるからやる、という方ではありません。報酬が期待できるからやる、という方ではありません。私たち罪人を愛して、そうせずにはいられないので、ご自分の正義と愛に基づいてことをなさる方です。そして、そのことを私たち人間が理解できるように、分からないときから繰り返し語るの方なのです。人間同士の関係でこれに一番似ているのは、親子の関係でしょう。親は、まだ泣くことしかできない我が子に言葉をもって、四六時中話しかけます。わからないけれども、反応がなくても話しかけます。嫌がっても必要なことはします。そうすることによってはじめて、子どもは理解できるようになり、一人の人格として成長していくのです。
まとめます。私たちは、これほどの神の愛に囲まれています。ご自身の罪のないいのちを私たち罪人が赦され神の子として生きていくために差し出してくださったのです。そして、それを私たちが理解できないときにしてくださり、理解できるように語っていてくださったのです。そして、理解したならばそれを忘れないように、パンを裂き、ブドウ酒を分ち飲むことを繰り返して行うように定めてくださったのです。私たちは、イエス様の御苦しみと尊い血潮を我がためなり、とことあるごとに感謝していただきます。そのことによって、イエス様と一つに結ばれるのです。そのイエス様との一体感を繰り返し繰り返し確認して保つことによって、私たちの信仰は確かなものとされ、成長していくのです。ご一緒に、今週もイエス様と結ばれていることを確かめながら歩んでまいりましょう。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、最後の晩餐の席でイエス様が語られたおことばを中心に学びました。この週、私たちがこのイエス様の裂かれたおからだに覚えられていることをいつでも思い起こさせてください。また、どんなことがありましても、あなたが流された尊い血潮の効力により、神が私たちを救うという誰も破ることのできない契約の中に守られていることを教えてください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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