2026年8月16日の主日礼拝説教動画、ショート動画、説教原稿をアップしました

□2026-08-16 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書15:40-41,47,16:1

□説教題 「それでも、そこにいた」

□説教者 山田誠路牧師

【序】

### ① 前回からの流れ

前回は、十字架の正面に立っていた百人隊長が、「この方は本当に神の子であった」と証言したところまで見てきました。今回は、その直後に記されている女性たちに注目したいと考えています。

彼女たちは百人隊長とは対照的に、「遠く離れて見ていた」と40節に記されています。しかし、この「遠くから見ていた」女性たちが、マルコの福音書のエンディングで大切な役割を担っていくことになります。

### ② マルコ福音書における女性たち

実は、他の福音書と比べると、マルコ福音書には女性の登場人物はそれほど多くありません。これまで物語の中心に登場してきたのは、イエス様、十二弟子、ユダヤ教の指導者たち、そして群衆などでした。

ところが、十二弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去った後、十字架の場面になって、これまでほとんど表舞台に出てこなかった女性たちの名前が突然記されます。しかも、この女性たちは、ここから次回以降扱います、47節の「埋葬」、16章1節の「空の墓」という、福音書のクライマックスを直に見て、証言者となっていくのです。

直弟子であった12人の男の弟子たちは、すでにイエス様逮捕の場面で逃亡していますので、イエス様の生涯におけるクライマックスである「十字架」、「埋葬」、「復活」という最重要の場面に立ち会えないことは当然ですが、代わりにというか、実際にその目撃者、証言者という重要な役割を担ったのが、女性たちであったということは、福音がどういうものであるかということにも本質的に関係してくることでもあります。

### ③ 三人の女性たち

40節には、その女性たちの中から三人の名前が挙げられています。「①マグダラのマリア、②小ヤコブとヨセの母マリア、そして③サロメ」の三人です。

今日はこの三人を一人ずつ取り上げながら、彼女たちがどのような人であり、どのような思いで十字架を見ていたのかを考えていきたいと考えています。

三人にはそれぞれ違った背景がありました。しかし、三人には二つの共通点がありました。一つは、十字架の前で、それぞれがある意味で「挫折」を経験していたということです。そしてもう一つは、それでも彼女たちは「そこにいた」ということです。

# 【本論】

## Ⅰ マグダラのマリア――「喪失」

### ① マルコ福音書におけるマグダラのマリア

 それでは、一人目の「マグダラのマリア」からご一緒に見ていきましょう。

マグダラのマリアは、意外なことにマルコ福音書ではここで初めて登場しています。16章9節まで視野に入れるなら、彼女はかつてイエスによって「七つの悪霊を追い出してもらった」女性であったと説明されています。少なくともマルコ福音書の読者たちには、彼女がそういう背景、そういうイエス様との出会いを持つ人物であったことが、よく知られていたのではないかと想像できます。

マルコ福音書の中で彼女の名前が登場するのは、15:40、15:47、16:1、そして16:9です。つまり、十字架、埋葬、復活という最後の場面に集中しているのです。

ですから、マルコがここで初めて彼女を登場させることには、復活の証人となっていく人物をここで紹介する、という意味もあったのではないかと思われます。

### ② 「復活の証人」は十字架から始まっている

復活の証人になるということは、ただ空の墓を見ればよいということではありません。その墓に葬られたイエス様が、確かに十字架で死なれたことを知っていなければなりません。そして、その遺体が確かに墓に納められたことも知っていなければならないのです。

マグダラのマリアはそのすべてを見届けました。確認しますと、15:40で十字架を見ています。そして15:47でイエスが葬られた場所を見届けます。そして、16:1以下で、同じ墓へ向かいます。ですから、彼女が復活の証人となっていく道は、空の墓からではなく、十字架上で苦しみ、こと切れるまでのイエス様のお姿を見るところに立ち続けるところから始まっていた。

### ③ しかし、その時の彼女にあったのは「喪失」

しかし、15章40節の時点で、マグダラのマリアがそんな重要な役割を担っていくことになることを意識していたとは到底考えられません。

むしろ彼女の心を満たしていたのは、圧倒的な喪失感だったのではないかと思います。自分を苦しみから救い出してくださった方。人生を変えてくださった方。ガリラヤからずっと従い、仕えてきた方。そのイエス様が、今、目の前で十字架につけられて死んでしまった。「私を救ってくださった方が死んでしまった。」マグダラのマリアにとって十字架は、まず「喪失」の場所だったに違いありません。しかし彼女は、その喪失を抱えたまま、それでもそこにいたのです。

## Ⅱ 小ヤコブとヨセの母マリア――「不理解と後悔」

### ① このマリアは誰なのか

二人目は「小ヤコブとヨセの母マリア」です。この人物については、福音書間の記述に、揺れというか違いがあり、またマルコ福音書の中だけを見ても呼び方が統一されていません。

・15:40では「小ヤコブとヨセの母マリア」。

・15:47では「ヨセの母マリア」。

・16:1では「ヤコブの母マリア」。

したがって、この女性が誰であるかを特定するには慎重さが必要です。ここでは、一つの伝統的な理解に従って、この女性をイエスの母マリアと考える立場から読んでいきます。もしこの女性がイエスの母マリアであるならば、マルコ福音書の中で非常に興味深い流れが見えてきます

### ② 「イエスの母」とは呼ばれない母マリア

実は、マルコ福音書には、マタイやルカのようなクリスマス物語がありません。そして、これも意外なことに母マリアの名前は、マルコではこれまで一度も出てきていないのです。

ただし、3:20以下には「マリア」という名前は記されていませんが、イエス様の母と兄弟たちが登場します。そこで家族は、イエス様の働きを理解し、応援する人々として登場したわけではありません。むしろイエス様を働きの真っ最中から、連れ戻そうとしてやって来た家族として描かれています。そして3:31以下では、母と兄弟たちは「外に立って」イエスを呼んでいます。

もし15章のこのマリアが同じ母マリアであるならば、そこには非常に印象的なコントラストがあります。3章では、イエス様を理解できず、「外に立って」いた母が、15章では、なおすべてを理解できていたとは思えないけれども、十字架から「遠く離れて」見ている母。

しかもマルコは、ここでも彼女を「イエスの母マリア」とは呼ばないのです。40節では「小ヤコブとヨセの母」47節では「ヨセの母」16章1節では「ヤコブの母」と呼んでいます。

マルコの6章3節にイエス様のことをナザレの人々が「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。」と話したという記述があります。

ですから、いま問題にしているマリアの息子としてマルコ15章40節と47節、16章1節に名前が出て来る、(小)ヤコブ、ヨセは二人とも、イエス様の実の弟たちの名前と一致しているのです。そして、初代教会ではイエスの兄弟ヤコブたちがよく知られた存在であったため、「ヤコブやヨセの母」という呼び方を用いたという可能性も十分に考えられます。

### ③ 母マリアにあったかもしれない「不理解と後悔」

もしこの女性がイエスの母であるなら、彼女はどのような思いで十字架を見ていたのでしょうか。生まれた時から育ててきた実の息子。その不思議な誕生、そして、その息子が始めた働きを、自分は十分理解することができないままでここまできた。一度は連れ戻そうとさえした。そして今、その息子が目の前で処刑されている。

「私はこの子のことを、本当に分かっていたのだろうか。」もしかすると、「あの時、もっと強く止めておけば、こんなことにはならなかったのではないか」という思いさえ胸をよぎったかもしれません。もちろん、そこまで本文に書かれているわけではありません。

しかし少なくとも、母親としての深い悲しみと、理解することのできなかった息子を前にした複雑な思いがあったことは想像できます。

母マリアにとって十字架は、「不理解」と、もしかすると「後悔」の場所だったのかもしれません。それでも彼女は、そこにいたのです。

## Ⅲ サロメ――「期待の崩壊」

### ① サロメは誰なのか

三人目はサロメです。サロメもマルコ福音書ではここで初めて登場します。このサロメについても、誰かを断定することは難しいです。

しかし古くから、マタイ27:56には記述があり、マルコの方にはその名前が出てこない「ゼベダイの子たちの母」と同一人物ではないかと考えられてきました。さらにヨハネ19:25との比較から、イエスの母マリアの姉妹であった可能性も高いのです。

今日はその理解に立って、このサロメを、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母、そしてイエスの叔母であった女性として考えていきます。

### ② 「右と左」を願った家族

この理解に立つと、サロメと十字架との間に、非常に興味深いつながりが見えてきます。マタイ20:20以下では、ゼベダイの子たちの母がイエスのところに来て願いでます。

「あなたが御国で王座に着かれるとき、この二人の息子を、一人はあなたの右に、一人は左に座らせてください。」と。

母親としては、息子たちの将来を思ってのことだったのでしょう。しかし、イエス様がこれからどのような「栄光」を受けようとしておられるのかについては、彼女はまったく理解していませんでした。

なおマルコ10:35以下では、母親ではなく、ヤコブとヨハネの本人たちが願いでた体で書かれています。マルコに母親が出て来なくても、二つを読み合わせると、少なくとも、そこに息子たちのみならず、母親に願いもあったと読むので自然でありましょう。

彼らはイエスに、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、一人を左に座らせてください」と願いました。マルコ15:27を見ると、実際にイエスの「右と左」にいる人たちが登場します。一人は右に、一人は左に。しかし、それらの人物は、ヤコブとヨハネではなく、二人の強盗でした。

### ③ 彼女が思い描いていた「栄光」の崩壊

これは非常に皮肉な光景です。弟子たちとこのサロメが思い描いていた「栄光」は、王座に着き、力を持ち、その右と左に重要な人物が座るというものでした。

しかし、実際にイエス様が「ユダヤ人の王」として掲げられた場所は十字架でした。その右と左にいたのは、栄誉ある側近ではなく、処刑される犯罪人でした。

ここに、マルコ福音書が語る「栄光とは何か」「イエスに従うとは何か」という大きな逆説があります。サロメはその光景を遠くから見ていたのです。自分が思い描いていた「イエス様の栄光」は、目の前で根底からひっくり返されてしまいました。

栄光を受けると信じていたイエス様は、最も惨めな姿で十字架にかけられているのです。息子たちの輝かしい将来を願っていたはずなのに、その息子たちの姿さえここにはありません。「私たちが思い描いていたものは、いったい何だったのだろう。」「この三年余り、私たちは何を見てきたのだろう。」

サロメにとって十字架は、「期待の崩壊」の場所だったのかもしれません。それでも彼女は、そこにいたのです。

# 【まとめ】

### ① 三人とも、決して「立派な信仰者」としてそこにいたわけではない

こうして三人を見てみると、十字架のそばに残った女性たちを、単純に「男性の弟子たちは逃げたが、女性たちは信仰深く勇敢だった」と美化した捉え方は、いかにも表面的だと思えてきます。

確かに、男の弟子たちはそこにおらず、いたのは彼女たちでした。しかし彼女たち自身も、十字架の意味を理解していたわけではありませんでした。復活を確信して待っていたわけでもありません。

マグダラのマリアには「喪失」がありました。「私を救ってくださった方が死んでしまった。」

母マリアには、「不理解と後悔」があったかもしれません。「私はこの子のことを本当に分かっていたのだろうか。」

サロメには、「期待の崩壊」があったかもしれません。「私が思い描いていた栄光とは、いったい何だったのだろう。」と。

喪失した人。理解できなかった人。期待を打ち砕かれた人。決して、すべてを理解して、確信に満ちて立っていた三人ではありませんでした。

### ② それでも、三人は「そこにいた」

しかし、この三人に共通する大切なことがもう一つありました。それでも、彼女たちは「そこにいた」ということです。悲しくても、そこにいた。分からなくても、そこにいた。期待が打ち砕かれても、そこにいた、ことです。

そして、イエス様が葬られれば、その墓を見届け、安息日が終われば、香料を買って墓へ向かったのです。16:1で彼女たちが香料を買ったということは、むしろ彼女たちが復活を期待していなかったことを示しています。「三日目によみがえるとおっしゃったから、墓へ行って復活を待とう」と考えていたのではなく、死んでしまったイエスの遺体に香料を塗ろうとしていたのです。彼女たちは復活を信じ抜いたから、復活の証人になったのではないのです。

### ③ 神が彼女たちを復活の証人へと導かれた

分からないまま。悲しいまま。期待を失ったまま。それでも彼女たちは、イエス様のそばを離れなかった。そして神は、そんな彼女たちを、彼女たち自身が想像もしなかった出来事の中へ招き入れてくださったのです。

十字架の場面に「遠く」ではあっても、そこに立ち続けた人たち。死んだイエスに最後の務めを果たそうとして墓へ向かった人たちが、復活の知らせを最初に聞く人々となっていくのです。

これは彼女たちが勝ち取った役割では決してありません。彼女たちの信仰が強かったから与えられたご褒美でもありません。神様が、ご自分の救いのご計画の中に彼女たちを招き入れてくださったからなのです。

### ④ 私たちも、十字架のもとに居続ける

私たちの信仰生活にも、マグダラのマリアのように、大切なものを失ってしまい、「なぜですか」としか言えなくなる時があるでしょう。母マリアのように、「私は何も分かっていなかったのではないか」と思う時もあるでしょう。サロメのように、「こんなはずではなかった。私が期待していたものと全然違う」と思う時もあるでしょう。

そんな時、私たちはすぐに答えを出すことはできません。無理に「分かりました」と言う必要もありません。立派な信仰を見せることもできません。


 【王貞治の例話】王貞治は、プロ入り後26打席10三振、ヒットを打てませんでした。

観客からは「三振王」とヤジられました。

本人だって、この先どうなるのか分かりません。

それでも水原監督は使い続けました。

そして27打席目。

初めて出たヒットが、ホームランでした。

もちろん、そのホームランが後の868本の「第1号」になることを、王自身は知りません。

26打席目に立っていた王には、27打席目のホームランは見えていませんでした。

27打席目にホームランを打った王にも、868本目は見えていませんでした。

ただ、その時に与えられていた打席に立った。

後から振り返れば、868本の物語は、そこから始まっていたのです。

十字架のそばにいた女性たちも、自分たちが復活の証人になるとは知りませんでした。

ただ、分からないまま、それでも、そこにいたのです。

私たちにもできることが一つあります。分からなくても、十字架のもとに居続けることです。悲しくても、十字架のもとに居続けることです。期待が打ち砕かれても、十字架のもとに居続けることです。十字架から離れないことです。私たちにできる最大のことは、そのことなのではないでしょうか。

そしてその時、私たちが神の計画を実現するのではないのです。神様の方が、私たちには到底思いもつかなかったご自分のご計画の中に、私たちを招き入れてくださるのです。

あの女性たちは、復活を見るために十字架のそばにいたのではありませんでした。しかし、十字架のそばにいた彼女たちを、神は復活の証人へと導いてくださったのです。だから私たちも、喪失の中で、不理解の中で、期待が打ち砕かれた時にこそ、十字架から離れないでそこに居続けようではありませんか。

一言お祈りいたします。

恵みの深い天の父なる神様。あなたの尊い聖名を心から賛美いたします。今朝は、イエス様の十字架を遠くから見ていた三人の女性たちから学びました。イエス様のご生涯の一番大切な場面には男の弟子たちは、居合わせることができませんでした。イエス様と寝食をともにしながら、神の国が進展していくのをリアルタイムで目撃してきたと思っていた弟子たちは、この場にはいられませんでした。遠くから見ていた女性たちも、分かってそこにいたわけではありませんでした。むしろ、喪失、後悔、当惑などの思いが胸に渦巻き、立っているのがやっとだったでしょう。しかし、神様はそこに立ち続けた女性たちを、やがての復活の証人として用意しておられました。十字架のイエス様を凝視することを辛いことです。十字架の意味を悟ることは難しいことです。その意味を悟り切ることは人間にはだれにもできないでしょう。今私たちがいるそれぞれのところにイエス様の十字架は立っておられます。そこに居続けることによって、私たちが到底自分では計画すらできない、あなたの大切なお仕事を担う歩みへと導いてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

コメント

タイトルとURLをコピーしました