2026年6月7日の説教動画、ショート動画、説教原稿をアップしました

□2026-06-07 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書14:43-50

□説教題 「こうなったのは」

□説教者 山田誠路牧師

導入 

前回マルコの福音書を学んだのは5月17日でした。その時は、ゲッセマネの園で祈り終わったイエス様が近くで眠りこけていた最側近の3人の弟子たちに「さあ、行こう」と言われたところまででした。本日は、いよいよイエス様が逮捕される場面です。今日のところには、いろいろな立場から大勢の人が登場してきますが、ひときわイエス様のお姿が輝いて感じられます。

本日のポイントとしては

Ⅰ 闇に輝くイエス様

Ⅱ 孤独で輝くイエス様

という大きく2点でお話を進めていきます。

本論

Ⅰ 闇に輝くイエス様

⒈ 弟子たちの裏切りと逃亡

①ユダの裏切り

イエス様が逮捕される場面でまず、描かれているのはユダの行動です。今は最後の一週間の木曜日の夜ですが、一日前の水曜日に一つの出来事がありました。それは、ベタニアである女、この女性はヨハネの福音書ではマルタの姉妹のマリアとはっきり書かれていますが、壺を割ってイエス様の頭に純粋で高価なナルド油を注いだということでした。

それを見たユダは「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と言ってこの女を責めました。しかし、イエス様はこの女性と彼女のしたことを褒めました。

その後、ユダは祭司長たちのところに行って、金をもらうかわりにイエス様を引き渡すことで話をつけていたのです。翌、木曜日の最後の晩餐では、マルコ福音書には明示的に書かれていませんが、途中で退席して、今日読んだテキストに登場した群衆を率いて、ゲッセマネにやってきたのです。ユダは、これまでのイエス様の行動パターンから、夕食後はゲッセマネに行くだろうという予測が立っていて、最後の晩餐の後半とゲッセマネの祈りの時間帯はひそかに別行動をして、ユダヤ教指導者当局が差し向けた群衆と落ち合い、イエス様の目の前に現れたのです。

ユダが口づけをもってイエス様を売り渡した、ということは有名ですが、それは、電気のない時代、十数名の同年代の男がイエス様サイドだけでも十数人、捕まえに来た方の男たちまで入れると相当の数の男たちがいたわけで、イエスを特定する合図として、口づけが使われたのです。わずかの報酬のために、口づけという親愛の情を表す行為を、自分の師を売り渡す合図にしてしまうことができる浅ましさは、ユダだけのものではありません。私たちもみな同じ闇を抱えている生き物であることを認めざるを得ません。イエス様が逮捕されたゲッセマネの園の闇には、そのような意味をも読み取ることができると思います。

②剣による抵抗

次に、47節に一人が剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、耳を切り落としたということが書かれています。他の福音書を見ると剣を振るったのはペテロだとわかります。最後の晩餐の席で3度の裏切りを予告されたペテロは、この時点では、むしろペテロ自身が言い放ったように、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」の言葉通りに行動しているかのように思えます。しかし、その勇気は長続きしませんでした。また、イエス様はペテロのそのような肉の勇気を評価されませんでした。また、イエス様も自ら剣で応戦されることは一切されませんでした。イエス様は無抵抗で、なされるままにいとも簡単にお縄になったのです。

③全員の逃亡

そして極め付きが50節の言葉です。「皆は、イエスを見捨てて逃げ出してしまった。」これは、とても悲しい記述です。逃げ出した方の弟子たちにとっても、見捨てられたイエス様にとってもあまりにも痛々しい出来事です。そして、これが、私たち人間が持つ限界を示す象徴的な出来事であり、これが私たちの現実なのです。善悪の判断も、正義を重んじる感覚も、人を尊敬し裏切りたくない感情・人情も、「自分が一番かわいい」という自己中心という獣の前には手も足も出ないのです。

⒉ ただ一つの目的に進むイエス

ここまで、テキストの筋を追ってきましたが、意図的に触れずに来たイエス様の姿に着目するときに、この場面でのイエス様のお姿が異様に輝いて見えてきます。そのことを感じるのは、49節の最後にある「こうなったのは、聖書が成就するためです。」というところです。

①あらゆる可能性を持つイエス様

口づけで裏切ったユダ。剣をもって抵抗したペテロ。剣と棒でイエス様を捕まえに来た群衆と彼らを差し向けたユダヤ教指導者たち、そして全員逃げ出した弟子たち。今日のところに出て来るイエス様以外の登場人物たちは、みな情けない姿をさらけ出しています。その中に囲まれているイエス様から出てきた言葉は、「こうなったのは、聖書が成就するためです。」だったのです。

ガリラヤ湖の嵐を一声で鎮め、五つのパンと二匹の魚から男だけで5,000人を満腹にし、その衣に黙って触れただけで12年間患ってきた長血を立ちどころに癒す力と権威に満ちていたイエス様。地上を歩まれたイエス様は、そういう方でしたから、逮捕を免れるための手段はいくらでもあったはずです。知恵を用いても、権威を用いても、自然界に働きかける力を用いても、御使いの援軍を要請することによっても。

②あらゆる可能性を封じるイエス様

しかし、イエス様は敢えて、その一つも使われなかったのです。それは、イエス様の生涯が、ただ一つの目的のために捧げられていたからです。その目的とは、聖書が成就するということです。マルコの福音書を一言でまとめているとよく言われる10章45節のことばで言うなら、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」ということです。真に優れた人とは、あらゆる能力と可能性を手あたり次第に使ってなるべく多くのことを実現させる人のことではありません。たった一つの一番大切な使命を果たすために、あらゆる能力と可能性を自ら封印することのできる人です。

⒊ 讃美歌「主よ、み手もて」から

ここで、さきほど歌いました讃美歌「主よ、み手もて」の話をしたいと思います。二節に「われと道を選び取らじ」という歌詞がありました。ここは、私は昔から、意味がよく分からなかったのです。まず、意味の切れ目が「我、富と知を選び取らじ」だとばかり思って長い間歌ってきました。しかし、ある程度してからそうではなくて、「我と、道を」だと知りました。しかし、それでもまだピンときません。なぜ、「我=自分」と「道」が同列に並べられているのか?それらを選び取らないとはどういうことなのか?

この讃美歌の作者は、ホレイシャス・ボナーという人で、スコットランドの讃美歌作者の王、と呼ばれ140以上の讃美歌を残している人です。結婚して次々に子どもに恵まれたのですが、幼い子供を相次いで5人亡くしたという深い悲しみを通った人でした。私たちがよく存じ上げている牧師夫妻で、生まれてすぐ一人の娘さんが亡くなったという経験を持っている方がおられます。その奥様はもう80歳を越えておられますが、今でも毎回、その時の話をされると目から大粒の涙がこぼれてきます。ましてや、5人もの幼い我が子を次々に失うというのは想像を絶する悲しみです。

今問題にしている「われと道を選び取らじ」というところは、英語の元の歌詞では、I dare not choose my lot; I would not, if I mightというところです。これは、まさに、「たとえ自分にそのようなことができるのだとしても、私は敢えて自分の道を選びません」という意味です。

ボナーほどの悲しみを通った人なら、「もしできるものなら自分はこのような悲しみを通る道を選びません」と歌うのが当然ではないかと思います。しかし、詳しいことは記録として残っていませんが、ボナーはそれほどの深い悲しみを通ったからこそ知りえた、更に深い慰めと平安にたどり着いたためにこの歌詞を書いたのだと思います。

彼は、できるとしても悲しみを自分で排除して悲しみのない道を自分で選ぶことはしない。神が定めた道がベストのベストだから、それを神様、あなたが私のために選んでください、と歌っているのです。

マルコ14:49でイエス様が言われた「こうなったのは聖書が成就するためです。」は、まさにそのような深さをもった言葉として響いてきます。

Ⅱ 孤独で輝くイエス

⒈ この世でのフォロワーゼロの意味

続いて、すべての弟子たちに見捨てられ逃げられてしまったイエス様のことをもう少し考えていきたいと思います。

まず、この世の基準で考えると、この時点でイエス様の33年の地上生涯、3年半の公生涯は失敗だった、という判断が下されることになると言ってよいかと思います。誰もついて行く人がいなくなった、というのは、その人が終わったということを意味します。協力者がいない、賛同者がいない、イベントを開いても誰も来ないでは、お金も集まらず、人を動かすことも、社会に影響を与えることもできません。スーパーのダイエーは一時新時代をけん引するリーディングカンパニーでしたが、お客がこなくなり、ほぼ消滅しました。

⒉ イエスが受け入れたフォロワーゼロの意味

しかし、不思議なことにここで終わってしまったかに見えたイエス様は終わらなかったのです。実際には逮捕されて弟子たちが皆逃げ出した14章50節よりも、更に進んで15章37節で十字架上でイエス様が息を引き取られたときには、ただ終わっただけではなく終わりが確定され、固定化されたと言えるでしょう。映画にたとえるならば、ストーリーが終わっただけではなく、エンドロールも終わり、会場の電気が付き、お客がすべて帰ってしまったくらい「終わり切った感」があったと思います。しかし、実は、本当の話はまだこれから始まる、というところなのです。

イエス様の生涯の本当の力は、山上の説教で誰もが感心するような言葉を残したことではないのです。皆が納得し、感心する神の国のたとえを幾つも語られたことでもないのです。病人を癒し、悪霊につかれていた人を悪霊から解放したことでもないのです。差別されていたサマリア人にも、ツァラアト・重い皮膚病に掛かって社会から疎外されていた人に近づいて手を置いたことでもないのです。それらもすべてとても大切なことです。

しかし、イエス様の真にイエス様らしい、イエス様にだけが持っておられた力は、フォロワーがゼロになってから遂行されたミッションにあるのです。

普通、イエス様の生涯は最初の30年を隠れた生涯、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受け、荒野で試みを受けるというある種のイニシエーションを経て始まった最後の3年半を公生涯と言って、二つに分けます。

しかし、今回、私は、このマルコの14の50節と何度も向き合いながら、イエス様の生涯は、ここからもう一段階踏み込んだ第三のステージに入ったと言った方がよいのではないかと思うようになりました。もし、名付けるとするならば、「孤独の生涯」となりますでしょうか。

時間的には、この時が木曜日の夜8時とすると、十字架で絶命するまでがあと19時間くらい。復活まで含めると残り時間58時間くらいです。最初の30年は、神の子でありながら、普通の人として生活されました。公生涯の3年半は、側近の弟子を持つと同時に多くの人に知られ、多くの人に影響を与えました。しかし、最後の数十時間は、もはやだれも同行できなかったのです。イエス様は一人で、公生涯よりもっと奥深いレベルで神の独り子であるご自分にしか果たせない使命の道を歩まれたのです。

ですから、フォロワーゼロになったマルコ14:50は、イエス様にとって、この地上での第三のスタート地点に立った時だったと言えるでしょう。

⒊ フォロワーゼロの絶対的な価値

ここで、一人のフランスの思想家の言葉を借りてみたいと思います。ルネ・ジラールというその人は、こう言いました。「人間は自分で欲望を生み出していると思っているが、実は他人の欲望を模倣しているに過ぎない。」たとえば、金に価値があるのはなぜでしょうか。金が美しいから、乱世に強いから、と私たちは答えます。しかしもう一皮むけば、他の人が金を美しいと思っているから自分も美しいと思い、他の人が金は乱世に強いと思っているから自分もそう思っているに過ぎない。人気のでどころは、実は模倣なのです。

とすれば、この模倣の連鎖の中から生まれたものが、その連鎖が生み出した問題、すなわち罪を解決できるでしょうか。できません。

フォロワー数とは人気のことです。人気とは、救われるべき罪におちた私たち人間が自らよいと思うことです。罪人の間で人気があることは、罪人を救うことはできません。罪からの救いは、この模倣の連鎖の外側から来なければなりません。それは、罪人の心にも頭にも浮かびようのなかった神のアガペーの愛からだけ出て来るのです。コリント人への手紙第一2章9節にこういう言葉があります。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は愛する者たちに備えてくださった。」まさにこれが神の愛です。人間の模倣の連鎖が決して生み出すことのできない場所から来た愛です。

それは、神から遣わされた独り子イエス・キリストにしか辿り切ることが不可能なプロセスを通って初めて表されるのです。人に捨てられ、弟子たちに裏切られ、弟子たちに逃げられ、孤独になり、さらに最後は十字架の上で父なる神様からさえも捨てられるということを通ってこそ私たちに届けられたのが福音なのです。

フォロワーゼロで何かを達成し、その達成によりフォローしなかった人まで救うことは人間には決してできません。しかし、イエス様はそれを成し遂げてくださいました。ここにこそ、福音の輝きがあるのです。

ホレイシャス・ボナーが連続して5人もの幼子をなくしてもなお、その先に慰めと平安を得ることができたのは、このフォロワーゼロから第三のスタートを切って、孤独に私たちの贖いの代価としてご自身を捧げてくださったイエス・キリストに触れられたからなのです。

私たちもこのイエス・キリストをこの週、もっと知らせていただきましょう

祈り

 一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今回は、イエス様が逮捕される場面をともに学びました。ユダの裏切り、ペテロの剣、弟子たち全員の逃亡という真っ暗な背景の中に、「聖書が成就するために」と言って使命の道に進むイエス様の姿を見させていただきました。「終わらないようにする救い」という安っぽい救いではなく、「終わったところから始まる」「終わった者を真に救い上げる」福音を、その実態であるイエス・キリストをもっと知る者としてください。これからの一週間、あなたが私たち一人ひとりに伴い、深みにこぎ出す勇気を与えてください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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