□2026-05-24 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 コリント人への手紙第一3:10-16
□説教題 「神の御霊が自分のうちに」
□説教者 山田誠路牧師
導入
本日は、全世界の教会とともにペンテコステ(すなわち聖霊降臨)をお祝いする礼拝です。いつものマルコの福音書から離れまして、特別講壇として今朝の御言葉から教えられたいと思います。
キリスト教の三大記念日は、クリスマス、イースター、ペンテコステです。その中で、一番わかりにくいのがペンテコステではないかと思います。クリスマスはイエス様がお生まれになったことを、イースターはイエス様が墓から蘇られたことを、それぞれ記念しています。イエス様に関することですから、形もあり、目で確かめられるという面があります。それに対してペンテコステは、「聖霊」が、信者の一人一人に下ったということです。聖霊はよく風にたとえられます。風が吹けば、ビューという音がしますし、木々が揺れたり、屋根が飛んだりと現象を捉えることはできますが、「聖霊」自体は決して五感で捉えることはできません。
しかし、ペンテコステは、多分、三つの中でもっとも私たちにとって重要な意味を持っています。なぜなら、基本的にクリスマスもイースターもイエス様について起こったできごとですが、ペンテコステは、弟子たちに起きた出来事であり、21世紀に生きる私たちにも同じ恵みが提供されていて、その恵みに同じように与かることが望まれていることであり、また可能なことだからです。
さて、本日は、旧約聖書と新約聖書を跨いで、少しスケールの大きな話をすると同時に、私の個人的な体験という極めて個人的なスケールの小さな話をしようと思っています。
本日のポイントとしては
Ⅰ 旧約時代のソロモンの神殿
Ⅱ 新約時代の私たちという神殿
Ⅲ わたしの証し
という3点でお話を進めていきます。
本論
Ⅰ 旧約時代のソロモンの神殿
⒈ 幕屋から神殿へ
紀元前960年頃、今から約3000年前にエルサレムにソロモン王によって神殿が完成しました。それ以前は、イスラエル民族の中では神様の住所は固定されていませんでした。神様の臨在の象徴は中に十戒の板が二枚入っている「契約の箱」でした。それには担ぎ棒がついていて、イスラエル民族の移動に従って持ち運ばれ、動かないときには専用のテントを張って、その中に安置していました。そのテントも折り畳み式で、移動式でした。
ダビデ王が12部族を統一し、周辺諸国に対しても軍事的優位に立って平和が実現したとき、ダビデはずっと心の内に温めていた神殿建設の願いを預言者ナタンに打ち明けます。神様から返ってきた答えは、神殿を建てるのは、あなたではなくあなたの息子だ、というものでした。ダビデは謙って、そのお告げを受け入れ、息子ソロモンがやがての日に立派な神殿を建てられるように、残りの在世中は、神殿建設に必要な金銀木材などを集める準備に精を出しました。
⒉ ソロモンの祈り
ソロモンは平和と繁栄の時代を象徴する王様で、7年の歳月をかけて立派な神殿を完成させました。本日、交読文で読んだのは、その神殿をソロモンが奉献するときの祈りの場面です。
列王記第一8章27節をご覧ください。ここでソロモンが意外なことを祈りの中で口にします。父ダビデの時代からの親子二代にわたる悲願を達成した記念ですから、そこに実現された荘厳さ、立派さ威風堂々たる景観を祈りのなかでアピールしても然るべきと思われるのに、なんとソロモンの祈りはその正反対だったのです。
「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」と言うのです。それなら、「なんのために建てたの?」と聞いてみたくなります。
ソロモンは続いてこう祈ります。29節をご覧ください。「そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。」
ドライな言い方をすると、この神殿は神様ご自身が住まわれるのではなく、神様の名前を置くところ、そして、そこに向かって祈りがささげられるときに神様がその祈りに聞いてくださると約束してくださるところ、ということになります。
神の御住まいとして建てられた神殿も実は、神ご自身を住まわせることはできず、あくまでその表札が建てられた家主不在の出張所のようなものだったのです。そこに祈りの郵便受けがあって、そこに届いた郵便はすべて家主に同時に転送されるというようなイメージでしょうか。紙の手紙ならいくらか転送に時間が必要ですが、電子メールならメアドAに到達したすべてのメールが同時にメアドBにも転送されるというのは当たり前に実現できますよね。
Ⅱ 新約時代の私たちという神殿
⒈ 聖書の文脈
続いて、大きな二つ目の「新約時代の私たちという神殿」に入って行きたいと思います。ここから、さきほど読んだ本日のテキストになります。ここは、土台の上にどんな家を建てるかという形でキリストの教会のことをパウロが語っている箇所です。土台は、イエス・キリスト、その上に建て上げられる家は教会のことです。そして、その教会を建て上げる際に、土台の次に問題にしたのが、建材です。12節に6種類の建材が列挙されています。金・銀・宝石の最初の三種類が火に耐えられるもの、木、草、藁の後半3つが火に耐えられないものです。そして16節に建て上がった教会がどういうところかが書かれています。
少し、刺激的な言い方をあえてしますが、礼拝をするところ、コンサートをするところ、講演会をするところ、バザーをするところなどとは一言も書いてありません。それはすべて、教会をある面積や容積をもった空間と捉えた場合の用途です。16節に書いてあることは、神の御霊が住まわれるところだと言うのです。
16節をもう一度読んでみたいと思います。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」ここでパウロは、「あなたがたは、自分が神の宮であり」と言っています。あなたがたが、お金を集め、設計士に図面を引いてもらって、工務店と契約して建ててもらった教会が神の宮だとは言っていません。教会は人の集まり、人の交わりです。そして、その交わりの中に神の御霊が住み、また、その交わりに連なる一人一人の内に御霊が住んでくださるのです。
⒉ 旧約と新約の比較
①イエス様のケース
もうお気づきになったと思いますが、ここに旧約の時代と新約の時代で、大きな違い、大きな対比があるのです。ある意味、旧約の時代は、その絶頂のときでも神様は天におられ、地上には不在の駐在所を設け、表札だけ出しておられたのです。そしてたとえて言えば、天皇陛下が葉山や那須の御用邸においでになるように、特別な状況には特別に滞在されることがある、というような説明がある程度許されるのではないかと思います。
しかし、新約の時代は、なんと、神の御霊が、すなわち三位一体の神の一格である聖霊なる神が私たちの内に住んでくださる、というのです。
すべての新しいことには、先駆けが必要です。1950年代まで、陸上競技の世界に、一つの人間には破れない壁があると言われていました。それは、1マイル(1,609メートル)を4分以内で走るということでした。人間がそれ以内のタイムで走ると、心臓と肺が破裂するからだと言われていたそうです。それは、医学的、科学的にそうなのだと信じられていたのです。しかし、1954年にロジャー・バニスターという人が3分54秒9というタイムを出して、人間の体にはそのような限界はないことを証明しました。すると、その46日後に別の人間が彼の記録を塗り替えました。そして数年後には、何百人という人が1マイル4分の壁を突破してしまったのです。
イエス様が地上に人となって来られ、公生涯をはじめるに当たってバプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになったとき、「御霊が鳩のように天から降って、この方にとどま」ったと書いてあります。そして、使徒の働きの2章3節に「一人ひとりの上にとどまった」という同じ表現が出て来ます。
人となって来られたイエス様こそが、聖霊との関係におけるロジャー・バニスター、すなわち限界突破の先駆けだったのです。
②私たちの場合
次に私たちの場合について考えてみたいと思います。このポイントをお話しするときに、一番強調したい聖書のことばは、「あなたがたは…知らないのですか。」という言葉です。16節の最初と最後がそのことばで枠をはめる形になっています。今朝、テキストを選んだコリント人への手紙第一には、この「あなたがたは…知らないのですか」という表現が、ここが最初となって全部で10回出て来ます。
そして、パウロがこのコリント第一の手紙で繰り返し使っているキーワードに「奥義」という語があります。こちらは、全部で5回使われています。パウロはこのコリント人への手紙を書きながら、これまで明らかにされてこなかったけれども、今やはっきりと示され実現した神様のご計画、それを奥義と呼んで伝えようとしているのです。ですから、いきおい「あなたがたは知らないのですか」を連発しているのです。奥義とは「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられること」なのだと言っているのです。ソロモンが聞いたらびっくりして腰を抜かすようなことなのです。ダビデが聞いたら羨ましがってどうしようもないかもしれません。それほどのことなのです。
Ⅲ 私の証し
最後に私の証しを短くしたいと思います。私は高校二年生のときにイエス様を信じて救われました。当時私は、いろいろなことに悩み、生きていく力がなくなっていました。16歳で死んでも70、80まで生きて死んでもどうせ死ぬんだから、自分のその間の苦労が面倒くさい。だから早く死んだ方が楽だ。でも死ぬほどの勇気もない。だから、しょうがなくて生きている。という状態でした。ですから、毎日がとてもつらかったのです。夜布団に入って横になるのが一番好きでしたが、次の瞬間朝がやって来る。朝が一番嫌いでした。昨日、やっとのことでだましだまし一日を終えたのに、もう容赦なく新しい一日が押し寄せてきた。もう一度、あれと同じだけの重荷を引きずって時間を過ごさないと布団に入れないのか、と思うと絶望的な気持ちになりました。ヤカンでお湯を沸かしていて、そのままにして中身が全部蒸発するとヤカンが焦げ付いてきますが、自分の生きていく力が焦げ付いてきたという感覚でした。
そんな時、教会に来て、わらにもすがる思いでイエス・キリストを信じました。私を愛し、私のために身代わりとなって十字架に掛かって死んでくださった方がおられると聞きました。もし、そんな方が本当におられるなら信じたい。もし、そんな方がおられると信じられるなら僕でも生きていける、そういうふうに思って、賭けるような思いで「信じます」と告白しました。
すると、不思議なことが起こりました。その夜、いつものように布団に入り、翌朝、目が覚めたとき、心がなんだかポカポカと温かかったのです。そして、世界が明るく輝いて見えたのです。そして、あのずっと重くて重くてもう引きずっていけないと思っていた生きていく重荷がまったくなくなっていたのです。
そして、その夜寝る時に、一つの心配が心に浮かんできたことを今でも覚えています。それは、何かというと、昨日信じてボクの心に住んでくださったイエス様が、寝がえりを打ってうつ伏せになったら、押されてゴボっと口から出てきたらどうしよう、という心配でした。それほど、私はイエス様が私の内に住んでくださったということをリアルに実感しました。そして、聖書を読み進んで、今日の箇所を読んだとき、これは自分のことを言っている、と実感しました。
それは、もう45年以上も前のことです。それから今に至るまで、さまざまなことがあり、脱線があり、停滞もあり、過ちも沢山犯してきました。しかし、「私の心にお入りください」と祈ったあの時から、イエス様が私の内に住んでいてくださるということは紛れもない事実です。
ここで、一つ言葉の整理をしておきたいと思います。私は、今日の前半では、「神の御霊が、聖霊が内に住む」という言い方をしてきました。しかし、私の個人的な証しでは、「イエス様が内に住む」という言い方をしました。それは、別物なのか一緒なのか、というとそれは一つのことです。
どちらかだけが成り立つことはありません。イエス様が内に住んでいてくださるならば、それは聖霊が内におられるということです。聖霊が内におられるならば、それはイエス様が内に住んでいてくださるということです。イエス様が、人となり、この地上で私たちと同じように生きられ、十字架に掛かり、尊い命を投げ出して私たちの罪を赦す贖いを成就し、三日目に復活され、40日後に昇天された、そのすべてのゆえに、バトンタッチのように、その10日後、すなわちイースターから50日目のペンテコステの日に聖霊が一人一人の上に注がれ、留まったのです。今、イエス・キリストは聖霊によって、信じる私たち一人ひとりの内に住んでくださるのです。
これこそが、奥義なのです。シバの女王がその知恵を聞くために謁見を求めに行った知恵の王ソロモンでさえ、知りえなかった神の奥義なのです。これに与からないでいることは最大の損失です。ぜひ、この奥義を追求しましょう。
祈り
一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今回は、旧約、新約を縦断して聖霊が私たち一人一人の内に住んでくださる、という奥義を学びました。言葉にすると大げさに聞こえるかもしれません。奥義と私たちの身の回りの現実に大きなギャップを感じるかもしれません。しかし、2000年の歴史を持つキリスト教があのペンテコステによって始まったことは紛れもない事実です。始まってまだ間もないこの喜多見チャペルに、この奥義に与かる、ペンテコステ的な小さな出発を与えてください。ここに集うお一人一人がその恵みに与かることができるようにお導きください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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