□2026-06-21 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書14:53-65
□説教題 「わたしが、それです。」
□説教者 山田誠路牧師
# 導入
### ⒈ 不当な裁判
前回のところで、逮捕されたイエス様は、次に、連行されて裁判にかけられるというのが今回のところです。しかし、この裁判は、裁判といってもいくつか通常とは違っている要素があります。
53節に、大祭司、祭司長たち、長老たち、律法学者たちとこれまでもマルコの福音書に出てきたユダヤ教指導者たちが集まってきました。
大祭司は、ローマの属国となっていたユダヤの国である程度の自治が認められていた範囲での、宗教的、行政的、司法的な最高権力者でした。この時の大祭司はカヤパという人物でした。
祭司長たちは、元大祭司や、大祭司一族、上級祭司などを指します。
長老たちは、祭司ではない有力者たち、律法学者たちとは、主としてパリサイ派に属する聖書解釈の専門家たちでした。
そして、55節に最高法院という名前が出てきます。これも、すでにおなじみになっているかと思いますが、カタカナでサンヘドリンと言います。今、出てきた祭司長たち、長老たち、律法学者たちが最高法院の三つの構成要素で、そのトップに大祭司が議長として君臨している、という形でした。
夜のうちに、しかも大祭司の官邸に集まって、ただちにイエス様を裁こうとします。そして、「不利な証言をしたが、一致しなかった。」ということが繰り返されています。そして、58節に一つ具体的な訴追事項が書かれています。それは、「この男は神殿を壊し、人の手によらない神殿を三日で建てる」と言った、ということでした。これは、ヨハネの2:19でイエス様が実際に言われた言葉です。ですから、この訴えでまとまってもよかったと思うのですが、イエス様のお言葉を都合よく捻じ曲げて告発したため、かえって話が食い違ってしまったようです。
そして最後に議長である大祭司自らが尋問に立ち、冒涜罪を適用して死刑を宣告します。ここまで、この裁判の流れをたどっておいて印象付けられることがあります。それは、裁判とは本来、真実を明らかにするための場であるはずであり、サンヘドリンを構成する祭司長、長老、律法学者といったユダヤ教指導者たちは、神の律法と正義を守る側の人々であるはずです。ところが彼らは、少なくとも通常の公開裁判とは異なる夜のうちに集まり、結論ありき、死刑ありきでイエス様を有罪にしようとしているということです。
真実を明らかにするはずの裁判が、真実を無視して進められています。正義を守るはずの者たちが、正義を曲げて、正義そのものである方を裁いているのです。
ここまで、この裁判の様子を捉えておいて、本日のポイントをお示しします。
本日は
> Ⅰ イエス様の沈黙と証言
>
> Ⅱ 裁いている者が裁かれる
>
> Ⅲ みじめさの底で語られた福音
という大きく3点でお話を進めていきます。
# 本論
## Ⅰ イエス様の沈黙と証言
### ⒈ 自分を守るためには沈黙する
> さて、このような不正な裁判の中でイエス様はどのような態度を取られたのでしょう。まず、イエス様は、何も答えなかったのです。普通、裁判や取り調べの中で黙秘を貫くのは、自分に不利な証言を隠すためです。しかし、自分がやっていないことをでっちあげられて訴えられている人は、黙秘権を使いません。人間いろいろな理不尽に耐えることができても、濡れ衣を着せられることには耐えられないものです。自分の汚名を晴らすためなら、どんなことを犠牲にしてもかまわないと思うものです。
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> しかし、今日交読文で読んだペテロの手紙第一2章23節~24節にあったように、イエス様は「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばく方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」と書かれている通りのお姿でした。もし、イエス様が自分のために生きていたのなら、大いに口を開いたでしょう。しかし、一つも口を開かれなかったのです。ローマ14:7に「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいない」とありますが、まさに地上を歩まれたイエス様はそのような生き方をされたのです。
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> イエス様は自らを守る言葉を持ちながら、それを用いることをなさいませんでした。ゲツセマネで剣を抜かなかったように、ここでも自らを守ることを拒まれました。これは無力ゆえの沈黙ではなく、私たちを救うための積極的な沈黙なのです。
### ⒉ 神の真理のためには証言する
> ところが、イエス様は最後まで沈黙を通したのではありませんでした。カヤパから「おまえは、ほむべき神の子キリストなのか。」と問われたときには、真正面から「わたしが、それです。」とお答えになりました。ご自分を守るため、生き延びるためには一言も口を開かなかったイエス様は、真理を証しするためにはその口を開かれたのです。
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> ヤコブは、「ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」「舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。」と言っています。実に私たちは、この口を正しく使うことができない者です。言わないでよいことは、べらべらとしゃべり、真理を証しすべきときには、勇気がなくなって口を閉じ保身に走ってしまう。しかし、イエス様の姿は実に愛と勇気の真実に満ちています。
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> もう少しイエス様のお言葉に注目していきましょう。「わたしが、それです。」の「それ」は、カヤパのことばでは、「ほむべき方の子キリスト」を指しますが、「ほむべき方」とは「神」の婉曲表現です。ですから、イエス様は、ここで「私は神の子、キリストです。」とご自分のことを言われたということなのです。実は、皆さん、驚くかもしれませんが、マルコの福音書でイエス様がこれほど明確な形で言われたのは、ここが最初で最後なのです。
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> しかし、「イエス様こそが、神の子キリストである」というのは、実は、マルコの福音書を貫く最重要のテーマなのです。それは、1章1節の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」というこの福音書全体の表題の形でまず現れます。次に、ピリポ・カイザリアの近くでペテロがイエス様から「わたしを誰だと言いますか」と問われたとき、「あなたはキリストです。」と答えました。そして最後に、15章39節で、十字架上でイエス様が最後の息を引き取った姿を目の前で目撃したローマの百人隊長が「この方は本当に神の子であった。」という証言でこのテーマが結ばれます。
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> その中で、一番大切なイエス様のご自身の口からの証言が、今日ご一緒に読んでいるこの場面、不正な裁判で大祭司カヤパから尋問された時の答えとして出てきたのです。ですから、ここは、まぎれもなくマルコの福音書の一つのクライマックスです。
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> しかし、注目すべきことは、この「私は神の子キリストである」という証言が、栄光の王座からではなく、逮捕され、縛られ、偽証人に囲まれ、有罪判決を待つ場面で語られているのです。
## Ⅱ 裁いている者が裁かれる
### ⒈ なぜカヤパは衣を裂いたのか
> さて、イエス様のお答えは「わたしは、それです。」では終わりませんでした。続いてこう語られました。「あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになる。」
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> カヤパが大祭司の衣を引き裂いて「これは神への冒涜だ!」と怒りを露わにした理由は、実はこちらにあったのです。イエス様がご自分を神と等しい者とした、ということこそが冒涜なのですが、カヤパの怒りに一瞬にして火をつけたのは、それだけではなかったのです。それでは、このイエス様のお答えの後半は、どんな意味を持っているのでしょうか。
### ⒉ 詩篇とダニエル書の成就
> それを突き止めるためには、この言葉の背景を知る必要があります。実は、この部分は、イエス様が自分で考えて自分で言葉にしたというよりも、旧約聖書を引用して語られたのです。
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> 「人の子が力ある方の右の座に着き」は詩篇110篇の1節の「主は 私の主に言われた。『あなたは わたしの右の座に着いていなさい。』」というところから取ったものです。
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> そして続く、「天の雲とともに来るのを見ることになる」は、ダニエル書7章13節の「見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた」というところから取っています。
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> 前者は、キリストの神の右への着座、後者は、天的な支配権の授与を描いています。イエス様は、この二つを結び付けて、「今縛られている自分こそが、やがて神の右に座る人の子である」と宣言されていたのです。
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> 当時、サンヘドリンにいた人たちは、イエス様の言葉を聞いてたちどころに、詩篇とダニエル書を引用したことと、その意味がピンと来ました。目の前の被告が、ユダヤ教とユダヤ人コミュニティーを神から権威を託されて守り、納めていると自負している自分たちの上に立ち、自分たちを裁く者だと言ったのです。
>
> ただのメシア宣言ではなく、自分たちを裁く神の権威そのものを主張したからこそ、カヤパは衣を裂くほどの怒りに火がついたのです。その感覚こそが「冒涜だ」と一刀両断で罪に定めたことの真の理由だったのです。そして、それこそが、この裁判の不正さを露わにしているのです。
## Ⅲ みじめさの底で語られた福音
マルコ福音書は1章1節から「神の子イエス・キリスト」を主題として掲げ、14章をかけてそのキリスト像を描いてきました。そしてその夜、カヤパがイエスに投げかけた問い――「あなたはキリストか」――は、福音書全体が読者に向けて問い続けてきた問いそのものです。
その問いにイエス様は答えられました。縛られ、偽証人に囲まれ、唾をかけられる直前に、「わたしはそれです」と。
私たちは、神の働きもまた目に見える成功や勢いによって判断しがちです。神の力というと、圧倒的な強さ、勝利、支配を思い浮かべます。しかしマルコが描く神の子はそのようなイメージとは正反対の姿をしています。勝者であること、優勢であること、多数派であること、影響力が強いこと――これらは福音とは根本的に無関係です。
本当の福音は、反対勢力を制圧することの上に成り立つものではありません。むしろ、とことん反対勢力の力を受け、死にまで追い込まれ、自分を死に追いやった者たちの罪さえ引き受けて神の赦しを与える。その測り知れない赦しが、制圧する強さを圧倒的に凌駕するのです。そこにこそ福音の力があります。それこそが、福音が福音である理由なのです。
最後に一つの話をして終わりたいと思います。2003年12月13日、バグダッド陥落から約8か月後、サダム・フセインはティクリート近郊の地下壕に隠れているところをアメリカ兵に発見されました。米軍関係者の証言によれば、そのとき彼はこう言ったとされています。「私はイラク共和国の大統領だ。交渉しよう。」
「私はイラク共和国の大統領だ」という言葉と、イエス様の「わたしは、それです」は、表面上似ていると言えなくもありません。どちらも、みじめな状況の中での「自分は最高位にある者だ」と宣言したという点で共通しています。
しかし「交渉しよう」という部分が決定的に違います。そこには自分の保身以外の目的はありません。
イエス様の「わたしは、それです」には、交渉も保身もありません。屠り場に引かれていく小羊のような従順だけがあるのです。神の独り子が私たちすべての罪を一人で身に負う姿は、これ以外にないのです。
ユダヤ教トップの大祭司は「冒涜だ」と言いました。ローマの百人隊長は「本当に神の子であった」と告白しました。そしてマルコ福音書は今朝、私たちにも問いかけています。
「あなたは、この方を誰だと言い表しますか。」
# 祈り
一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今回は、イエス様が最高法院で不正に裁判を受けている場面を学びました。屠り場に引かれていく羊のような、無抵抗のイエス様。ご自分を守るためには一言も発しないイエス様。しかし、真理の証し、ご自分が誰であるかの証しのためには、一歩も引かなかったイエス様。縛られ、土間に座らされ、不正な裁判で有罪にされるそのみじめな姿こそが、神の右の御座に着座する階段の最後の一段であり、自分を裁いている者たちこそが裁かれる者であることを明らかにする福音はあまりにもダイナミックです。
どうぞ、あなたに従って行こうとする私たちの目を開いてください。成功、勝利、勢い、人気、そういう物指しで自分と周りを測ろうとする誘惑にいつでも私たちはさらされています。そして、それに目を奪われないでいることは難しいことです。
しかし、聖霊の助けにより、カヤパの前にみじめに縛られたまま「わたしが、それです」と言われたあなたをいつでも主とする霊性と信仰を与えてください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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