□2026-05-17 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書14:37-42
□説教題 「さあ、行こう」
□説教者 山田誠路牧師
導入
本日は、前回予告いたしましたように、「ゲッセマネの祈り」の後半を扱う、二回目となります。先週私は、「一回目はイエス様に、二回目は弟子たちに焦点を当てる」と申しましたが、実際、説教を準備する段階で、今回も弟子たちというよりはイエス様に焦点が当たることになりました。あらかじめ、その点だけ、お断りしておきたいと思います。
ちなみに、来週はペンテコステですから、いつものマルコの福音書とは別の箇所からお話しする予定です。
ゲッセマネの全体像
今回、私は、聖書のこの箇所を何度も読み返す中で、「ゲッセマネの祈り」の全体像の理解に新しい光を与えられました。それは、「ゲッセマネの祈り」には、イエス様の二つの苦闘が記されているということです。一つは、父なる神との祈りの苦闘。もう一つは、弟子たちとの苦闘です。そして、イエス様はこの両方の苦闘において、見事に戦い抜かれました。前回は、前半の祈りの苦闘を見させていただきました。今回は、弟子との苦闘です。
本日のポイントとしては
Ⅰ 弟子たちの姿
Ⅱ イエス様の姿
Ⅲ イエス様のことば
という3点でお話を進めていきます。
本論
Ⅰ 弟子たちの姿
⒈ 3度寝入る
今日の箇所に描かれている弟子たちの姿、より正確に言うと、12弟子の中から特別にそばにいるように選ばれたペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の姿は、非常に情けないものです。イエス様は、先週ご一緒に読みましたあの緊迫した全存在を注ぎ出す祈りを、3回されたことが記されています。なんで3回と数えられるかというと、その都度、3人のそばまで連れてきた弟子たちからさらに少し離れたところに行って、祈り、そして弟子たちのところに戻ってくるということを3回繰り返しているからです。だから回数を数えられるのです。そして、39節に「前と同じことばで祈られた」、41節には「イエスは3度目に行って戻ってくると」とあります。
そしてその3回、イエス様が少し離れて祈っておられる間、弟子たちがどうしていたかというと、3回とも眠っていたことがわかります。しかも、先週学んだ34節を見ると、そばまで連れてきてもらった3人の弟子たちにイエス様が唯一要求されたことは、「目を覚ましていなさい」だったのです。
なんということでしょうか!どれほど鈍感な弟子たちであったとしても、この場面がイエス様の生涯においていまだかつてない大切な場面であることはわかっていたでしょう。自分たちには、「つまずくこと」、「知らないと言うこと」などの不吉な予告もされています。そしてそれを必死で否定したばかりです。それで、「目を覚ましていなさい。」とだけ言われていたのに、よりにもよって、3人が3人ともイエス様が戻って来られたとき、眠りこけていたのです。
⒉ なぜ眠りこけていたのか
この「3度」、或いは「3度とも」眠りこけていた、ということには少なくとも2つの意味を読み取ることができます。
①3度は「確定的」を意味する
一つ目は、たまたまではなかったということです。聖書では、3回というのは、物事が確定的になるということを表す数字です。パウロは自分の病が癒されるように3度祈ったが3度ともその祈りは聞き届けられなかった、ということが書かれています。3度目で確定的になったので4度目はありません。。日本のことわざにも「三度目の正直」など、3度目で何かが決定的になるという意味合いを持っています。
3人が眠り込んでいたのは、この時たまたま疲れていたから、このときたまたま食べ過ぎたから、という一時的な要因ではなかったということです。その原因は、彼らの霊的な愚鈍さでした。38節にイエス様の「霊は燃えていても、肉は弱いのです。」というお言葉があります。
弟子たちの霊的愚鈍さは、「肉は弱いのです」の部分をわかっていないということです。ペテロはつまずくこと、3度知らないということを予告されたとき、「持ち前の勇気」「持ち前の威勢の良さ」で乗り切ろうとしました。しかし、「持ち前の」でなんとかなると考えていることが、弟子たちの愚鈍さなのです。それが眠り込んでしまった原因です。ほんの少し離れたところで繰り広げられているイエス様と父なる神様の祈りの苦闘は、人間の「持ち前の」何かがまったく歯が立たない次元なのです。それをわかっていないところが、この眠りの本質です。
②3度の否認の予告灯
「3度」の二つ目の意味は、すでに予告され、このあとすぐに実際に起きるペテロの3度の否認の予告灯のようなものです。ペテロがイエス様を3度知らないと言ったのは、その時勇気が足りなかったからではありません。3度眠り込んでいた人は、その時点で3度知らないということが目に見えているのです。ペテロは必死で否定しましたが、大祭司官邸の焚き火の近くに行かなくても、このゲッセマネで失敗は確定していたのです。
⒊ マルコを一貫する弟子たちの愚鈍さ
そして、実は、このペテロをはじめとする弟子たちの霊的愚鈍さはゲッセマネに限ったことではありません。マルコの福音書では、ほぼ一貫して弟子たちは霊的に目が開かれていない、大切なものが見分けられない者たちとして描かれています。
そしてマルコの福音書に描かれているイエス様は、エルサレムのユダヤ教指導者たちや、ご自分のいのちを付け狙っている勢力だけではなく、この愚鈍な弟子たちに正面から誠心誠意向き合われるのです。
Ⅱ イエス様の姿
⒈ 時が来るまで
続いて、ゲッセマネ後半のイエス様のお姿を見ていきましょう。まず、押さえておきたいことは、イエス様はこの地上生涯でもっとも真剣なこの祈りを3回繰り返されたということです。これは父なる神様に向かう姿です。先週36節の祈りのことばを5つに分解しましたが、最後の5段階目「あなたがお望みになることが行われますように」までくれば、私には「イエス様は祈り切った」という感覚を持ちます。
しかし、聖書は、さきほども見ましたが、39節に「前と同じことばで祈られた」とあり、41節で「イエスは3度目に戻ってくると」とあって、これが3度も繰り返されたことがわかります。これはどういうことなのでしょうか。こちらの「イエス様の3度」にはどのような意味があるのでしょうか。
マルコのテキストに一つヒントがあるとするならば、41節の中頃にある「時が来ました」という言葉です。イエス様は時がくるまで祈り抜かれたのです。一度祈り切ったというところに到達しても、まだ、さらにその奥があるのです。祈り切ったら祈るのをやめるのではなく、さらに祈り続けるのがイエス様のお姿です。
そして、それに終わりを告げるのは、父が定める時です。完全に人となられたイエス様は時に関してはご自分で支配されることなく、父に委ねておられました。父の定めた時が来るまで、忠実に祈りを深め続ける、それがイエス様の姿でした。
そして、このお姿はペテロを代表とする「持ち前の肉」でやっていけるという姿と好対照です。「持ち前の何かで」やっていける目途が立っている人は、それ以上祈ることはしません。
⒉ 父と弟子たちのはざまに
ゲッセマネの後半に見られるイエス様のお姿の二つ目は、「父と弟子たちのはざま」を行き来するお姿です。3度祈りに行かれたということは、3度父と弟子たちとの間を行き来されたということです。距離にしてみればほんの数十歩程度であったかもしれませんが、この行き来は非常に象徴的です。
イエス様の地上生涯は言ってみれば、いつでもこのように一方で父なる神様に向かって使命を果たしていくという面と、まだ愚鈍である弟子たちに対して真剣に向かう面の二正面で展開されてきたのです。そして、このゲッセマネの祈りの場面は、まさに、そのクライマックスなのです。
この一番大事な場面で、イエス様はわざわざ3度も、どうせ眠りこけている弟子たちのところに戻って来なくてもよさそうなのに、と思わないでもありません。「イエス様、行ってもがっかりするだけだから、行かない方がいいですよ」とアドバイスしたくなりそうです。
しかし、不思議なことにイエス様はそれでも3回も弟子たちのところに戻って行かれるのです。そして声掛けをするのです。一番長い声掛けは、一度目に戻られたときで37節からの鍵カッコの中です。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても、肉は弱いのです。」
このイエス様の声掛けの内容について、少しだけ見ておきたいと思います。一つは、「一時間でも」という部分ですが、これは、「60分ほども」という意味ではありません。「こんなに短い間も」という意味です。さらに言うと、時間の短さが問題なのではなく、「こんな大切な場面に」という時間の質が問題とされているのです。
二つ目は、38節の冒頭の「誘惑に陥らないように」というところです。なんだか突然「誘惑」ということばが出てきて、なんの誘惑のことを言っているのかわからない、といった感覚を持たれて当然です。いろいろな解釈がありえると思いますが、このところは、私がさきほど使いました言葉で言うと「持ち前の肉の力で乗り切ろうとすること」となるかと思います。
「イエス様のお姿」という二番目のポイントはここまでにして、3つ目のポイントに進んで行きたいと思います。
Ⅲ イエス様のおことば
⒈ 弟子たちの無言を引き出す
3つ目のポイントで私が最初に取り上げたいのは、40節の最後の「彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。」というところです。ここは、二度目にイエス様が弟子たちのところに戻って来られたときのことです。マルコでは、二度目に戻って来られたときには、イエス様のことばは記されていませんが、弟子たちの無言が記されています。なんとも気まずい、バツの悪い無言です。これまで、どんなときにも真っ先に口を開いてきたペテロでさえ口をつぐみました。
イエス様に合わせる顔がない情けない現実に弟子たちが直面し、その場にイエス様が立ち会っている、これがイエス様の声掛けの真骨頂です。イエス様は、いつでも私たちを今あるところから始めさせます。そして、今あるところを痛みを伴って正確に把握するところから始めさせます。
⒉ 「もう十分です。時が来ました。」
次に41節の「もう十分です。時が来ました。」という3度目に戻って来られた時の言葉に注目したいと思います。
これは、区切りを宣言するイエス様のお言葉です。「そこまで」と区切りを宣言することは、権威がなければできないことです。パーティーが開かれていて楽しい会話が繰り広げられているときに、「お開き」を口にできるのは、ホストだけです。
そう考えると、この「時が来ました」は、イスカリオテのユダが率いる一群が到着したという出来事を客観的に言っているのではなく、「祈り」という場面から「受難」という場面にご自分の方から駒を進める、という意味が託されていると思われます。
⒊ 「さあ、行こう」
そして次に、今回の説教で私が一番注目したいところ、本日の説教題を取った「さあ、行こう」というところを最後に取り上げたいと思います。私は、今回の準備をしていて、何度かテキストを読み返す中で、この「さあ、行こう」に感動しました。
これはイエス様がご自分と弟子たちを一つにする言葉です。なんと驚くべきことばでしょうか。このゲッセマネの祈りの場面で、終始ふがいない姿しかさらしていない弟子たちに向かって、勇敢に孤軍奮闘し、しかも父と弟子たちとの間を3回も行き来し、3度目も眠りこけている弟子たちの顔を目の当たりにして「私たちは行こう!」とおっしゃるのです。
まことに恥ずかしい話を一つします。私は先週のある英語の授業で爆発してしまったのです。授業開始時刻が過ぎているのに生徒がなかなか集まらない、リスニングを始めるよと言ってもずーっとくっちゃべっていたものですから、当てつけに、そのまま音声を流し始め、途中で生徒がなんか英語が聞こえると、一瞬静かになったとき「もうすぐ終わるよ」と嫌味たらしく言い、次の瞬間、雷を落としてしまいました。私が怒ったのは、「私はこんなに一生懸命やろうとしているのに、あんたたちは」という感覚でした。怒りを爆発させた瞬間、生徒たちと私の間に「私たち」という意識は私のうちにみじんもありませんでした。「わたし」と「あなたたち」でした。
ゲッセマネのイエスも「わたし」と「あなたたち」という言葉遣いをされても当然だったように思います。しかし、イエス様は、「さあ、私たちは行こう」とおっしゃるのです。
どうしてイエス様はそんなことをおっしゃることができるのでしょうか。それは、これまでも何回か申し上げてきましたが、イエス様は今、目の前にしている眠りこけている弟子たちを見ながら、彼らの内に、やがて悔い改めて、立ち直って、ペンテコステの聖霊をいただき本当に命がけでイエス様の証し人として出ていく彼らをすでに見ておられるからです。
ここにイエス様のゲッセマネでの二つ目の大きな意義を見出すことができます。イエス様は、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」という全く人間となられたからこそ出て来る真の叫びをあげつつ、十字架に向かう決心を固められました。しかし、それだけではなく、3度も寝込んでしまった愚鈍な弟子たちを、「私たちは」とおっしゃって弟子たちとご自身を一つにされました。そこにイエス様の忍耐と寛容、信仰と希望の深さを見ます。これがゲッセマネの二つ目の意義なのです。
今日、ここにいる私たちもみな、イエス様から「さあ、私たちは行こう」とかたじけない、そしてこれ以上勇気が湧くことがない、最高の呼びかけをいただいているのです。
祈り
一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今回は、ゲッセマネの祈りの後半を弟子たちの姿とイエス様の姿の両方に注目しながら学びました。そして、最後の「さあ、行こう」というイエス様のお言葉に希望を見出しました。神様の愛をいただきました。「持ち前の」が通用しない世界で、イエス様の「さあ、行こう」というお誘いに「ついて行きます」という小さくても確かな応答をもって進む者としてください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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