2026年6月14日の説教動画、ショート動画、説教原稿をアップしました

□2026-06-14 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書14:51-52

□説教題 「裸で逃げた」

□説教者 山田誠路牧師

導入 

⒈ 不思議な匿名の登場人物

今回はゲッセマネの園でイエス様が逮捕される場面で、前回扱わなかったところに触れたいと思っています。前回も申し上げましたが、イエス様は、いとも簡単に逮捕されてしまいます。そして、それはユダの裏切りで始まり、すべての弟子達がそこから逃亡するという悲しい結果をもたらします。そして、逮捕の場面の終盤に、興味深いことに二人の実名が伏せられている人物が登場します。

一人目は、先週も少し触れましたが、47節で剣を抜いた人物です。これは、ヨハネの福音書ではペテロであると実名が明記されています。

そして、もう一人の匿名の登場者が、51節と52節に出て来る「ある青年」です。この青年は、50節で弟子たちが全員逃亡したのに対して、「からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行こうとした」と書かれています。

先ほどのペテロと同じように、ある意味、他の弟子たちにはできなかった勇気ある行動をしたのです。しかし、自分が捕まりそうになると、なんと「彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた」のです。聖書全巻にどれだけの人物が出て来るか、数えようもないかと思いますが、裸で走った唯一の人物です。

⒉ マルコという人物

そして、この「ある青年」とは、誰かということについては、いつかお話ししたことがあると思いますが、断言はできませんが、有力な説としては、このマルコの福音書を書いているマルコその人だと言われています。

また、最後の晩餐の会場になったのは、このマルコの母親が所有していた家の広間だったと言われております。その家の坊ちゃんだったマルコは、最後の晩餐の席には同席することは叶わなかったでしょうが、食事が終わって、みなが外に出て、ゲッセマネに向かうところから一緒について行ったのだろう、という想像ができます。

今日は、その中の裸で逃げた青年であるマルコに焦点を当てていきたいと思います。

本日のポイントとしては

Ⅰ 二度失敗したマルコ

Ⅱ イエス様に集中したいマルコ

Ⅲ 書かずにはいられないマルコ

という大きく3点でお話を進めていきます。

本論

Ⅰ 2度失敗したマルコ

⒈ 二度目の失敗

まず、少し、マルコ本人の生涯についていくつかの補足をしておきたいと思います。

実は、マルコは、このマルコの14章での恥ずかしい失敗の他に、もう一度、今度はもっと大きな失敗をしているのです。

マルコの14章のイエス様逮捕の場面での失敗がAD30年頃だとすると、それから17年後のAD47年頃のことだと思われます。

使徒の働き13章を読むと、マルコはいとこのバルナバと一緒にパウロの第一次伝道旅行に同行したことと、途中で戦線を離脱して、エルサレムに帰ってしまったことが書かれています。

そして、それだけで終わらず、15章で第二次伝道旅行へ出発するとき、マルコをもう一度連れて行くべきかどうかで、パウロとバルナバが激しく対立して、この両者が以後別行動を取るという分裂のきっかけになってしまったのです。

第一次伝道旅行でなぜマルコが途中で離脱したのか、聖書にはなにも書かれていません。しかし、第二次のとき、パウロが「連れて行かないほうがよい」と考えたのですから、十分に認められる避けようのない理由などではなかったと思われますし、パウロにとっては、はっきり言って、足でまといになる人物だと思わせる離脱だったと言えます。

しかも、パウロとバルナバは特別に麗しい関係の宣教師コンビでした。もともと迫害者だったパウロは回心後も簡単には初代教会のコミュニティーに入れなかったのを、バルナバが勇気を出して、パウロが引っ込んでいた故郷のタルソまで迎えに行って、初代教会との橋渡しをしたのです。バルナバがいなければ、その後のパウロの活躍はなかったでしょう。

それほどの絆で結ばれていたパウロとバルナバの分裂を自分がきっかけで引き起こしてしまった、というのは、マルコにとっては、大きな大きな心の傷として残ったと思います。

⒉ 時系列的な整理

ここでマルコにまつわることを時系列でいったん整理したいと思います。

まず、初めに起きた出来事は、イエス様が逮捕されるとき裸で逃げだしたことです。これがAD30年頃のことです。

次の出来事は、第一回伝道旅行での離脱事件です。これはだいたいAD47年。

三番目の出来事が福音書の執筆です。これは諸説いろいろあって、断定的に言うことは難しいですが、どんなに早い年代を言う説でもAD50年代以降です。

すなわち、この福音書を書いた時点でマルコは大きな失敗を二度しでかしているのです。裸での逃亡と第一回伝道旅行での途中離脱。一回目の失敗はイエス様を裏切ったことであり、二度目はパウロについて行けなくなったという失敗であり、性質が違うとも言えます。しかし、いずれにしろ、この二つはマルコの黒歴史としてそうとう深く彼の心を後々まで悩ませたであろうことは容易に想像できます。

⒊ パウロとの関係回復

しかし、安心していただきたいのですが、その後、いつどのようにしてかは分かりませんが、パウロとマルコの関係は修復されました。それは、パウロが晩年のAD60年前後に書いたコロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙、そして絶筆と呼ばれるテモテへの手紙第二にマルコの名前が出て来ることでわかります。「マルコが行ったら受け入れるように」とか「同労者マルコ」とか「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」と書くまで、パウロはマルコのことを大切な人物として扱っています。

Ⅱ イエス様に集中したいマルコ

⒈ 匿名にした理由

さて、次に、筆者であるマルコが、なぜ、裸で逃げた青年の実名を伏せたかについて考えていきたいと思います。

第一に理由として考えられるのは、ここまでマルコの福音書を読んできた読者の関心をイエス様から逸らしたくなかったということです。

「実は、何を隠そう、その裸で逃げた青年こそ、この福音書を記している私マルコなのです。」とここで名乗り出たらどうでしょうか。

相当のインパクトがあり、ここまでずっとイエス様の公生涯、そして最後の一週間が詳しく描かれ、イエス様を中心に読んできた読者は、急にイエス様より、書き手のマルコの生涯にパッと意識が移ってしまうのではないでしょうか。マルコは、自分を印象付けるためにこの福音書を書いているのではなく、イエス様がどういうお方かということを伝えるために、描いているので、あえて自分の名前を伏せたのではないでしょうか。

⒉ そもそもこの2節は必要なのか?

次に、少し立ち止まって確認しておきたいことがあります。そもそも、この裸で逃げた青年の話って、マルコの福音書にとってどうしても必要な内容でしょうか?一つ前に50節で「皆は、イエスを見捨てて逃げ出してしまった。」と書いてあります。これで十分ではないでしょうか。それに、これまでのストーリーの中に12弟子以外の弟子として青年マルコは一度も登場していないので、ここだけ登場させても前後が繋がりません。先ほど触れましたように、イエス様に集中するという大切な目的があるのなら、そもそも前後につながらないようなこの事件は、描かなくてもよいのではないでしょうか。

この裸で逃げた青年のことは、マタイ、ルカ、ヨハネの他の三つの福音書ではまったく触れられていません。

ハッキリ言って、マルコの福音書のプロットというか話の流れからすると、完全になくてよい余分な部分だと言って間違いないでしょう。

そして、マルコの福音書は他の福音書と比較した場合、その簡潔さが特徴です。贅肉を切り落として、イエス様に集中して、テンポよくストーリーが進んで行くのが特徴です。それなのに、どうしてわざわざ、完全に不必要なエピソードがマルコにだけ書かれているんでしょうか。

Ⅲ 書かずにはいられないマルコ

そうすると、逆に、マルコは、この2節は匿名という形ではあっても、どうしても入れなければならないと考えて、敢えて入れた部分なのだということになります。そして、残りの時間でご一緒に考えたいことは、それがどうしてなのか、ということです。

⒈ どうしても書き入れた理由

その二度の失敗を引きずった生涯を辿ったマルコが、話の流れ的にはどう考えても余分だというこの裸での逃走というめちゃくちゃ格好わるいエピソードをどうしても自分の福音書に書き加えたかったのは、自分が書いている「福音」と、自分のこの恥ずかしい失敗が深く関係しているからだと考えてよいでしょう。

それは、大げさに言うと、この自分の恥ずかしいエピソードを書かずには、福音の輝きがありのまま伝わらないと考えたからでしょう。

彼はそれまで誰も書いたことのない「福音書」という新しいジャンルの書物によって、「イエス・キリストの福音」を書いて来て、その大詰め近くで、この自分の痛恨の失敗にこそ、「福音」の素晴らしさ、豊かさが詰まっている。それを伝えるのに、自分のこの失敗を外すわけにはいかない。この失敗のエピソードに福音の本質が沁み出て来る、そのように考えたからではないかと思われます。

失敗は一度だけでも十分に恥ずかしいです。また、心がしなえます。それを二度もしてしまったのです。しかし、マルコは、二度の失敗で露呈し、思い知った自分の弱さ、浅ましさ、自己中心、罪をイエス様の十字架で赦してもらったのです。

この福音によって救われない人は誰もいない。この福音でも慰められないほど深い人間の罪は何一つないのだ、ということが証ししたくてこのエピソードを入れたのではないでしょうか。

⒉ マルコを越える福音の豊かさ

締めくくりに、ペテロ、パウロ、マルコに勢ぞろいしてもらいたいと思います。

ペテロは、一番弟子で、いつでもまっさきに反応する人でした。そして、死ぬようなことがあっても決してあなたを離れません、と啖呵を切ったのに、土壇場で逃げ出してしまいました。強く見せていたけれども、その肉の強さはポッキリ折れて通用しませんでした。

パウロは、もともと教会の迫害者の先頭に立っていた人でした。こちらは、失敗とか弱さとかいう言葉では到底表現できない汚点を抱えた人物でした。熱心ゆえとはいえ、間違った道に思いっきり突き進んで、取り消しのつかないような過ちを犯したのです。

マルコは、きっとペテロのように直情型でもなく、パウロのように熱血漢の情熱家でもなく、芯があまり強くないタイプの人間だったのではないでしょうか。それでも晩年のペテロにも可愛がられ、関係が回復したあとのパウロにも可愛がられました。誰かをサポートするのが向いているタイプだったのかもしれません。

こう考えると、この3人はそれぞれとても特徴があります。しかし、3人に共通していることがあります。それは、イエス様との間に自分ではどうしようもできない痛恨の失敗が横たわっているスタートだったということです。

そして、3人とも、その失敗や罪が、あの十字架の上でみなイエス様によって担われ、イエス様が流された尊い血に免じて赦されているということを信じて立ち上がったのです。イエス様の十字架の前で三人の凸凹はすべて意味がなくなります

また、今日ここにいる私たちの、それぞれここまで辿ってきた生涯の中で、イヤというほど、弱さも失敗も罪も思い知ってきたことと思います。しかし、それらすべてはイエス・キリストによって過去の赦されたものとされているのです。

また、それぞれの人間的な違いもあるでしょう。しかし今は、これらすべてを引き受けて十字架に進み、いのちを捨ててくださった、イエス様の先立つ愛があるのみ、という福音の圧倒的な恵みが流れているのです。失敗はすべて、より深い恵みへの導火線となるのです。

祈り

 一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今回は、この福音書の筆者であるマルコについて詳しく学びました。マルコは読者を自分たちに引き付けることを避け、あくまでイエス・キリストの物語を書くことに集中しました。それでも、なくてもよいエピソードをどうしても挿入されていることから、マルコの福音理解に光を当てました。福音の力はどんな人を赦し、立ち上がらせ、神の子、光の子とする力があります。

どうぞ、これから始まる一週間、この福音の豊かさを味わう者としてください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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