□2026-08-02 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書15:25-32
□説教題 「自分を救ってみろ」
□説教者 山田誠路牧師
# 導入
前回の最後の24節で「それから、彼らはイエスを十字架につけた。」とあり、とうとう、イエス様のお身体は、ゴルゴタの丘に立てられた十字架の木に釘づけられました。
前回まで、数回かけて、裁判と死刑執行のために身柄が引き渡されてからの場面を詳しく見ていきました。前々回はバラバというローマ帝国に謀反を起こした革命分子、前回は、地中海に面する北アフリカのクレネからたまたまエルサレムに上京していたクレネ人シモンという、聖書のここにしか登場しない人物たちが、重要な役割を果たしていました。
今回もそのような登場人物が出て来ます。今回は名前は記されていませんが、イエス様と同時に左右に十字架につけられた二人の強盗です。
マルコの福音書は、というか他の三つの福音書もすべて同じですが、イエス様が十字架刑に処せられる場面には、書いてあることと、書いてないことがあります。たとえば、血がどれくらい流れたとか、どんな呻き声を上げたとか、そういう肉体的な苦しみを表現することは、ほとんど書かれていません。福音書記者は、書くことと書かないことの選別によって、イエス様の十字架の意味を伝えようとしているのです。今日のテキストから読み取れるマルコが込めた意味に少しでもご一緒に迫っていきたいと思います。
本日のポイント二つです。
> Ⅰ イエス様はわたしたちと同じになられた
> Ⅱ 救いの意味を明確にされた
この二点です。
# 本論
## Ⅰ イエス様はわたしたちと同じになられた
### ⒈ 見分けがつかないほどに
> イエス様が十字架に張り付けられているシーンを描いた絵は数えきれないほどありますが、大きく二種類に分けられます。一つは、イエス様がかなりアップになって描かれてイエス様が極みまで苦しみ抜かれた、その苦しみを表現しようとするものです。もう一つは、この日、ゴルゴタの丘で十字架につけられた3人を描く絵です。その場合、ほとんどは、真ん中のイエス様だけ、大きく、神々しく描かれています。
しかし、ある説教者がこう言いました。そのような絵は聖書の記述から離れた、見る人に誤解を与える絵だ。もし、2000年前のあの日に、あの場面をスケッチした人がいたとするならば、決してイエス様だけ、大きく後光が差しているようには描かなかったはずだ。イエス様は、強盗を働いて捕まったがゆえに十字架につけられた左右の囚人と比べて特に目立つところはなかったはずだ。三人同じようにみじめな姿で並んでいた、というのがリアリティーだったのです。
お気づきになったかわかりませんが、今日のテキストでは、27節の次が29節になっていて、28節が飛んでいます。週報にも印刷されていますが、28節は脚注にあって、
異本に「こうして『この人は不法な者たちとともに数えられた』とある聖書が実現したのである。」を加えるものがある、と書いてあります。
この異本にある28節はイザヤ書53章12節、今朝、招きの言葉として私が読んだ箇所からの引用です。まさに、このお言葉のとおりに、『不法な者たちとともに数えられた』、すなわち、「罪人の一人」となられたのです。特に、何の変哲もない周囲と変わらない、ワン・ノブ・ゼムになられたのです。
学校の体育祭で大勢の生徒がダンスを踊っているとき、その中に一人が、ダンスを外で習っていてキレッキレで踊っているとすぐに目につきます。ダイエー時代の王監督は、どのようにしてスタメンで起用する選手を決めていたかというと、練習を見ていてどうしても目が行く選手というのがいるそうです。全体をまんべんなく見回していると、実績とか、体の大きさとかとは関係なく、どうしても目が行く選手、そういう選手をスタメンに起用したのだそうです。
しかし、私たちのイエス様は、誰の目も引かないような、私たちとまったく同じになってくださったのです。
### ⒉ 肉体を持つだけでなく、罪人になった
また、もっと言うなら、マルコには書かれていませんが、ヨハネの福音書によると、この日の夕方、囚人たちの遺体を十字架から取り降ろすとき、二人の強盗は、死を確実にするためにローマ兵がすねを折ったのですが、イエス様はその時点ですでにこと切れていたので、すねは折られなかった、と記されています。そのことから逆算して考えると、真ん中で十字架につけられていたイエス様のお姿は、「ひときわ大きく、神々しく」の正反対だったのではないかと想像できます。3人の中で一番小さく、弱々しくみじめなお姿だったのでは、と想像する方が真実に近いように思います。
イエス様の右と左に張り付けにされた二人は「強盗」だと27節に書いてあります。十字架刑は、ローマ帝国が採用していた処刑方法の一つです。あまりにも残酷な処刑方法であったため、ローマ市民権を持つ者には基本的に適用されず、斬首が原則でした。十字架刑は主に、奴隷、非市民、下層階級に対して適用され、反逆罪・扇動罪をはじめ、盗賊行為、放火、脱走、誘拐、海賊行為など幅広い犯罪に対して用いられました。
イエス様は3年半の公生涯の活動の中では、取税人・遊女など当時の罪人の代表と呼ばれる人々と一緒に食事をして、「罪人の友」と呼ばれました。それは、ユダヤ人の社会の中で、律法に照らし合わせての言い方です。しかし、今、この十字架の上では、罪を犯した奴隷、非市民、下層階級と同じところまで降りて行かれたのです。
イエス様が神であられるのに人となられた、という時、私たちは、「無限の存在者が有限の世界に降りて来られた」とか。「イエス様も私たちと同じ肉体を取られたので、簡単にヘロデにひねり殺されるかもしれない弱い存在になられた」とか。ヨハネ4章のサマリアの女の記事では、「旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。」という表現がありますが、そこから「イエス様も飢え、渇き、疲れ、ということを私たちと同じように経験された」とか。そういうことをイメージすることが多いように思います。
しかし、今日の場面でイエス様は、普通の人と同じになられただけではなく、この世で、一番蔑まれ、むしり取られ、抑圧され、罪人として最も残酷な方法で処刑されていく人々と一緒になられたのです。
人となられただけではなく、罪人となられたのです。罪人となられただけでなく、罪人の中の最も低い、最もみじめな罪人と同じになられたのです。
## Ⅱ 救いの意味を明確にされた
### ⒈ あらゆる人たちからののしられた
今日の二つ目のポイントに進みたいと思います。今日のテキストに書かれている内容のもう一つのことは、イエス様は十字架上であらゆる人々からののしられたということです。いろいろ書かれていないことが多い中で、マルコはこのことは非常に意識的に、そして効果的に記述しています。
29節には、「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。」31節には、「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスをののしって言った。」そして、最後の極めつけは、32節の後半に「また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。」とあります。
先週21節に出てきたクレネ人シモンも「通りすがりの人たちの一人」でした。もしかしたら、あの時、無理やりローマ兵にイエス様の十字架の横木を背負わせられるということがなければ、クレネ人シモンも一緒に「通りすがりの人たちに混ざって」イエス様をののしったかもしれません。人生はどっちにころぶか非常に微妙なものです。クレネ人シモンとこれらの人々との間にそんな大きな違いなどなかったのではないでしょうか。
そこにいたいろいろな立場、種類の人が寄ってたかって、代わる代わるイエスをののしったのです。
何と言ってののしったのでしょうか。一番端的にまとめているのは、32節の冒頭のことばです。「キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」というところです。
### ⒉ 公生涯は奇跡の連続
ところで、福音書に記されているイエス様の3年半の公生涯はどんな特徴があったでしょうか。一言でいうと、それは、奇跡の連続でした。多くの病人を癒し、悪霊を追い出し、嵐を鎮め、波の上を歩き、5つのパンと2匹の魚で男だけで5千人の人々を満腹にし、その他数えきれないほど、通常の人間にはできないことを次から次へとしていったのです。
しかし、十字架の上では一つの奇跡も起こされませんでした。31節の最後にある「他人は救ったが、自分は救えない」というのは、まさにその通りだったのです。
### ⒊ 降りて行かなかったがゆえの救い
ののしりの言葉は「十字架から降りて来い。そうしたら信じてやる。」という点に集中していました。
イエス様がどんなに挑発を受けても、十字架から降りて行かれなかったことが、イエス様が私たちにくださる「救い」がどんなものであるかを規定します。
私たちは、どんな種類のものでも、苦しい状況から解放されたときに「救われた!」と思わず叫びます。お金がなくて困っているときに、思ってもみないところからお金が与えられたなら、「救われた!」と叫びたくなります。一日重労働で疲れた後、ゆっくり湯船につかったら「ああ、救われたー!」と思わず言うでしょう。それらも救いです。
しかし、もし、イエス様が私たちにくださる救いがそのような種類のものであるなら、イエス様は十字架に張り付けられた状態から、降りて行けばよかったのです。
そして、イエス様は私たちにこう言えばよいのです。
「わたしは、皆さんがこれから経験するありとあらゆる苦しみのもっともはげしいところまで経験したけれども、それに負けず、そこから脱出して、このように、生還してきました。だから、あなたがたにも、どんな苦しみのどん底からも救いがあり、どんなピンチからも抜け道がある。だから、十字架から降りて来たわたしに従って来なさい。」
しかし、イエス様は十字架から降りて行かれなかったのです。それでは、されるがままにされ、いのちまで落としたことによる救いとはなんでしょうか。それは、一言で言うと、「新創造による救いです。」聖書によると、神様はこの天地万物を神の口から出る一つ一つの言葉によって、秩序正しく、とってもよいものとしてお造りになりました。
そして、最後の被造物としての人間が創造されたときには、「はなはだ良かりき」と喜ばれました。しかし、その最初の創造された世界に罪が入り込み、罪の結果、すべての生き物は、人間も含めてみな罪の結果である死を刈り取ることとなりました。その罪と死が支配する世界を古いものとし、新しい世界を創造することによって私たちを救うのが十字架の救いです。
ですから、旧創造の世界で一番力の強い、死の力の支配を終わらせるために、イエス様は一度、死の力の軍門に下られたのです。しかし、イエス様には、その死の力が効かないことを復活によって証明し、新しい世界を創造されたのです。
新しい世界は、もはや罪と死が支配しない世界なのです。キリストが王であり、キリストの愛がすべてに勝って力を持っている世界なのです。
コリント人への手紙第二5章17節にこういう有名なことばがあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「キリストのうちにある」というのは、「キリストの救いを受けている」ということです。イエス・キリストが私の罪を代わりにすべてご自分の身に負って、罪が当然もたらす裁きと死を受けてくださったことを信じているということです。そして、そのことのゆえに、もはや私たちは自分の罪のゆえに裁かれることはない、すでに、罪は赦され、裁き済みとなっていることを信じる信仰に生きることを意味します。その時、私たちは「新しく造られた者」だということがわかります。
しかし、このコリント人への手紙第二5章17節が言っていることは、それだけではないのです。つづいて、「見よ、すべてが新しくなりました。」と続くのです。
このところを、私は、長い間次のように受け止めて来ました。私は高校二年生のときに、イエス様を信じて救われたのですが、信じた次の日の朝、世界が輝いて見えました。私の知っている左官屋さんのクリスチャンは、イエス様を信じた次の日、壁を塗っていたら壁が光輝いて見えたと、いつも言っておられました。それは、昨日と同じ部屋、昨日と同じ仕事場でも、こちらの心の持ちようが変わると、別物に見えてくるという意味です。しかし、「すべてが新しくなりました。」というのは、そのことでだけはありません。新しい世界の創造を言っているのです。
もはや、罪と死が支配しない、キリストが王であり、キリストの愛が最高の力をもっている新しい創造の中に生きるようになる、ということです。本当の救いとは、その新しい創造の中を生きる、ということです。わたしたちがそのような歩みをすることができるようになるために、イエス様は、どんなに「十字架から、今、降りて来い。降りてきたら信じてやる。」と挑発され、ののしられても、決して降りて行かなかったのです。降りて行くことによって可能になる救いと比べ物にならないくらい、大きな力強い救いを私たちにくださるためです。
この救いを受けようではありませんか。
# 祈り
一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今日は、イエス様が十字架につけられて最初の数時間の様子が記されているところを読みました。二人の強盗の真ん中に挟まれる形で、イエス様は十字架につけられました。そして、通りすがりの人たち、祭司長たち、律法学者たち、十字架につけられている左右の強盗までもが、イエス様をののしりました。「十字架から降りて、自分を救え。そうしたら、信じてやろう。」と。しかし、イエス様は、一言も言い返さず、抗わず、なすに任せられました。十字架から降りなかったことによって、罪と死が支配する世にピリオドを打ち、復活によってまったく新しい、キリストが王であり、キリストの愛が一番強いものである、そういう新しい世界を創造してくださいました。救われるとは、この新創造の中に、私たちが生かされつづけることです。この素晴らしい救いを自らのものとすることができますようにお導きください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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