2026年7月19日の喜多見チャペル説教動画、ショート動画、説教原稿をアップしました

□2026-07-19 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書15:1-15

□説教題 「バラバを釈放し」

□説教者 山田誠路牧師

# 導入 

今日の聖書箇所はイエス様が、当時ユダヤ地方を治めていたローマ総督ピラトの前で裁判を受ける場面です。これまでズーっとマルコの福音書を読んできて、ローマ総督ピラトという人物はここで初めて出てきます。ここまで常に、イエス様に対する対抗勢力といえば、大祭司、祭司長たち、律法学者たちというメンバーで、これらの人々が構成するユダヤ教指導者たちがイエスを無き者としようと画策している、という構図でした。

しかし、今日のところに登場するローマ総督は、それとはまったく別の系統の人物です。当時のユダヤ地方は、直接統治されるローマの属州扱いになっていて、総督という役職の人物がローマから任命されて治めていました。ピラトはAD26年から36年まで約10年間その地位にありましたが、今回のところはピラトの在位期間の後半にあたります。

前回学んだように、最高法院ですでに裁判をしていますが、なぜ、もう一度ローマ総督に裁判をしてもらう必要があったのでしょうか。それは、最高法院には死刑執行の権限がなかったからだとされています。しかし、ユダヤ教の神への冒涜罪では、ローマ総督は取り合ってくれませんので、論点を挿げ替えて、「自分はユダヤ人の王だ」と自称したというローマ帝国への反逆罪として訴えたのです。そこには彼らの狡猾な計算がありました。

ここまでが本日の場面の背景です。それでは、本日のポイントをお示ししたいと思います。いつもはだいたい3点ですが、今日は4つです。

本日のポイントとしては、

> Ⅰ 妬みに支配されたユダヤ教指導者たち

> Ⅱ 扇動された群衆

> Ⅲ 保身を選んだピラト

> Ⅳ そのすべてを用いられた神 

です。

# 本論

## Ⅰ 妬みに支配されたユダヤ教指導者たち

### ⒈ ユダヤ教指導者たちとねたみ

> 今日の登場人物の中で、1節の「祭司長たち、長老たち、律法学者たち」というユダヤ教指導者たちは、イエス様が十字架につけられるプロセスの中で、依然として重要な役割を果たしています。

ユダヤ教の神への冒涜罪をローマ皇帝に対する反乱罪にすげ変えて訴えるという形の上での工夫は凝らしましたが、ピラトから鋭くその心の底にある本当の動機を見抜かれています。それは、10節に書いてあります。「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていた」というところです。

これはなかなかするどい指摘です。ユダヤ教指導者たちは、これまでイエス様に論戦を挑んだり、意地悪な質問を突き付けたりしてきました。それは、バビロン捕囚という大きな民族的悲劇を通してはじめて身に着けた神様への畏れを大切にする気持ちから出ているようでもありました。自分たちが先祖伝来大切にしてきた宗教的価値観を破壊しかねないほどの新しく、インパクトのある言動をイエス様がして来られたのを見て、方向性は間違っていたけれども、その動機はピュアーで神様に対する熱心さだ、とこれまでのところを読んで、そのように受け取ることも可能だったかもしれません。しかし、今回、聖書はピラトの口を通して、実はそうではないのだ、ということをハッキリ述べているのです。祭司長たちをはじめとするユダヤ教指導者たちの真の動機は、「ねたみ」だというのです。

### ⒉ ねたみという罪

「ねたみ」は、マルコ7章22節にある、イエス様自らが語られた人の内側から出てきて人を汚すもののリストに入っているものです。「自分にはないものを他人が持っているときにうらやみ、持っている他人に不幸を願う非常にネガティブな思い」です。

宗教家はこうした感情をそのまま表に表すわけにはいかないので、もっともらしい理由を表向きには立てて、いつでもカモフラージュするのです。しかし、本当にその人を突き動かしているものはなにかというと、単純な「ねたみ」だというのです。ここに、人間の醜さが表れています。

ねたみについて、もっと本質的によくないことはなんでしょうか。それは、ねたむ心は満足していない、ということです。神殿で仕え、神の言葉である律法を学び、他人に教えている人たちが、実は神によって満たされていないのです。そこにこの罪の本質があります。

## Ⅱ 扇動された群衆

### ⒈ 祭りのたびの釈放

 次に、「扇動された群衆」ということを考えていきたいと思います。今日のテキストには、「群衆」ということばが、8節、11節、15節にそれぞれ一回、合計3回出て来ます。8節では、「いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求しはじめた。」とあります。これは、6節に説明があります。「ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人を一人釈放していた。」というところです。

ローマ皇帝からの任命で、ユダヤ人を治めている行政官として、一定の懐柔策のようなものを持っていて、良いタイミングでそれを行使して、常日頃たまっている民衆の不満のガス抜きをするというのは考えられるストーリーです。「祭りのたびに」というのも、そのカードを使うタイミングとしては効果絶大だと思われます。

ですから、ピラトとしては、祭司長たちのねたみが原因で訴えられてきたイエスという男を、この「祭りのたびに一人に恩赦を与える」という慣習で救おうとしたわけです。自分たちが要求する人物を一人釈放してもらう、ということはそれなりの満足感をユダヤ人に与えることなので、それで、ねたみをチャラにできるのではないかと考えたわけです。

しかし、ユダヤ人指導者たちのねたみはそれで帳消しになるほどなまやさしいものではありませんでした。11節には「祭司長たちは、むしろバラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。」とあります。

### ⒉ 扇動

ここで、気づくことは、今回の場面では、祭司長たちユダヤ教の指導者たちは、1節のイエス様の身柄の引き渡しのときには、ピラトとの交渉に正式に顔を出していますが、それ以降は、自分たちは表に出ず、後ろで糸を引く役目に徹しています。

それに対して、ピラトとの交渉で表に出て来るのは群衆です。そして、この群衆が叫んだ「十字架につけろ。」という声が、13節と14節に出て来ます。これが、決定打となってイエス様は十字架刑になるのです。

そして、なぜ、この群衆が「十字架に付けろ」と叫んだかというと、11節の「扇動」があったのです。マルコの福音書には、「群衆」という言葉は、全部で39回も出て来ます。もちろん、ガリラヤ湖畔でイエス様のたとえ話に聞き入った群衆と、今日、ピラト官邸に押しかけて「十字架につけろ」を叫んでいる群衆は別々の人々の集まりです。

しかし、群衆は群衆です。その特徴は流されやすいということです。黄砂が飛んでくるのは、日本に向かって風が吹いているからであって、誰かの思惑とは関係ありません。しかし、人の心を右に向けさせたり、左に向けさせたりする風は、権力を握っている者は簡単に吹かせることができるのです。

### ⒊ 群衆の愚かさ

今日のこの場面から近いところですと、マルコ12:37に「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。」という箇所があります。これは、エルサレムの神殿の中での出来事ですから、同じエルサレムの中であり、今日のところで「十字架に付けろ」と叫んだ群衆とある程度重なるのではないかと思います。数日前には、喜んでイエス様の話に聞き入り、その知恵に感動していた同じ人が、数日後には、「十字架につけろ」と叫ぶ。そこには、自分たちの期待(ローマを倒してくれる政治的救世主)を裏切ったイエス様への失望と怒りが込められていたという面もあったでしょう。

ユダヤ教指導者たちの導きも信頼できないものであり、群衆が従っている風の流れも信頼できるものではありませんでした。ここに人間の愚かさが極まった姿があります。多数派の意見も、専門家の意見も正しくない場合があるのです。繰り返し言いますが、人間は愚かなのです。

## Ⅲ 保身を選んだピラト

### ⒈ ピラトの姿

次に、ピラトに焦点を当ててみましょう。彼は、先ほども触れましたが、10節で祭司長たちの本当の動機が「ねたみ」であることを鋭く見抜いていました。

また、この事態がその「ねたみ」によって不正に持ち運ばれないように、祭りのたびに一人の囚人を釈放するという習慣を利用するという機転も効かせました。

しかし、悲しいかなこの二つは最後に出て来る「保身」というジャイアントに簡単に打ち負かされてしまいます。ピラトにとって、一番大切だったのは、正しい裁判が行われることでも、無罪の人のいのちが助けられることでもなく、自分の政治的生命と、自分の物理的生命が守られることでした。

自分のいのちを大切にするためには自分をまず第一に守ろうとする本能はある程度必要かもしれません。しかし、私たちが毎週唱えている使徒信条の「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け」というイエス様のお姿を思う時に、やはりこのピラトの保身に走った姿にも人間の罪深さを見ざるを得ません。

### ⒉ イエス様の姿

今回イエス様は2節でピラトから「あなたはユダヤ人の王なのか」との尋問を受けられ、「あなたがそう言っています。」という短い一言以外は無言を貫かれました。大祭司カヤパから「おまえはほむべき方の子キリストなのか」と問われたときには、「わたしが、それです。」とイエス様は答えられましたが、今回のピラトからの質問には、真正面からはお答えになりませんでした。「あなたがそう言っています。」は、つまり、ピラトが考えているような、ローマに剣を向ける政治的な王ではない、という意味で、含みを持たせたお答えでした。しかし同時に、全く別の次元でのまことの王であることは否定なさらなかったのです。

実際には、イエス様は一度も政治的意味で「わたしはユダヤ人の王です」という発言はされていませんので、その点で訴えられて、自分のいのちが掛かっているのですから、イエス様は普通に考えると、ご自分の濡れ衣を晴らすために必死にあらゆる手段を使う場面だと思います。

しかし、イエス様は「何も答えようとされなかった」のです。そして、それにはピラトも驚いたのです。ここに、ピラトとイエス様との明らかな対比があります。保身に走ったピラトと、保身に走ろうと思えばいくらでも正当に自らの潔白を証明できたはずなのに、それをなさらなかったイエス様。マルコの福音書の大きな文脈では、10章45節の「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」という使命を、今まさに果たそうとされているイエス様の姿です。

## Ⅳ そのすべてを用いられた神

ここまで見てきた三者──祭司長、群衆、ピラト──は、それぞれ異なる罪に支配されていました。しかし、そのような人間の罪さえも神は救いのご計画のために用いられました。そのことを最も象徴的に示す人物がバラバです。

### ⒈ バラバとはいったい何者

イエス様の代わりに釈放されたバラバとはいったいどのような人物だったのでしょうか。7節を見ると「暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。」と書かれています。ヨハネの福音書18章40節では、このバラバのことを「強盗であった。」と書いています。そして脚注には「あるいは『扇動者』」となっています。また、マタイの27:16では、このバラバのことを「名の知れた囚人」であったと記しています。

これらの情報をまとめると、バラバはローマ帝国へ武力で抵抗した今でいう「レジスタンスの闘士」のような存在で、しかもだれもが知っていたというのですから一種の英雄だったのでしょう。祭司長たちにとっては、イエス様の釈放をピラトが提案してきたのを遮り、代わりに「この男を釈放せよ!」と囚われている人々な中から一人の名前を群衆に叫ばせたいのです。バラバの名前はそのために群衆の心を一気にまとめ上げるために打ってつけの人物だったのです。

また、同時にこの男は、ローマへの反逆ののろしを上げて実行に移して囚われたのですから、本来、ローマ帝国側が想定している十字架刑にもっともふさわしい人物でした。

ピラトにしてみれば、バラバはもっとも十字架刑に処すべき人物であり、逆にイエス様は十字架刑に当たる罪はなくねたみから訴えられた罪のない人でした。だからこそ、この取り違えが神の摂理の深さを際立たせるのです。

### ⒉ バラバは私

 今日は説教題には、「バラバを釈放し」というところを11節から取りました。ユダヤ教指導者たちがねたみのゆえに群衆を扇動し、群衆は愚かさゆえにそれをピラトに要求し、ピラトは自己保身のためにそれを受け入れたのです。二重三重に玉突きのようにして、出てきた結果のようなものです。そして、その玉突きに使われた一つ一つはみな、人間の罪深い思いでした。しかし、神様はそれらをすべて逆手にとって用いて、神様の壮大なご計画を実行するために大胆にも用いられたのです。

 それは、本来なんの罪もなく、十字架につけられるいわれの全くないイエス様が、イエス様を十字架に追いやるあらゆる人のあらゆる罪を身代わりに負い、その代わりに囚人バラバが釈放されたように、私たち一人一人が罪の支配下から救われるという驚くべき救いが達成されるためだったのです。ここに、神の愛と知恵が十字架に結集しているのです。

皆さん、想像してみてください。バラバはローマに反逆した暴徒でしたから、十字架につけられて死んでいくことだけが彼を待っているものでした。次に「バラバ!」と名前が呼ばれるときは、死刑執行の日であることは疑いようがありませんでした。しかし、この日、バラバの名前が確かに呼ばれましたが、それは、「イエスを十字架につけろ」という声と交互に聞こえてきたのです。「バラバを釈放せよ。」「イエスを十字架につけろ」「バラバを釈放せよ」と。

バラバは、その日、自分が死ぬはずだった十字架へ別の人が歩いて行く姿を見ました。私たちもまた、本来なら自分が負うべき裁きを、イエス・キリストが代わりに負ってくださったことを知るとき、初めて十字架の恵みが自分自身のものとなります。

# 祈り

 一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今回は、私たちが毎週唱えている使徒信条でいうと「ポンテオ・ピラトの前に苦しみを受け」に相当する場面を学びました。ユダヤ教指導者たち、群衆、ピラト、それぞれに思惑がありました。そして、それらはみな人間の心の奥深くに巣くう罪深い心です。しかし、神様は、それらをあたかもキャンプファイヤーの火にくべて、赤々と燃え上がる美しい救いの炎を燃え上がらせました。十字架という救いです。そこに私のすべての罪が身代わりにイエス様の上に置かれ、代わりにバラバである私が解放されるといういのち交換の十字架という救いです。どうぞ、お一人ひとりで聖霊の豊かな語りかけにより、この素晴らしい救いを自らのものとすることができますようにお導きください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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