2026年8月23日(日)の平和聖日礼拝の「資料編動画」「説教動画」「資料」をアップしました。

2026年8月23日

喜多見チャペル 第一回平和聖日資料

1. ホーリネス弾圧
 ①ホーリネス系牧師の一斉検挙

・1942年6月26日、ホーリネス系の牧師96名が治安維持法違反容疑で一斉検挙。4月に第二次検挙があり合計で124名。75名が起訴。

・東京では、1944年12月27日に判決。車田秋次と米田豊に実刑2年、小原十三司以下は懲役2年執行猶予4年。

・全員が控訴。しかし、1945年3月10日の東京大空襲で事件に関する書類は、裁判所のものも消失。その後、敗戦、治安維持法は廃止され(1945.10.15)、事件は大審院により「免訴」となり、釈放。(車田秋次の場合。)

・なぜホーリネス系の牧師が標的にされたのか。ホーリネス教会がキリストの再臨を強調したグループだったこと。終末論の中の「千年王国」において、「キリストが世界の王となる」という教えが天皇制、すなわち国体を否定する危険思想と判断された。「天皇とキリストとどちらが偉いのか?」との問いを突き付けられた。

②日本宣教会の場合

 日本宣教会はホーリネス教会の流れを汲む。ホーリネス教会の創始者中田重治のもとで学んだ相田喜介がホーリネス教会から独立して1923年に日本宣教会を創立。信仰的には同根で、教理的な差異はほぼない。

 私の恩師の中原幸茂(1911-1999)は、戦時中何度も警察の留置場に拘束され、調書をとられた。一つのところで釈放されて移動すると、また別の町の警察署に同行を求められ留置所に入れられ調書を取られる。ということを繰り返して、独房生活は通算100日以上に及んだ。

③辻啓蔵(父)、辻宣道(息子)の場合(辻宣道著「嵐の中の牧師たち」より)

 辻宣道はホーリネス教会の創始者である中田重治の孫にあたる。母が中田重治の次女。父親は辻啓蔵。中田重治の出身地である弘前の教会の牧師をしているとき、ホーリネス牧師の一斉検挙で逮捕される。一年半に亘る留置生活を経て、1943年の暮、懲役二年の判決を言い渡され青森拘置所を出る。自宅で上告趣意書を執筆。1944年4月30日、上告が棄却され刑務所に収監される。

家族に「ツジケイゾウキトク モシ シボウノサイハ シガイヒキトリニクルカ」と家族に電報。1945年1月18日、青森刑務所で獄死。14歳の辻宣道は、母と赤ん坊の弟の3人で、ものすごい雪の日に青森刑務所まで亡骸を引き取りに行く。弘前から青森まで汽車で1時間。その先は馬に引かせる橇(そり)を雇って進んだ。肉という肉がなく骨に皮がへばりついているだけの遺体は、他の囚人たちによって座棺に入れられ、裏口から出される。そこに橇(そり)が待っていて、「私がこっちへ座って、母は向こうに座って、赤ん坊の弟がいて、真ん中に桶を置いて、橇が走りだしました。棺桶の中の父親の死骸がゴッツンゴッツンゴッツンぶつかる。」「あの音が今でも耳に残っているのです。本当にかわいそうだと思いました。何でこんな目にあうのだ。一生貧乏して、真面目に伝道してきて、……。」「父の死骸を火葬場に運ぶ馬橇の中で私は思ったのだ。“もし神様が本当に生きているなら、こんなにひどい、むごたらしい目にあわせはすまい。20年間、ただ神様のために働いてきた人じゃないか。”その日以来私という少年は、キリスト教と絶縁した。」

 その後、紆余曲折を経て、辻宣道は日本キリスト教団の牧師となり、やがて、日本キリスト教団総会議長まで務めることとなる。

④車田秋次の場合

 車田秋次(1887-1987)、中田重治の元側近。1936年に中田重治と袂を分かつ(日ユ同祖論などがきっかけ)。中田重治は1939年に死去しており、ホーリネス系牧師一斉検挙のときは、車田秋次が最大のターゲット。車田秋次全集第6巻に予審調査が収録されている。1944年1月24日の尋問調書。「聖書の律法と国の法律と矛盾する場合があったとすれば、その時には国の法律以上に神の律法に従わなければならぬのでありまして、結局殉教するほかないのであります。」「聖書から言う時には、…直接的に日本の天皇陛下に関する記事が出ているわけではないのでありますから、聖書の上に立って別に何とも言い得ないのであります。」

「天皇陛下が神の恵みにあずかられ、神を信じて聖徒として携挙されたまわんことをこいねがってお祈りしているのであります。」「千年王国においても万の国と地の諸王があると示されておりますから、日本の国も内容的にはいろいろな変化があるでありましょうけれども、全然なくなってしまうのではなく、天皇陛下が最も大いなる蓋然性をもって地の諸王の一人としてその王位にお就きになるであろうということが考えられるのであります。」

2. 辻宣道の分析

①ホーリネスは不意打ちを食らった

「ホーリネスの事件は予期せぬできごとであり、一撃をくらって狼狽する姿のみ衆目の前にさらしたのだ。おなじく日本のキリスト教も審かれた。これはいまも、痛烈な警告としてわれわれの前にある。」

②ホーリネスは戦って負けたとは言えない

「辻啓蔵は青森刑務所で生命が絶えた。そこには権力を向こうにまわし、果敢に闘う姿はなかった。招かざる苦難に黙々耐える受難の姿だけがあった。」

③宮本顕治(日本共産党)との比較

日本のキリスト者の歴史に対する社会科学的認識の欠如があげられる。たとえば網走刑務所における宮本顕治の洞察力と同じ水準を維持したキリスト者が一人でもいたか。

④ドイツの教会との比較

信仰告白が本来の意味で日本人には定着していなかったのだ。「イエスは主なり」という告白が「臣民の道」にまさって優位に立つことを骨の髄からわかっていなかったのだ。1934年成立のいわゆる「バルメン宣言」は、内外に向かって決定的な告白を表明した。そのうちで、特に重要なテーマはイエス・キリストに関する第一項であった。“……聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、

またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける”

それから5年を経た1939年7月14日、パウル・シュナイダー牧師は、ドイツ ・ワイマール郊外にあるブッヘンヴァルトの強制収容所で生涯を終えた。それは「積極的不服従」のゆえであり、「果敢なる抵抗」の結果であった。

3. 辻啓蔵の清算

・1943年の「特高月報」の中に載せられた被疑者辻啓蔵の言葉:「……国家に対し不忠な事でも之が神様の聖旨であり、日本が、人類が真の幸福になる道だから止むを得ないと信じて来た私であるから、今直ちに清算は出来ない」。

それがいつどの時点で「清算」を前面にもちだしたのか。

・1943年の暮、啓蔵は公判においてのべた。

「聖書絶対無謬ニ立ツ信仰ヲ改メマス」

「キリスト再臨ニ対シテ疑イヲモチマス」

「狂信的信仰ヲ白紙ニ返シ清算シマス」

「是迄ハ聖書ヲ絶対的ノモノトシテ信シテ来マシタカ只今テハ道徳的教訓 ヲ除キ信スル気持カナイノテアリマス此点諒解シテ頂キ度イト思ヒマス尚今後ノ 方針ハ未夕具体的二考へテ居マセンカ牧師ト云フ職業ニ従事スル考へハ全然アリマセン」

4. 辻啓蔵の最後のことば

・京(啓蔵の妻、宣道の母)は死の前日に言った。「(お父さんは)今度 出てきたら、自由に、拘束されずに伝道したいといってたわ」。「いったい啓蔵は何を考えていたのか。公判における陳述は権力をあざむく方便だったのか。その上告趣意書は下獄を逃れるための擬態だったのか。」
・「ある時から私は父の晩年を知る人を片はしから訪ね、聞き書きをとるようになりました。仁平静恵さんが現れたのはそのころです。」『あんたのお父さんはね、今度刑務所を出てきたら、また伝道を手伝って下さいねっていってたわ』。 私はそれを聞きたかったのです。官憲に圧殺され、かたちの上でキリストを裏切ったままにしておいてたまるか。私の執念はついに貴重な証言者を見つけたのです。それで満足でした。 帰り道で私は涙があふれてどうにもなりませんでした。 少年の日に見た上告趣意書の下書き以来、父といっしょに屈辱の道を歩いてきたのです。 敗北を認めるところから再生が始まります。」

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