マルコの福音書を学ぶ(20)
□2024-10-20 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書5:21-43
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(20)「交差点に立つイエス」
導入
- 前回の復習
前回は、マルコの福音書5章1節から20節までのところを扱いました。突風を越えてガリラヤ湖の対岸、ギリシャ人たちが住んでいるデカポリス地方の一つゲラサの地に着いたとたんに、一人の悪霊につかれた人が走ってきました。イエス様によって、悪霊を追い出していただいたこの男は、「あなたのお供をしたい」と願い出ましたが、イエス様はそれを許さず、「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。」と、この人が向かうべき地を示されました。そして「主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」と、この人にしかできない使命を託された、という出来事でした。
今日の流れは、
今日のところでは、イエス様と弟子たちは、21節にあるように、とんぼ返りで「再び舟で向こう岸に渡られ」ました。22節に「会堂司の一人でヤイロ」という人が出てきます。マルコの福音書だけでは、この会堂がどの町の会堂か特定できませんが、他の福音書を合わせて考えると、この会堂はカペナウムの会堂であったようです。
今日は、21節から43節と少し長めに読ませていただきました。このところでは、二つの癒しの出来事が特徴的な構造で記されています。
説教題は「交差点に立つイエス」
大項目としては、
Ⅰ. サンドイッチか交差点か?
Ⅱ. 幸・不幸の交差点
Ⅲ. 神と人との交差点
この3点でお話していきます。
Ⅰ. サンドイッチか交差点か?
A.サンドイッチとしての捉え方
ヤイロの娘の話が21節から始まって、24節までで一旦中断され、25節から長血をわずらっている女の人の話が展開し、35節以降、もう一度ヤイロの娘の話に戻って来て決着がつく、という構造になっています。
一刻を争うような緊急出動をしているイエス様が、別の人と関わることによって足止めが生じるわけです。死にかけている娘を持つヤイロに感情移入してここを読むとたまったものではありません。ただでさえ切羽詰まっているところへ、更に厄介な問題が割り込んでくるという話の展開は、ドラマ的効果が多分にあります。
そして、それだけではなく、内容的にも、この二つの出来事は、互いの意味を明らかにしあい、深めあうという相乗効果もあります。ヤイロの娘は、イエス様が直行して間に合っていたなら、これまでも無数にあった数えきれないほどの病の癒しの一例に過ぎなかったのが、長血の女の癒しによる中断によって、死からの蘇生というところにまで深められました。長血の女の人の癒しは、イエス様の持ち時間の中の何の変哲もない平らな時に起きたのではなく、緊急出動中という特別な時間の中で起きたことにより、イエス様の癒しがどのような人に向けられるものであるかをクッキリと浮かびあがらせる効果を演出しています。
順番から言うと、ヤイロの娘の出来事が外側のパンで、長血の女の出来事が中身ということになるでしょう。サンドイッチにるすことによって、それを一緒に頬張ることによって、パンの味は中身によって引き立てられ、中身の味は外側のパンによって引き立てられる。これが、この箇所をサンドイッチ構造として読む、代表的な味わい方かと思います。
B.交差点として読む
私は、今回、このところを何度も読むうちに、もう一つ別のイメージが浮かんできました。それは、交差点として読むということです。この近くですと、たとえば環八という縦の幹線道路と甲州街道という横の幹線道路が上高井戸一丁目という交差点で交わっています。平地では信号によって一方が待っている間に他方が進みます。立体交差の部分は、上下に分かれてお互い交わらずに通過します。これだとあまりダイナミックではないので、日体大の集団行動風にこの交差点を思い描くととてもダイナミックだと思います。ヤイロの娘の話は、一旦中断されてしまったように、表面上は見えなくはないですが、実際には、刻一刻と娘の病状は変化し時間は止まっていません。
そして、今回恥ずかしながら初めて気づいたことが一つあります。それは、35節の冒頭です。長血という病を12年間患っていた女の人の癒しとその後のイエス様とのやりとりは34節のイエス様の優しいお言葉「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」で私は完結したものと長年思っていました。しかし、注意深く読むと、35節は、「イエスがまだ話しておられるとき」とあります。ヤイロの家からの伝令は、イエス様と長血の女の人との、とてもとても重要な会話の途中に届いたのです。イエス様は、一瞬も止まることなく流れる二つの流れのまさに交差点に立っておられるのです。
Ⅱ. 幸・不幸の交差点
A.交差点に立つイエス
それでは、イエス様が立っておられる交差点はどんな二つの流れが交わっているのか、ということを次に見ていきたいと思います。大きく二つあると思います。一つ目は、幸・不幸の交差点です。たった今問題にしました35節の冒頭は、長血を患っていた女の人にとっては、幸いの頂点のような瞬間でした。人生100年時代と言われる現代と違って、当時の平均寿命は短く見積もると30歳前後、長く見積もっても50歳が関の山です。そのような中で12年間もの間、長血という不治の病に苦しめられていました。血の漏出は宗教的案汚れを意味し、ただの病気による苦しみのみならず、それと比較にならないくらい、汚れた女として生きて行かなければならないという苦しみがありました。
さらに、26節には、「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物すべてを使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。」とその惨状が詳しく書かれています。医療にお金を吸い取られ、なんの効果もないばかりか悪化の一途をたどっているという絶望的状況です。もともと貧乏な人なら、このような描写な成り立たないと思いますので、実は、この女の人はかなり裕福な家の出だったと想像しても間違いではないでしょう。
その彼女がたちどころに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じました。そればかりか、イエス様から面と向かって、一対一で、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」という祝福のお言葉をかけていただいています。悲しみの底から、喜びの絶頂に一瞬にして引き上げられました。
しかし、一人の人のこのあまりにもドラマチックな幸せの絶頂の瞬間に同じ場所で、もう一人の人に不幸が襲いかかります。固く握りしめていた一縷の望みを完全に打ち砕く訃報が届けられたのです。「お嬢さんは亡くなりました。」という残酷な知らせです。死という事実は人間にとっては、動かすことのできない、ひっくり返すことのできない、なかったことにすることのできないファイナル・アンサーです。絶望が確定した瞬間でした。そして、イエス様はそのところにお立ちくださっているのです。
私たちの生涯はまさに、幸いと不幸がいつでも行ったり来たりしながら交わっていくところです。Aさんの幸いとBさんの不幸が交わることもあれば、一人の人の人生の中で幸いと不幸が交わることもあります。
このごろあまり耳にしなくなりましたが、パナソニックの創業者松下幸之助の生涯について少しだけお話したいと思います。松下幸之助は、9人兄弟の末っ子として生まれ、お父さんが事業に失敗し、小学校を4年生で退学して働き始めます。12歳の時には母親を亡くします。青年時代には結核にもかかっています。しかし、二股ソケットや電気アイロンなどのヒット商品を生み出し、日本有数の実業家、資産家になりました。ところが、戦前の彼の成功は、敗戦により、GHQの指示ですべて一夜にしてなくなってしましました。私たちが知っている松下幸之助の成功は、その一旦すべてを失ったところから這い上がって来た後の成功です。
私たちの生涯は、私たちの思い描いたようにはいきません。私たちが願わなかったことが度々起こり、私たちが通りたくないところばかリを通らされる。前からわかっていたら決して耐えられなかったところを、知らないで突入したから忍ぶことが出来た、というような危ういところばかりを辿ります。もちろん、感謝の涙がとめどなくわいてくることあります。同時に、自分の精神の安定を保てないほどの苦境を通ることもあります。しかし、イエス様は、その幸・不幸の交差点にいつでもしっかりと立っていてくださるのです。
B.交差点で救うイエス
そして、イエス様は、そのような激しい人生の交差点にただ立っているだけではなく、私たちを救ってくださる方です。
1. 触れることによって救う
今回の21節から43節までの記事の中には、二本の伸ばされた手が出てきます。
①信仰の手
一つは長血の女が伸ばした信仰の手です。28節に「『あの方の衣にでも触れれば、私は救われる』と思ったからである。」とあります。この女の人はそう思っただけではなく、実際に手を伸ばしました。大勢の群衆がイエス様に押し迫っている状況では、汚れた女と思われている人がイエスに実際に触るという行動に出ることは、相当の勇気が必要だったでしょう。けれども同時に、その勇気はこれまですべての医者に絶望してきたがゆえに働いた信仰の現れでもあったことでしょう。
- イエスの手
もう一つの手は、イエスの手です。23節でヤイロは、イエス様に「娘の上に手を置いてやってっください」と、まずはじめにお願いしています。そして、長血の女の癒しを経て、娘が横たわっているベッドに到着したときには、41節「子どもの手をとって」と書かれています。ヤイロの娘は自分から手を伸ばすことはもはやできない状態でした。ここでは、イエス様の方から手を伸ばして、動かなくなった娘の手を取ってくださったのです。
私たちの生涯にもこの両面があります。私たちが信仰手を伸ばすことも大切です。しかし、それだけではありません。私たちの手がもはや動かなくなっているときに、イエス様のほうから手を伸ばし、手を取ってくださるのです。これもなければ私たちは誰一人救われる人はいないでしょう。
2. 語ることによって救う
①フォローアップのことば
長血の女の人は、29節の時点で病自体は完全に癒されています。しかし、それでこの物語は終わりません。彼女がイエスの前に出て、ひれ伏し、「真実をすべて話し」、それにイエス様のことばが続きます。イエス様は、この女性の体内で出血という症状が続いているか、それがなくなったかというところを問題にしておられるのではないのです。彼女の信仰を認め、安心と健やかさというのことばによって、彼女のこれからの生涯に祝福と守りを与えられたのです。彼女はこれによってこれから生きていけるのです。この言葉によって、最終的に救われたのです。
- ことを起こすことば
一方、ヤイロの娘にはどんなことばがかけられたのでしょうか。それは、とても印象的なことばでした。41節の中ほどにある「タリタ・クム」という言葉です。これは、日本語の聖書ではカタカナで書かれ、次に意味が書かれています。それはどうしてかと言うと、マルコの福音書全体はギリシャ語で書かれているのに、この「タリタ・クム」の部分はイエス様が実際に口にされた「アラマイク語」で書かれているからです。マルコの福音書の記者はマルコですが、マルコの情報ソースはペテロだと言われています。少女が寝ている部屋に入室が赦されたのは、両親とイエス様と37節に名前のある「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ」の三人の弟子たちだけです。ペテロは、自分の耳に届いたイエス様の「タリタ・クム」という言葉の響きを、少女が死の床から起き上がった光景とともに一生忘れることが出来なかったのでしょう。「光、あれ」とのお言葉で天地万物を無から呼び出された方は、「タリタ・クム」の一声で、この少女を一度渡った死線の向こう側からこちら側に、引き戻されたのです。神のお言葉は、すべての原因の根本原因です。神のお言葉は、すべてにまさる力です。
Ⅲ. 神と人との交差点
イエス様が立っておられる交差点は、幸いと不幸の二つの流れによってできる交差点というだけではありません。今回のエピソードでは、ヤイロの親子と長血の女の交差点というだけではありません。イエス様が立っておられるところは、神と人との交差点でもあります。それは、二つの意味で神と人との交差点です。
A. 人間の時と神の時の交差点
23節のヤイロの懇願を見ると、死にかけている娘のところに、イエス様に一刻も早く来ていただいて、生きているうちに頭に手を置いて祈っていただければ助かる、という信仰を彼が持っていたことがわかります。そして、時間が大変差し迫っていました。間に合うか間に合わないか、瀬戸際です。そして、長血の女にかかずらわっている間に、手遅れになり、家から伝令が到達し「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」と告げました。この感覚は、私たちは、皆よくわかります。何事にもその線を割り込むと遅すぎて取り返しがつかないというデッドラインがある。神様にご出動いただき、神様の全能の力を発揮して事態を一変していただくにも、やはりデッドラインがある、と普通私たちは考えます。
しかし、神の時と人の時は往々にして違います。39節で「その子は死んだのではありません。眠っているだけです。」と言ったとき、「人々はイエスをあざ笑った。」という反応が生じました。これが、神の時と人の時のずれを端的に表しています。人間の目に映るタイムラインではゲームオーバーです。しかし、神様の目から見るタイムラインでは、終了のゴングではなく、試合開始のゴングなのです。人間的に工夫のしどころ、力の発揮しどころが残っている段階を越えて、万事休すとなったときこそ、神様が直々にお出ましになり、神様らしい方法で、神様のわざをなさる準備の完了を意味するのです。
B. 神の焦点と人の焦点の交差点
また、人間は自分の目の前に展開している世界の目下のことしかわかりません。ヤイロの娘が息を引き取って、動かなくなってしまっている。呼吸もしていない、心臓も動いていない。死んでしまった。その目の前の現実しか私たち人間は見ることができません。しかし、神様の目の焦点は、もっと遠くに結ばれているのです。死んだ少女がもう一度息を吹く返し、この地上で神様の使命を果たしていく姿を見ることができるのです。神様は、そのような姿を思い描くことができる方なのです。そして、もし、神様がそのことを思い描かれたなら、それは、必ず実現するのです。12年間長血をわずらい苦しんできた女性に対しては、その病気が治ったという今の姿だけではなく、信仰によって、安心して健康に生活していく彼女の姿がその眼には結ばれているのです。
そして、そのことは現代を生きる私たちにも言えます。私たちは、自分自身を見る時、現在の自分しか基本的には見ることができません。或いは過去の自分しかみることはできません。しかし、神様は、青虫を見ながら辺りを優雅に舞うアゲハチョウの姿を見ることが出来るお方なのです。
イエス様が立っておられる交差点は、神と人とが交わる交差点です。今の時にしか生きられず、今目に映るものしか見えない私たち人間の世界に身を置きつつ、後の時を見通し、後の姿を今見ることがおできになる方なのです。それは、私たちにはできないことですが、イエス様はそれができる方であるのに、できない私たちと同じところに立っていてくださいます。私たちは自分で直接、未来の時に生きることも、未来の姿を見ることもできません。しかし、今の時を、一瞬一瞬イエス様とともに歩むことは可能です。信仰の手を伸ばし、イエス様にタッチすること、「タリタ・クム」の声を自分に語られている神のことばとして聞くこと、そして、イエスに手を取っていただいて立ち上がることは可能です。イエス様という交差点を通るとき、私たちは真に明日に向かって生きていくことが出来るのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。12年間長血の病に苦しめられてきた女の人が癒され、会堂司の娘として幸せに12年間生きて来た少女は病気であっけなく亡くなってしましました。しかし、イエス様には遅すぎることはありませんでした。イエス様は、私たちが終わったと思うところをスタートラインに変えることのできるお方です。この私たちの限界と神様の可能の交差点に立つイエス様に、触れ続け、ふれられ続ける一週間としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。