マルコの福音書を学ぶ(70)
□2026-05-10 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書14:32-36
□説教題 「どうか、この杯を」
□説教者 山田誠路牧師
導入
今日はよく「ゲッセマネの祈り」と言われるところの場面です。そこを、今回と来週と二回に分けてお話ししたいと思っています。最後の晩餐の後、逮捕、裁判、十字架刑へと一気に進んで行く直前の重要なシーンです。また、3年半寝食を共にしてきた弟子たちとイエス様との間にどうしても埋めることのできない溝が現れ、弟子たちとイエス様が一緒にいることができなくなる場面です。そして、イエス様にとっては、地上生涯において最も深い、そして最も激しい祈りをささげたところです。
今回ゲッセマネの祈りの第一回目はイエス様に、来週の二回目は弟子たちに焦点を当てて学びたいと考えております。
今日はさっそく本題に入って行きます。
ポイントとしては、
Ⅰ ゲッセマネの祈りの構造
Ⅱ ゲッセマネの祈りと受肉
ということでお話しを進めていきます。
本論
Ⅰ ゲッセマネの祈りの構造
⒈ 祈る様子
イエス様の祈りのことが記されているのは、36節ですが、それまでの32節から35節にはそこに至るまでの移動や弟子たちへの言葉が詳しく書かれています。
まず、32節でイエスさまは、弟子たち全体に対しては、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と、弟子たちを置いてご自分だけで園のもっと奥へ行こうとされます。
ところが、33節ではペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて行った、と書かれています。これまで何度か登場している内弟子トリオです。来週見るところですが、この3人も結局大切な場面で寝てしまったので、どうして彼らだけ少し近くにいることがゆるされたのかは、あまりはっきりはわかりません。
イエス様がとにかく近くにいてほしいと思われたのか。私たちが今日、これから学ぼうとしているゲッセマネの祈りのことばを記録に残すためだったのか、いろんなことが想像できるかもしれませんが、いずれにしても想像の域を出ません。
次に33節の後半からはとても重要なことが書かれています。「イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。』」というところです。
これは、驚くべき記述です。神が人となったイエス様、完全・完璧な人であるイエス様が、まだ、鞭も打たれていないのに、まだ、手にも足にも釘を打ち込まれていないのに、まだ、逮捕もされていないのに、この段階で「深く悩み、もだえ始め」というのです。しかも、それを自分の胸の内にだけしまっておくこともできなくなり、内弟子3人に対して「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と吐露されたのです。
イエス様がご自分の悩み、悶えを口にされたのは、この時が初めてだったでしょう。さぞ、3人の弟子たちは驚き、恐れたことでしょう。「あのイエス様が、これほどまでに恐れおののき、焦燥している。」
そして、35節に注目したいと思います。イエス様はさらに少し進んで行かれました。そして、「地面にひれ伏し、出来ることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。」とあります。福音書には、イエス様が祈られたことを記している箇所は何か所かあります。「朝早く」「人里離れたところに出て行き」「夜を徹して」「天を見上げて」などの表現はありますが、「地面にひれ伏して」というのはこのゲッセマネの祈りの時だけです。この祈りがどれほどイエス様の全存在をかけての全力の祈りであったかが伺われます。
そして、この35節で一番注目したいことは、「できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。」というところです。
これは、実際の祈りのことばを記している36節に先立って、どのような祈りをされたかを事前にまとめているような役割を果たしています。そこにとても意味があるのですが、今はそのことを指摘するだけに留めて、次に進んで行きたいと思います。
⒉ 祈りのことば
次に36節のイエス様の実際の祈りのことばそのものを見ていきたいと思います。順番に五つに分けることができると思います。
①呼びかけ:「アバ、父よ」
②神理解:「あなたは何でもおできになります。」
③願い:「どうかこの杯をわたしから取り去ってください。」
④自己否定:「しかし、わたしの望むことではなく」
⑤明け渡し:あなたがお望みになることが行われますように
①、②そして③以降と三つに分けて見ていきたいと思います。
①呼びかけ
まず、イエス様がこの全存在をかけての祈りを「アバ、父よ」という呼びかけをもって始められたことはとても重要な意味を持っています。「アバ」とはイエス様が日常使われていたアラム語で「お父ちゃん」くらいの意味の言葉だと言われています。有名な主の祈りの冒頭は「天にまします我らの父よ」と日本語では始まりますが、イエス様はご自分が祈るときにはこの「アバ」という言葉を使って父なる神様にいつでも呼びかけていた方です。日本語のしかも明治期に訳された祈りの言葉は、格調は高いのですが、逆に現代の私たちにとっては格調が高すぎる嫌いがあります。イエス様は、「アバ、お父ちゃん」という親しみを込めて神様に祈ることをした歴史上はじめての人だったのです。そしてそのように祈るように教えられたのです。そして、重要なことは、この重いゲッセマネの祈りをこのいつもの「アバ」で始められたのです。ここには、父なる神様と地上を歩む御子イエス様の間に親しい関係が保たれていたことの証しです。
②神理解
次に「あなたは何でもおできになります。」の部分を見て行きましょう。ここは先ほど、「神理解」と名付けました。神に対して「あなたは全能の神、あなたは何でもおできになる、あなたにできないことはありません」と告白することは、それに続く願いを捧げる根拠となります。これは、私たちも日ごろ経験することです。この病がいやされますように、戦争がなくなりますように、いろいろな私たちの手では実現できないことを私たちは神様に対して祈ります。その時、私たちも神様に対して「あなたにはすべてが可能です」と告白するとき、大胆に願い出ることができるのです。イエス様も同じだったということでしょう。
③願い以降
そして三つめがこの祈りの真っ中心である願いです。「どうかこの杯をわたしから取り去ってください。」の部分です。普通、このゲッセマネの祈りの一番大切な要素は、次の④と⑤の部分だと言われます。すなわち「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」とイエス様がご自分の願いを引っ込められて父なる神の御心が優先されるようにとした部分です。そして、祈りとは、この自分の願いを持ち出して、神と格闘して、最終的には自己都合を引っ込めて神第一とすることだ、というようなことが多く語られると思います。それはそれで尊いことです。
しかし、私は今回、このゲッセマネの祈りの箇所を読み返して、「いや、このイエス様の一世一代の祈りの真っ中心は、その部分ではなく『どうか、この杯をわたしから取り去ってください。』の部分だと」確信するようになりました。
その理由は、さきほど少し伏線として触れておいたことと関係があります。33節から35節にかけて、言葉を重ねてこの祈りがどれほど祈り難い、別の言い方をすれば、イエス様の全存在を消費するようにしなければ祈れないものであったかを描写してきました。そして、実際の祈りの文言に入る直前のことばは、「この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」なのです。「御心がなりますようにと祈られた」ではないのです。これは、「時が過ぎ去る」と「杯を取り去る」に置き換えられますが、「この杯をわたしから取り去ってください。」と実質的に同じことです。マルコのテキストから言えることは、この36節の先ほど私が①から⑤に分解した内容を含む祈りの言葉を一言でまとめると「この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」だということです。
Ⅱ ゲッセマネの祈りと受肉
⒈ イエス様が完全な人となられたからこそ
続いて、この願いこそがゲッセマネの祈りの真っ中心であったことの意味を考えていきたいと思います。このことは、キリスト教、あるいはキリスト教が言う救いと大変大切な関係にあります。
私はいつもキリスト教で一番大切なことは何かと問われたら「それは受肉です」と答えることにしています。「受肉」「受ける肉」と漢字では書きますが、それは、神様が人となられたということです。
日本の神道では人が死んだら神になります。明治天皇もなくなって神になって明治神宮に祭られています。菅原道真は天満宮に祭られています。しかし、キリスト教は神様が人となったと主張する唯一の宗教です。そして、半分神、半分人というブレンドされた存在でなく、「真の神にして真の人」という存在です。そして、その「全く人になった」ということが今回と大いに関係があるところです。
もし、この地上を歩まれたイエス様の体が私たちの体とは「似て非なるもの」であったならば、ゲッセマネの祈りは、もっと淡泊なものになったでしょう。33節から35節は不要となり、36節も最後の「あなたのお望みになることが行われますように」で終わったでしょう。
逆に言うと、そのなくならなかった部分というのが、イエス様が本当に人となり、私たちと同じ体を持ってくださったということの証左です。そして、そこにキリスト教の救いの確かさがあると私たちは信じているのです。
⒉ 親しさが破れ痛みに覚えられる
①親しさが破られる
この箇所に現わされているイエス様の悩み、もだえ、悲しみ、「この杯をわたしから取り去ってください」との祈りが、どのように私たちの救いと関係しているかをこれから考えていきたいと思います。そして、それが今朝の説教のメインのテーマです。
①親しさが破られた
イエス様の痛み、苦しみということに入っていく前に、イエス様が父なる神様との間に持っておられた親しさについてもう一度触れておく必要があります。
先程、「アバ」という祈りの呼びかけのところで、イエス様は日ごろから「お父ちゃん」と、父なる神様に呼びかける存在として神様に向き合っておられたことをお話ししました。
旧約の時代、人間は動物のいけにえの血という捧げものなくして手ぶらで神様に面会することは許されませんでした。聖なる神様と罪に汚れた人間の間には明確な境界線がありました。旧約を代表する人物のモーセ、ダビデ、エリヤ、イザヤその他どんな人物を挙げても、神様を「アバ」と呼んで親しく交わった人物はいません。
しかし、イエス様は、神の独り子であられるので、父なる神を「アバ」と呼ぶことは自然なことです。その親しさを持った「真の神」のまま「真の人」になられたのです。そして、そこまで想像できることであるとしても、驚くべきことに、イエス様は働きのごく初期から弟子たちにも神様を「アバ」と呼ぶように教えておられたのです。
ですから、イエス様がもたらされ成就された救いをこの面から言うと、「私たちを神様に対して「アバ」とお呼びして親しく交わることができる者へと変える」ということになります。しかし、そのことは、父なる神と御子イエス様が一緒になっても、ただ「そうなったらいいなあ」と願うだけでは実現できなかったのです。そこには、イエス様が人となって身につけられた体が裂かれるということがどうしても必要だったのです。
②痛みに覚えられる
一つの比喩をもって裂かれることとその裂かれた間に覚えられることを考えてみたいと思います。私が考えたのは、今はもうなくなったかもしれない「川の字」で寝るというやつです。私事で恐縮ですが、私の記憶にうっすらと残っている私の家族の原風景は川の字でした。私には五つ上の兄と二つ上に姉がいます。私が小さいころ、五人家族は一つの畳の部屋に布団を並べて寝ていました。どう寝ていたかというと一番奥に父、その次に一番幼い末っ子の私、次に母、その横に姉、一番遠くに兄という順番でした。私は父と母の間に川の字に挟みこまれて寝ていたのです。父と母が結婚したときは二人の間に寝かすべき存在はまだありませんでした。しかし、子どもが生まれたとき、その二人の間を裂いて、そこに子供を入れたのです。これは想像ですが、そうすることによって、父と母の心の一体感はより親密なものとなったことでしょう。
私たちが神の子とされ、父なる神を「アバ、父よ」と呼ぶことができるために、父なる神様と御子イエス様との親密な関係が一度裂かれたのです。それは、十字架の上で実際には起こりました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」の悲痛な叫びがそれを表しています。
しかし、そのためにイエス様の体が実際に裂かれたのです。その痛みに私たちが覚えられ、その裂け目に私たちは抱き寄せられたのです。それが自分のためであったと信じる人を救うと神が定めたからです。
そして、ゲッセマネの祈りは、イエス様が裂かれる覚悟を決められた祈りなのです。私たちと全く同じ体を持っているからこそ味わう恐れ、悩み、もだえを味わい、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」とあのイエス様が正直に祈りでたほどの願いを父にぶつけるほどの苦しみを経てその覚悟を決められた祈りなのです。その痛みが本物であったことが私たちの救いが本物であることを保証するのです。
まとめ
まとめます。今回は、ゲッセマネの祈りの前半を学びました。そこに、私たちは福音書を読んできてそれまで見たことのないイエス様の姿を見ます。深く悩み、もだえ、悲しみのあまり死ぬほどです、と弟子たちに告白するイエス様です。そしてイエス様は地面にひれ伏して祈りを始められました。そんなお姿もこれが最初で最後です。そしてその祈りの真っ中心は、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」であったことを見ました。そして、その叫び、痛みはイエス様が完全に私たちと同じ人間になってくださったからこそであったことを見ました。その痛みが本物であったからこそ、私たちが覚えられた痛みが本物であったからこそ、私たちは本当に救われるのだということを教えられました。それこそが、「受肉」の奥義です。来週はゲッセマネの祈りの後半、弟子たちの姿を学びます。この週、十字架を目前にされたイエス様が、どうしてこれほどまでにゲッセマネで苦しまれたかを深く味わい、そこに私たちへ向かう神様の愛の深さ、私たちの救いの確かさを知る者とさせていただきましょう。
祈り
一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。前回で最後の晩餐が終わり、今朝はとうとうゲッセマネの祈りのところまでマルコの福音書を読み進みました。人間のことばは常に舌足らずです。どうぞ、聖霊ご自身がこの一週間、私たちとともにいてくださり、イエス様の裂かれた痛みに覚えられていることを少しでも深く知る者としてください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。