マルコの福音書を学ぶ(69)

□2026-05-03 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書14:26-31

□説教題 「先にガリラヤへ」

□説教者 山田誠路牧師

導入

前回私がお話しした時には、マルコの福音書に書かれている最後の晩餐のメインディッシュと私が名付けた聖餐式の制定のところを学びました。「わからなくても語る愛」ということを強調しました。今日は、最後の晩餐のデザートコースです。デザートには普通甘いものが出ますが、最後の晩餐のデザートは苦く酸っぱいものでした。弟子たち皆がつまずくことと、特にペテロが3度もイエス様を知らないと言う、という予告でした。

その前に、26節の冒頭の「賛美の歌を歌ってから」というところを見ておきたいと思います。当時、過越しの食事では、食事の前に詩篇113篇と114篇を、そして食事の後に115篇から118篇を歌うというように定められていました。先ほどは、その中から一つ選んで115篇をご一緒に交読いたしました。詩篇にはもともとすべて曲がついていて、今私たちが聖書で見ることができるのは、その歌詞のようなものです。イエス様とお弟子さんたちはそれらを歌ってオリーブ山に出かけました。

オリーブ山は最後の一週間の火曜日に、神殿の中での長い論争を終えて出てきたあと、イエス様が弟子たちを連れて登って行かれたところです。そして、上から神殿を眺めながら、神殿の破滅と終末についてひとまとまりの話をされたところですね。

今日のところでは、イエス様は27節で「あなたがたはみな、つまずきます。」という衝撃的な予告をされました。そして旧約聖書ゼカリア書13章7節を引用して「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と書いてあるからです、とその根拠を付け加えられました。

これは、聖書の預言通りにことが運ぶという運命論を言っているのではありません。この「つまずき」は、単に弟子たちの弱さというだけでは説明できないものだ、この弱さをすべての人が抱えているのだ。そして、神様の側では、単なる場当たり的な思い付きからではなく、歴史の中に介入しながら神の救いのご計画の中にそのことが組み入れられている、ということを示しているのです。

さて、ここまでを序論としまして、今日の本論に入っていきたいと思います。ポイントとしては、

Ⅰ 先回りの神の愛

Ⅱ 二つのガリラヤ

ということでお話しを進めていきます。

本論

Ⅰ 先回りの神の愛

⒈ 肉による割込み

依然として不理解な弟子たち

さて、もう一度よく27節と28節をご覧いただきたいと思います。

イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

ここは、落ち着いて読みますと、これまで三度ほどイエス様の口から繰り返されてきた受難と復活の予告の最後のものと受け止めることができるかと思います。

ゼカリア書13章7節から引用された「わたしは羊飼いを打つ」というのが受難の予告です。羊飼いであるイエス様が打たれる、殺されるという予告です。

そして、復活の方は、28節の「よみがえった後」とこちらは明らかなかたちで言われています。

28節冒頭の「しかし」は受難と復活をつなぐ力強い「しかし」です。きっと、イエス様も力をこめてこの「しかし」を口にされたのだと思います。

ところが、それに対する弟子たちの反応はどうだったのでしょうか。その反応も実は過去三回の予告のときとまったく同じだと言えます。それは、端的に言うと、「受難予告に対してはネガティブに反応し、復活予告については無視というかスルーする」という反応です。

そして、いつものようにペテロが口を開きます。29節「するとペテロが言った。『たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。』」

厳密に言うとこれは受難予告に対する反応ではなく、それに付随してなされた「弟子たちのつまずき」の予告に対する反応です。しかし、31節を見るとペテロは、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても」という言い方をしています。受難の予告をペテロなりに受け止めてはいるのです。その上で、そういたことが起こった場合の自分の行動として、つまずくことはないと言い切ったわけです。イエス様が「こうなるよ」と言われたことを否定して「そうしません」と言い張ったのです。

肉の根拠

次にその根拠を見てみましょう。三つあると思います。

一つは他人との比較です。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」他人と比べて自分は優れている、強いという自信です。

 二つ目は肉の力です。「肉」ということばを今日は何回か使いますが、それは、キリスト教用語の一つで「神からはなれた人間性」と理解しておいてください。31節の冒頭を見ますと、30節で3度知らないと言うという悲しい予告をされたペテロは、「力を込めて言い張った」。とあります。私たちの内側から時々そのような力が頭をもたげてくるときがあります。

三つめは、「破られる誓い」です。他人と比較し、自分の内側から力が出て来るだけではなく、「決して申しません。」という誓いです。

しかし、そのすべてがあと数時間後には、すべて化けの皮がはがされて、破れてしまいます。私たちから出て来る自信も力も誓いも大したことはなく、役にたたない代物です。

そして、もう一つのことを申し上げたいと思います。これは、明確な根拠があるというわけではありませんが、私の読後感のようなものです。28節のイエス様のお言葉は、もっと続きがあったのではないだろうか、ということです。27節と28節は先ほども指摘した力強い「しかし」でよく繋がっています。ところが、28節は「ガリラヤへ行きます。」で終わるのは何か突然すぎるような気がするのです。「だからそこで…」「だからそれまで…」というような何らかの指示が続く方が自然ではないだろうか、と私は思ってしまいます。そうだとすると、29節の「すると、ペテロはイエスに言った。」からのところは、肉による割込みです。肉による割込みは、神様のためにと思っていきり立つのですが、神のご計画を進めるどころかその妨げにしかなりません。しかし、その肉の割込みを神様の先回りする愛が包み込んでいる、というのが今日のテーマです。

⒉ 打たれた羊飼いが行く

28節の「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」という言葉は、一つ前の27節の「わたしは羊飼いを打つ」という件(くだり)で、羊飼いであるイエス様が打たれる、すなわち殺されるけれども、それで終わりではない、その先があることを言っています。ガリラヤへ行くのは、打たれた羊飼いイエス様です。まことの牧者であるイエス様が、羊である弟子たち・わたしたちを導こうとされる先は、打たれた羊飼いだけが行けるところなのです。一見、羊飼いが打たれて散らされるようにしか見えませんが、実は、打たれた羊飼いだけが連れて行くところへの先回りされる。そのことをこの箇所は言っているのです。そこに聖書全巻のメッセージからは十字架の死と復活を読み取ることができるのです。

⒊ 16:7の伏線として

この時、弟子たちはこのイエス様のお言葉の意味をとうてい理解できず、心に留まりもしなかったでしょう。しかし、イエス様が語られたことは無駄にはなりませんでした。人の記憶は不思議なもので、言われたときには気にも止まらなかったことが、状況が変わったり窮地に陥ったりしたときに、俄然意味をもってよみがえってくることがあります。

今日の週報の聖書箇所のところに、最後に少し先の16章7節だけ加えておきました。これは、イエス様が日曜日の朝復活されたとき、空っぽのお墓のところで、イエス様の亡骸に香油を塗ろうと思ってやってきた女性たちに語られたことばです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。』前に言われたとおり、そこでお会いできます。」

この16章7節のことばと14章28節のことばを比べてみてください。二つのことが加えられていることが分かります。

一つは「前に言われたとおり」ということばです。16章7節の時点で、この「前に言われたとおり」と言えることは、大きな意味を持っています。もし仮に、14章28節の予告がなく、復活の朝、いきなり「イエスは復活してあなたがたより先にガリラヤに行かれます」と告げられても、それは、女たちも弟子たちもまったく何のことを言っているのかわからなかったでしょう。14章28節の時点では、分からなくても、そして私の読後感では、ペテロに割り込まれても、そこで語っておくことが、復活の事実を受け取るために、とても重要な役割を担っているのです。

もう一つ加えられていることは、「そこでお会いできます。」です。テキストをよく読むと、「前に言われたとおり」の部分は、「ガリラヤへ行かれます。」の部分にではなく、「そこでお会いできます。」に掛かっています。しかし、14章28節では、「あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」はあっても「そこで会えます」はありません。マルコの他の箇所にも、「そこで会えます」は出て来ません。

マルコの記者は筆を滑らせて、イエス様がそこまでは語っていなかったことを、お墓のシーンでは、前もって語ったことの中に間違えて入れてしまったのでしょうか。この問いへの答えは、次のⅡで考えたいと思います。

Ⅱ 二つのガリラヤ

⒈ 神の先回りの仕込み

ここからは、私の大胆な想像です。さきほど、私は、14章28節は、まだ続きがありそうなのに突然終わっているような感じだ、そしてペテロが割り込んできたイエス様の言葉を遮ったように感じると申し上げました。

私は、14章28節で、イエス様は実は、「そこでわたしに会えるのです」まで言われたのではないかと思います。しかし、それがなぜ、記されていないのか。

私たちのこの喜多見チャペルの礼拝は毎回録画して説教の部分だけYouTubeに載せています。下のホールでピアノを練習されていると、実は結構この防音扉を越えて、中まで聞こえてきます。しかし、私がしゃべっている間はほとんどピアノの音は聞こえません。ところが、言葉と言葉の間に間があると、スーっとピアノの音が聞こえてきます。ピアノの音はあるのに、近くで人がしゃべっているとそれに集中して、ピアノの方はノイズとして消去しながら音を拾っていく機能がマイクにあるようです。

それと同じことが、弟子たちやペテロに起こったのではないでしょうか。マルコがペテロを情報ソースとしてこの福音書を書いたと言われております。ペテロは自分が割り込んでしゃべっているときに、同時に語られたイエス様のことばは抜け落ちた、というのが私の見立てです。

しかし、一旦ノイズとして消されたイエス様の言葉は、復活の出来事の後に、意味をもってくるのです。復活の出来事が弟子たちの希望に、新しい出発の発火点となるために、神の先回りの愛による仕込みがあったのです。そしてその仕込みの舞台が、二つのガリラヤです。

⒉ 出てきたガリラヤ

「出てきたガリラヤ」と「戻って行くガリラヤ」です。

「出てきたガリラヤ」、それは、①イエスにとっては、公生涯の前の隠れた30年を過ごされた地です。また、受洗と試みの地であるユダヤからわざわざ帰って来て宣教をはじめた地です。②弟子たちにとっては、はじめてイエスに出会い、すべてを捨てたはずの地です。一言で言いうと、すべてのスタート地点です。そこからすべては始まって行ったのです。

⒊ 戻って行くガリラヤ

それでは、もうひとつの「戻って行くガリラヤ」はどんなところでしょうか。それは、①イエスにとっては、十字架の死と復活を越えて初めて到達できる地です。そして、弟子たちが来るのを先回りして行って待っておられる地です。②弟子たちにとっては、復活の主にお会いする地です。網も船も親も何もかも捨てて3年半寝食を共にしてきたのに、逮捕と裁判と十字架刑によって一緒にいることができなくなってしまったイエス様と、いつまでも一緒にいることの出会いをする地です。地上を歩まれた肉体をもったイエス様とはいつまでも一緒にいることはできませんでした。しかし、復活の主は私たちといつも、いつまでも、どんなときにも共にいてくださる主です。その主と出会い直すのが「戻って行くガリラヤ」です。

まとめます。①今回は、肉の割込み、口出しを包み込む先回りする神の愛ということをこのテキストから学んできました。②今朝、私たちは詩篇の交読では115篇を読みましたが、その中の3節には、「私たちの神は天におられ その望むところをことごとく行われる」とありました。天とは私たちの日常とかけ離れた別の世界のことではありません。今日のテキストでいうなら、「出てきたガリラヤ」と「つまずき、裏切ってしまったエルサレムと」と「戻って行くガリラヤ」のすべてを含むところです。神様は遠隔地操作で自由自在に望むところを行なわれるのではありません。十字架の死と復活と先回りする愛をもって、歴史に介入し私たちと共に歩むことによって望むことをことごとく行われるのです。この主に信頼して行きましょう。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様が弟子たちみなのつまずきと特にペテロの3度の裏切りを予告されたところを読みました。私たち人間は、本当に愚かなものです。正義感に燃やされたとしても、その根拠はみなもろく、試みに耐えられないものばかりです。しかし、主は、先回りしてガリラヤに行かれ、そこで私たちを待っておられます。私のこの小さな生涯にも、主はいつでも先回りをして、あなたと出会う私のガリラヤを用意しておられます。肉が元気なときには、ノイズとして打ち消した主の語り掛けも、私たちはイエス様の十字架の死と復活を信じることによって、私たちに真の希望を与える言葉としてとらえ直すことができる信仰をお与えください。今年のゴールデンウイークの歩みの中、この週のそれぞれの生活を守り、祝福してください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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