2025-12-21 クリスマス(アドベント第四)礼拝

  • 2025-12-21 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 コリントへの手紙第二8:9
  • 説教題 パウロ書簡から学ぶアドベント(3)「キリストの貧しさによって」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 

A. 本日のテキスト

今年のアドベントは、私の当務の時には3回にわたり「パウロ書簡に見る受肉」というシリーズを組みました。今日は、最後の3回目でコリント人への手紙第二からみ言葉を学びたいと導かれております。今日は、普段あまりしないのですが、たった一節だけをテキストに選びました。

前後を少し広げて読んでいただくとすぐにわかりますが、この箇所は、パウロがコリントの教会の人たちに献金について語っている文脈の中に出て来る言葉です。ですから、今日のテキストに出て来る「富」とか「貧しさ」というのは、第一義的には、精神的・霊的なことを指しているというよりも、文字通り、経済的な豊かさ、貧しさを言っているのです。しかし、更にもう少し立ち止まって考えてみると、この部分は献金の文脈の中では、たとえとして持ち出されている部分なので、この部分のオリジナルの意味は、経済的なことより、もっと精神的、霊的な豊かさ、貧しさを言っているのです。

今日は、この年のクリスマス礼拝を守る日曜日です。クリスマスの意味をこのキリストの豊かさ、貧しさ、そして私たちの豊かさ、ということばを手掛かりに考えていきたいと思います。

B. テキストについての疑問

さて、本題に入ります前に、今日のテキストについての一つの疑問を皆様と共有したいと思います。それは、準備の中で私自身が抱いた素朴な疑問というか、ひっかかった点です。もう一度、8章9節をお読みします。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」一旦、ここで止めます。

多分、ここまでは、私たちがこれまで聖書に書かれている内容について聞き及んできたことからだいたい言わんとすることは想像がつくかと思います。コリント人への手紙より少しページをめくっていただいたピリピ人への手紙2章5節から11節までのところにこういうみ言葉があります。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、

神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、

人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、

それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、

すべての名にまさる名を与えられました。

それは、イエスの名によって、

天にあるもの、地にあるもの、

地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

すべての舌が

「イエス・キリストは主です」と告白して、

父なる神に栄光を帰するためです。

コリント人への手紙で言っている「主は富んでおられたのに」というところは、ピリピ書では、「キリストは、神の御姿であられるのに」のところに当たります。そして、コリント人への手紙の方の「あなたがたのために貧しくなられました。」は、ピリピ書では、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」に当たると考えてよいと思います。

神の御子が、天において神としてのすべての栄光と力と富をご自分のものとしておられたのに、私たちを救うために、私たちと同じ、弱い、もろい、限りある肉体をとって人となってくださった。しかも、ヘロデ王にひねり殺されてもおかしくない、赤子になって、しかも宮殿ではなく家畜小屋の飼い葉桶に寝かされるところからスタートしてくださった。神の特権の放棄、神から人への急降下を言っていると理解してよいと思います。

しかし、問題はその次です。「あなたがたが、キリストの貧しによって富む者となるためです。」このことばは少し奇異に感じないでしょうか。もし、キリストが富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられ、それゆえにわたしたちが富む者となるのなら、それは、「キリストの放出された富によって」となるべきではないでしょうか。ここが「キリストが私たちにくださった富によって」ではなく、「キリストの貧しさによって」となっていることに着目して、今年のクリスマスのメッセージを味わいと思います。

C. 本日のポイント

ということで、今日は、大きなポイントとしては、

⒈ 放出された富

⒉ キリストの貧しさ

この二つでお話ししていきます。

Ⅰ. 放出された富

すでに申し上げましたが、本日のテキストでは、私たちを富ませるのは、神の御子が受肉以前に天で持っておられた富を放出されて、私たちそういうものを持たず、貧しい者に分け与えたゆえに、私たちが富む者となった、ということを言っているのではない、と申し上げました。

そうではないことをあまり詳しく言っても無駄かもしれませんが、正解をしっかりとらえるために、回り道のようですが、誤解の方も少し巡ってみたいと思います。

⒈ ビル・ゲイツ

このイメージにピッタリくるのは、いわゆる慈善事業家の生き方です。パッと思いつくのは、マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツでしょう。そこで、少しビル・ゲイツについて調べてみました。彼は、1995年から2007年まで、米『Forbes』誌の「世界長者番付」で13年連続首位をキープした。世界一の大富豪です。その後も2009年、2014~2017年に再び首位に返り咲きました。独禁法の絡みなどもあって、2000年頃から20年かけて会社の経営から離れていきました。そして、その代わりに勢力的に乗り出したのが、慈善事業でした。2000年に妻のメリンダさんとともに「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」を設立して、それ以来ワクチン普及・感染症対策、インフラ整備などのために、莫大な額の寄付を今に至るまで続けています。しかし、決してビル・ゲイツにケチをつけるわけではありませんが、ビル・ゲイツの総資産は、2000年の時点で約600億ドル(9兆円)だったのですが、2024年では、推定1,040億ドル(15.6兆円)になっています。一組の夫婦で、ゲイツ夫妻以上に慈善事業への寄付をしてきた人々はいないでしょう。しかし、それでも彼らは自分の資産は減るどころか、ずいぶん増えているのです。

⒉ チャールズ・チャック・フィーニー

もう一人、違うタイプの慈善事業家を紹介したいと思います。チャールズ・チャック・フィーニーというアメリカの事業家かつ慈善事業家です。Duty Free Shoppersという世界的に有名な免税店を展開している会社の共同オーナーだった人です。1933年生まれ、2023年に92歳で亡くなりました。1955年生まれのビル・ゲイツよりも22歳先輩です。フィーニーが亡くなったとき、ビル・ゲイツは追悼文を発表しました。そこで、彼がフィーニーからいかに多くの影響を受けたかを語りました。そして、フィーニーの生き方を一言でまとめて、Giving while living(生きているうちに与える)と表現しました。

フィーニーは実際、豪邸を持たず、私有ジェットを持たず、高級車を所有せず、エコノミークラスで移動し、全財産(約80億ドル規模)を与え切った後、賃貸アパートで暮らしたのでした。彼の伝記の英語のタイトルは”Billionaire who wasn’t”で、日本語では「無一文の億万長者」となっています。

フィーニーの生涯を第二コリント風に言うと、「フィーニーは富んでいたのに、多くの恵まれない人のために貧しい生活を続けました。それは、多くの人が、フィーニーが放棄した富によって富む者となるためです。」となるかと思います。

このフィーニーの生き方をしても、最後のところは、「フィーニーの貧しさによって」とは決してなりません。フィーニーの慈善事業によって、学校に行けるようになった人、病気から救われた人、人生が豊かに展開した人がたくさんいるでしょう。しかし、その人たちの人生をそのように、豊かにしたのは、フィーニーの貧しさではなく、富です。放棄した富です。

Ⅱ. キリストの貧しさ

 次に、大きな二つ目として「キリストの貧しさ」ということを考えていこうと思います。

⒈ 富む者となった

まず、押さえておきたいことが一つあります。それは、「キリストの貧しさ」は、「わたしたちを富む者と」した、という時の「富む者」の意味です。それは、9節の冒頭にある、「あなたがたは主の恵みを知っています」ということばと結びつけて理解する必要があると思います。私たちが何に富むのか、というと主の恵み豊かさを知ることにおいて豊かになる、という文脈でこの9節は書かれているのです。

ですから、キリストの貧しさは、私たちにキリストがいかに恵み豊かな方を私たちに教えるものである、ということがまず押さえておかなければならない点です。

⒉ 何を失った貧しさか

次に考えるべきことは、この「キリストの貧しさ」は、キリストが持っておられたどんな富を失ったことによる貧しさか、ということです。それは、端的に言えば、御子が永遠の生命のはじめから御父と共にいて、持っておられた栄光、力、富み、いのちです。

御子は、永遠の昔から永遠の先まで、これらのものを父と共有するべきお方なのです。

ヨハネの福音書17章5節にこういうことばあります。「父よ。今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現わしてください。世界が始まる前に一緒にもっていたあの栄光を。」ここは、十字架を前にしてのイエス様の心の一番深いところを注ぎだした祈りの場面と言われています。

マタイの福音書26章52節、53節にはこういうみ言葉があります。イエス様が逮捕される場面です。ペテロが剣を抜いて応戦しようとしたときです。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」地上を歩まれた神の御子は、持てる力を放棄されたのです。一番使いたいとだれでもが思う、使えば逮捕を免れるときに、あえて使わなかったのです。大富豪が大衆車にのり、エコノミーで移動し、賃貸に住んでいる、というのとも比較にもなりません。

また、口語訳ではロマ書9章23節とエペソ書3章16節に「栄光の富」という言葉が出て来ます。

世界市場けた外れに大金持ちとして有名な人に14世紀西アフリカにあったマリ帝国のマンサ・ムーサという皇帝です。彼は、メッカに数千人規模の従者を従えて巡礼に出かけ、大量の金を施しとして配布したのです。そのため、金の価格が数年間にわたり暴落したという記録が残っています。しかし、試験では、人類史上一番豊かだった人は、人祖アダムだと思います。アダムは、神様から大きな川が四つの支流になって流れ、良質の金がを産出し、食べるのによいすべての木に囲まれ、一方の木以外は「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と言われていた存在です。ここには、無制限の豊かさがあり、また、神様とのこれも無制限の交わりの豊かさがありました。神の御子イエス・キリストが地に下り私たちと同じ人間となられたのは、このレベルの豊かさを放棄されたことを意味します。

そして、豊かさを放棄されただけではなく、だれも経験したことばないほどすべてを奪われて貧しくなられました。その辺りのことをイザヤ書53章では、「彼には見るべき姿もなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」と低くされたキリストの姿を預言的に表現しています。

⒊ 倉田百三の小説から

最後に、「キリストの貧しさ」の本丸に少しでも近づいていきたいと思います。私たちを富ませる「キリストの貧しさ」は、それに匹敵するものはないので、何かを類例としてもってくることは非常に難しいです。しかし、それでも、私が今回思いついたそれでも一番近い例を挙げたいと思います。

それは、倉田百三という人が書いた小説から抜粋して引用します。『出家とその弟子』という作品の中の一節を紹介します。

「私は母の衰えた姿を見るのが辛かった。しかし、その衰えこそが、私に対する母の『無私』の証明であったのだ。 母は私に命を与えるために、自らの美しさを捨て、健康を捨て、最後にはその肉体そのものを燃えかすのようにして私に残してくれた。二十歳(はたち)を過ぎた私のこの瑞々(みずみず)しい皮膚は、母が失ったすべてのものの結晶なのだ。 そう思ったとき、私は母の老いた顔に、世のいかなる芸術よりも美しい聖母の姿を見た。 」

宮本百合子というプロレタリア文学の女性作家はこんな文章を遺しています。

「女の体は不思議なものだ。自分の口に入れるものさえ事欠くような時でも、子供のためには、豊かな乳を湧き出させる。それは自分の骨を溶かし、血を白く変えて、子に与えているのである。 子がまるまると太ってゆく傍らで、母親が目に見えて痩せさらばえてゆくのは、母という名を持つ者に与えられた、光栄ある犠牲であった。」

宮本は、母は文字通り自分のからだを削って子どもに栄養を与えていく。子どもが大きくなる分母がやせ衰える。それでも母や惜しみなく提供する、ということを言います。倉田は、その結果である母のカサカサになった皮膚、しわ、曲がった腰、葉が抜けた口元に老いに十分に大人になった自分が事後的に愛を感じる、ということを書いています。

私たちは、母親に育ててもらっている内は、どれほど身を削って母からのものを受けているかを自覚することはほとんどないのではないかと思います。無自覚で受け続けて大きくなあって、大きな顔をするようになります。しかし、自分が大人になり、或いは母になったとき、はじめて、後から、受けてきたもののあまりの大きさに気づきます。そして、その時初めて愛を受け取るのです。そして、今度は自分が与える側に立ち始めるのです。私は、「キリストの貧しさによって富む者となる」とはそういうことではないかと思います。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝、共に、今年のクリスマスの礼拝を捧げることができたことを感謝いたします。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたたがた、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」この聖書の一句は深くて味わい尽くすことができませが、今朝、ここでその一旦を共に味わいました。この週、またまだ続きますクリスマスを思い祝うこの週の歩みのなかで、私たちの霊を開き、キリストの貧しさを少しでも私たちの存在の一番深いところで受け止めることができますようにお導きください。ここにお集いのお一人一人のご健康とあゆみをお支えください。また、広がるご家族、ご親族、友人知人の上にも同じ恵みと祝福をもってお臨みください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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