2024-05-19 ペンテコステ礼拝メッセージ

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□2024-05-19(日) 喜多見チャペル ペンテコステ礼拝

□聖書 コリント人への手紙第一6章19節、20節

□説教題 「聖霊の宮」

導入

1. テーマ:パウロにとってのペンテコステ

今年のペンテコステのためのメッセージを祈り求めていたときに私の心に通ってきたことは、「パウロにとってのペンテコステ」とはなんであったのか?という問いでした。パウロは、間違いなくイエス・キリストを別にして、キリスト教史上最大の人物です。しかし、そのパウロは、使徒の働き2章に記されているペンテコステの出来事に立ち会っていませんでした。まだ、クリスチャンではありませんでした。もっと、いうならば、その前段階の迫害者にもまだなっていませんでした。ペンテコステの出来事を機に教会が誕生し、教会が誕生したからこそ、迫害者パウロも誕生したのです。端的に言って、パウロはペンテコステの出来事とは無関係な人物でした。

2. 直接体験者ではない者が最大体現者

 しかし、回心後の伝道者としてのパウロの姿を見る時に、ペンテコステの出来事によって注がれるようになった聖霊の力を彼ほど体験した人物はいないと言ってよいでしょう。ですから、ペンテコステの出来事をその場で直接体験したのではないパウロが、一番ペンテコステの恩恵に浴している、と言えるわけです。そして、このことは、私たちがペンテコステを考える際に、とても大切な視点を与えてくれると思います。

3. パウロが書いたものから

 パウロにとってのペンテコステを考えるために、パウロが書いたものに目を通していきました。ロマ書を通り過ぎて、コリント人への手紙に差し掛かり、私の目に飛び込んできた表現がありました。それは、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」という言葉でした。これは、コリント人への手紙第一3章16節です。更に読み進んでいきますと、似た表現が今度は6章19節から20節にかけて出てきます。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。」

Ⅰ. 疑問の提示

 ここに出てくる「私たちの内に聖霊が住んでくださる」あるいは、「私たちの体は聖霊の宮」である、と言い表されている内容が、パウロとペンテコステとの関係の終着点だと私は考えています。そして、それは、パウロにとってのみならず、すべてのクリスチャンにとっても、また神様のご計画という観点から言っても、ここが終着点ではないかと考えております。

1. 聖霊が内に住んでもなお弱いのか?

①ペンテコステは強くされることではないのか?

 しかし、ここにまた、一つの疑問がわいてきます。もし、聖霊が内に住んでくださるということが、それほど大切なこと、神と人間との関係の最終形だとまで言えるのだとしたら、どうして、パウロはその後も弱さを抱えて生きて行ったのか?という疑問です。特に、使徒の働き2章に記されている記事からどうしても私たちが連想することは、ペンテコステとは、弱さと訣別して強くされることではないのか、というイメージです。イエス様が逮捕され、裁判にかけられ、十字架に掛けられ、殺されてしまう過程において、イエス様と一緒に死ぬ覚悟ができていたはずの男の弟子たちは、雲の子散らすように逃げ出してしまいました。その弱さが、あのペンテコステの日に、聖霊の火によって、焼き尽くされ、新しく聖霊に満たされることによって、恐れずに出ていく力を得たのではなかったでしょうか。それは、その通りです。それを図式化すると、ペンテコステ以前は弱かった弟子たちが、ペンテコステを契機に一気に、弱さと訣別して力に満たされ、強い者とされた。その劇的変化をもたらしたのがペンテコステだと、私たちはイメージしていないでしょうか。

②パウロは随所で弱さを吐露

 しかし、ことはそう単純ではありません。パウロの生涯は、確かに迫害に次ぐ迫害の中を、恐れず突き進んでいきました。逃げ出すことはありませんでした。そういう意味では、パウロは強い人だったと言って間違いではないかもしれません。しかし、パウロは、随所で、自分の弱さを吐露しています。

 コリント人への手紙第二で、パウロは「弱さ」という言葉を何度も用いています。

(ⅰ)Ⅱコリント10:10

10章の10節「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」これは結構、興味深い証言ですよね。今風に言うと、パウロにはオーラはなかった、ということですね。私は立っているだけでオーラが漂ってくる、という人を一人、立ってるだけでしゃべらなければオーラが漂ってくるという人を一人思い浮かべることが出来ますが、パウロは、立ってるだけでも、しゃべっても、オーラはなく、弱々しかったのです。

(ⅱ)Ⅱコリント11:29-30

 続いて、11章29節、30節「だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」

(ⅲ)Ⅱコリント12:5b

 12章5節後半「しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。」

(ⅳ)Ⅱコリント12:9b-10

 同じ12章9節後半から10節「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 「弱さ以外には誇りません」というのも印象的な言葉です。普通は、弱さは恥であり、隠すべきもの、見せないようにするものです。しかし、それしか誇るものがない、という言葉がパウロから出てきたというのですから、どれほど徹底して弱さを痛感していたのだろうか、と想像します。

(ⅴ)Ⅱコリント11:27

 同じコリント人への手紙第二の11章27節ではこう言っています。「労し苦しみ、たびたび眠らずに夜を過ごし、飢え乾き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。」「眠らずに」というのは、寒さや飢えといった肉体的な辛さだけから来るものではなかったでしょう。

(ⅵ)Ⅱコリント1:8b

同じコリント人への手紙第二の1章8節後半では、「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。」とパウロは告白しています。精神的には余裕があり、内に勝利があったけれども、肉体的は空腹で寒くて眠れなかったというのではなかったと思います。精神的にもギリギリまで追い詰められて、弱さを思い知らされていたのです。それが、パウロ自身が自分のことをありのまま正直に描写している姿です。そして、パウロはそのような弱いものとして生き抜くことを強いられた末に、暴君ネロの手にかかって、首をはねられて死んでいきました。

③弱さと結びつくペンテコステ

 このパウロの姿と私たちがもっているペンテコステ後のクリスチャンの姿は一致しているでしょうか。私の中では、矛盾が存在します。一人のクリスチャンが、どんなにペンテコステの力で強くされても、迫害が降りかからないほどに周りをコントロールできるわけではない。しかし、迫害が襲ってきたとき、恐れず受けて立って、余裕で蹴散らすというイメージです。しかし、パウロの生涯はそのようなものではありませんでした。

 ここで、私たちはペンテコステについての理解を改める必要に気づきます。端的に言って、ペンテコステと強さを結び付けてイメージすると、間違いやすいのです。逆に、ペンテコステと弱さを結び付けてイメージすると、ペンテトステがもたらす「聖霊の内住」の意味をよく理解できるのです。

Ⅱ. 「聖霊の内住」についての3つの考察

 以下に、本日のテキスト、コリント第一の手紙6章19から20節にもう一度目を留めて、3つのことを行きたいと思います。

1. 聖霊は住まわれる神

①炎は一過性

先ほど紹介したコリント人への手紙第一3章16節と6章19節、20節に共通して書かれていることは、聖霊は私たちを住処として私たちのうちに住まわれるということです。これを、私が属しているグループでは「聖霊の内住」という専門用語を使って表現したります。使徒の働き2章に出てくる聖霊は「炎のような」という表現が使われています。炎を熱すぎて、人間のうちに住むことはできません。現に、あの日に現れた現象はどれも一過性のものです。長続きしませんでした。ペテロもヨハネも、あの日何語を担当して、それぞれの国言葉をしゃべったかしりませんが、一生の間、習いもしなかった別の国の言葉をそれぞれ一か国語ずつ、死ぬまで喋れたということはありませんでした。

②常駐・常住の聖霊

それに対して、パウロがこのコリント人への手紙で書いていることは、常駐・常住の聖霊です。私たちの体温と調和し、私たちの歩む速度に合わせてくださる聖霊です。そして、住むということには、温度、すなわち激しさや、速度といったことに加えて、長い時間の経過を意識させる言葉です。一緒に住むということは、長い時間を共に生きるということです。

③スランプのときも

そして、それには必然、一人の人間としていい時も悪い時も、ということがついて来ます。野球の世界には、スランプという言葉があります。どんな大打者でもかならずスランプに陥ることがあるのです。クリスチャンの生涯にも必ず、スランプがやってきます。すなわち弱さを自覚し、弱さしか目にはいらなくなるよう時です。これまで自分がやってきたことのすべてに意味がないように思ったり、自分は生きているだけで、罪しか作れないと思ったり。しかし、聖霊は私たちのうちに住まわれるお方です。そんなとき、「ああ、この人も嫌になった。こんな弱い人には用はない。出ていく。」と言わないお方です。

本当のペンテコステの意義は、派手な現象と共に起きる一過性の経験にではなく、住むという表現に託される、長さ、山坂、谷間、ぬかるみ、あらゆる困難の中を共にいてくださるお方が来てくださる、という恵みなのです。

2. 私は器

①私たちは「宮」であり「器」

 二つ目に、「宮」という言葉に心を留めたいと思います。「宮」とは神様がその中に住まわれる建物のことです。神様は私たちのからだを、あるいは私たちという存在そのものを宮として、そのうちに住まれるというのです。パウロが別のところで使っている言葉で置き直すと、私たちは器であって、聖霊はその器の中にある本体だ、ということになります。固体は器に入れなくても取り扱いができますが、液体や気体は器に入れて初めて扱うことができます。

②中身が主で、器はあくまで器

私たちが聖霊を待ち望むとき、どのようなことを期待しているでしょうか。聖霊という中身が入ることで、私たちという器が強くなったり、用いられるようになることではないでしょうか。しかし、そこには倒錯があります。器のために中身があるのではないのです。アルミ缶がペシャンコにならないために中にコーラが入っているのではないのです。コーラを運び、自動販売機で買われたらガシャンと無造作に堕ちて来てもこぼれず、おいしくコーラを飲んでもらうために、アルミ缶があるのです。私たちは勘違いしていないでしょうか。私たちが輝くために、聖霊を期待していないでしょうか。聖霊が働かれるために、働くことができるために、器である私たちのうちに住まわれるのです。

③中身の活躍こそ器の喜び

 しかし、このことは私たちにとってもはとてつもない恵みであり喜びです。神といえども、聖霊といえども、私たちという有限の、罪深い、弱い器に入って、住んでしかお仕事をなさらないと決めておられるのです。もし、聖霊が思う存分、器なる私の内に住んで御業をなしくださるなら、私という器が中身の聖霊のゆえに用いられるのと比べものにならないくらし素晴らしいことが展開するのです。

3. 知らないのですか

①「あなたがたは知らないのですか」をパウロは多用

 三つ目に「知らないのですか」という言葉に注目したいと思います。コリント人への手紙第一3章16節も6章19節もギリシャ語ではまったく同じ出だしで「あなたがたは知らないのですか。」となっています。ちなみに、これと同じ表現は、私が数えただけも、このコリント人への手紙第一に全部で12回も使われています。パウロの口癖のようなものですね。

②神の現実は私たちの認識に先行

そして、また、それは、パウロの大切で基本的な認識を現わしています。それは、神の現実は、私たちの認識に先行する、ということです。平たい言葉で言うと、聖霊が私たちの内に住んでくださるという素晴らしいことは、私たちがそれを願い、そのために必要な犠牲を払い、必要な信仰を働かせて、受けたと感じ認識した時から始まるのではない、ということです。もっと、前から始まっているのです。そして、それは、あなたが、わたしが始めるのではなく、神様が初めてくださることなのだということです。それをあなたがたは知らないのですか?とパウロは言っているのです。

②私たち自身を例にとって考えてみると

少し、立ち止まって考えてみてください。私たちが自分で始め、その始まる瞬間を認識できることよりも、自分で始めることが出来ず、気付いたら始まっていたこと、気付いたらその現実の中に自分が活かされていることの方がスクールの大きい素晴らしさを持っていないでしょうか。私たちの心臓は、だれもその最初の鼓動を自分で意識して始めた人はいません。意識が始まる遥か前に心臓は活動を開始しています。私たちの手足も、脳もみなすべて、だれも動かし始めを自分でやった人はいません。脳が複雑で高度な仕事を始めている中に、手足が動く現実の中に、遅れて自分の意識が追いついていくのです。神様と自分の世界、霊の世界においても同じです。私たちは、自分を越えた世界ですでに用意され、与えられ、始まっている世界に生かされていることを、恵みの世界の中に囲われて生きていることを後付けで認識していくのです。それが、神様が定めてくださった順番なのです。

4. まとめ

 今年のペンテコステの日、

1.自分が聖霊の宮とされ、自分の内に聖霊が住んでいてくださること、

2.自分は器であり、内に住まわれる聖霊こそが本体であること、

3.そしてその現実は、私の意識、認識に先行してすでに神の側で始めていてくださることなのだ、

ということを新しく教えられて進んでいきたいと願います。

お祈り

一言お祈りをいたします。

天の父なる神様、今日、ここで、共に今年のペンテコステの礼拝を守ることが出来たことを感謝いたします。今日は「パウロにとってのペンテコステ」という問題意識から、み言葉を学びました。あなたから聖霊という素晴らしいプレゼントをみなすでにいただいている私たちです。どうぞ、何もいただいていないかのように不信仰に陥ることから守られ、神様がすでに始めていてくださる恵みの世界の現実に生きるものとしてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。

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