主の祈りを学ぶ⑭

「国と力と栄え」

聖書 

歴代誌第一 29章10節~11節


 10ダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたがとこしえからとこしえまで、ほめたたえられますように。11主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。

本日のポイントは、

Ⅰ. 出典の問題

Ⅱ. 国と力と栄え

Ⅲ. 汝のもの

Ⅳ. なればなり

Ⅴ. アーメン

の5つです。どうか、最後まで、お付き合いいただけたらと思います。

Ⅰ.  出典の問題

では、さっそく、一番目、「出典の問題」に入って行きたいと思います。

A. 聖書本文との関係

主の祈りの言葉は、聖書ではどこにあるのですか?と聞かれれば、普通マタイの福音書6章9節の2行目からです、というのが答えになるでしょう。もう一ヶ所は、ルカの福音書11章2節からのところです。しかし、ルカの方は、いくつかの文言、具体的には

①第三の願いの「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」の部分、

②6つ目の願いの後半「悪より救い出だし給え」の部分が、

マタイから引き算された形で収まっています。

そして、今回扱います、「国と力と栄とは 限りなく汝のものなればなり」という結びというか、頌栄の部分は、マタイにもルカにも含まれていません。もう少し厳密に言うと、後代のいくつかの写本で含んでいるものもあるのですが、最古の権威ある写本には含まれておらず、聖書本文批評学的には、マタイ、マルコのオリジナルのテキストには含まれていなかっただろう、という結論になります。

B. 「12使徒の教訓」(ディダケー)との関係

しかし、2世紀初期に記された「12使徒の教訓」(ディダケー)という新約聖書正典外の文章の中に主の祈りが伝承されています。ただし、マタイの主の祈りと比べ、細部において若干の違いがあります。この頌栄の部分も付いてはいるものの、ディダケーでは、「権力と栄光」だけで「国」について言及されていません。

言えることは、2世紀初期の段階で、主の祈りは頌栄を付けて祈られていましたが、まだ、定まった形に統一はされていなかったのです。

C. 教会の伝統との関係

 現在では、世界の教会の中で、プロテスタントと正教会は、頌栄を付けて主の祈りを唱え、カトリックはこの頌栄部分は唱えないようです。プロテスタント教会に育ってきたものとしては、この頌栄の部分も教会が告白してきた大切な部分として受け取っていくのが自然な姿かと思います。

Ⅱ 国と力と栄え

A. 3つの要素が並んでいる

次に、「国と力と栄え」という言葉を見ていきたいと思います。これは、誰も言っていないことなのですが、三つの要素を並べるというのは、主の祈りの特徴の一つとして指摘できるのではないかと私は思います。「御名、御国、御心」が一つ目のトリプル。「日用の糧、罪の赦し、試み・悪」が二つ目のトリプル。また、大枠で、「呼びかけ、願い、頌栄」が三つ目のトリプル。もし、そう数えてよいのなら、トリプルが三つあるというのが最後のトリプルということになります。今回の私の説教はポイントが5つもありますが、普通、説教のポイントも3つが王道ですね。2つでは少なすぎ、4つで多すぎで、3つが最も安定すると考えられています。そういう点からも、シンプルでありかつ包括的という主の祈りの不思議な魅力は、このトリプル構造から出ているかもしれない、と思ったりもします。

B. 3つの個別の要素

この頌栄の部分というのは、主の祈り全体の結びの役割を果たす部分ですから、ここに新しい要素は出てこないのです。すでに、出てきた事柄をもう一度、取り上げて締めに使うわけです。一つ一つ見ていくと、

①国

「国」は、二つ目の願い「御国を来らせ給え」でそのものずばりが一度すでに出てきています。このシリーズの9回目で、国とは支配だ。そして、一番強い者が2番目に強い者の力を無力化し、全部を持っていくのだ、というお話をしました。

②力

二番目は、「力」です。一番目の「国」のところでも「力」は関係しています。支配には力が必要です。しかし、その力は暴力、武力、軍事力には限りません。本当は、一番強い力をもっているのは「愛」です。神様に一番強い力がある、ということは、神様は誰よりも大きな強い愛を持っておられる、ということの言い換えなのです。また御心を行うにも、罪を赦すにも、絶望的なほど膨大な力が必要です。悪より私たちを救うためにも力が必要です。悪に、あるいは悪しき者に打ち勝つ力がなければ、私たちを悪から救い出すことはできません。

③栄え

3番目は、「栄え」です。栄えと一番なじみがありそうなのは、第一の願いの「御名をあがめさせたまえ」ではないかと思います。自分の栄光ではなく、神様の栄光を第一優先にしていく、というのが主の祈りの一番底辺に流れている考え方です。

Ⅲ. 汝のもの

①これが肝

次に、これら3つのものが「汝のもの」という信仰の告白に移っていきたいと思います。私はこの頌栄部分の肝はここにあるとおもいます。たった今見た三つの要素は、少しずつ表現を変えた別のネーミングで要素をピックアップすることも可能でしょう。野球でいう3番、4番、5番のクリーナップは、だいたいどのチームもメンバーは固定でしょう。しかし、もしかしたら4番が不振で6番に下げられ、5番が4番に上がり、6番が5番に上がることもあるかもしれない。しかし、また、実際のゲームでは、日替わりヒーローが出て、下位打線も活躍することもあるでしょう。

②すべての争いのもと

しかし、この「汝のもの」というところは、動かすことはできないのです。「国と力と栄え」とは、すべての人が自分の物にしようと必死で求めているものです。また、個人だけではなく、どの時代の支配者たちも、どの地域の政治的権力もが、これらを必死で求めてきたものです。悲しいことに、21世紀の今日でも、この地球上に、ロシア・ウクライナ戦争、イスラエル・ガザ戦争をはじめ、大小さまざまな戦争や紛争が後を絶ちません。そこには、様々な複雑な要素が絡んでいるでしょう。民族の歴史に絡む感情、大国のエゴと小国の悲哀など。しかし、基本的には、「国と力と栄え」を自分のものとしようとする人間の欲望こそが根底にあるといってよいでしょう。

③本来、神様のもの

主の祈りが教えることはなんでしょう。それは、この「国と力と栄え」は、本来、すべて神様の物でなければならない、ということです。そのように人間は造られているからです。そして、それ故に、そのようになっている時にだけ、人間は本当に人間であり、本当に幸せなのだ、ということを祈りを通して教えているのが主の祈りなのです。

今回、14回に及ぶ主の祈りを学ぶシリーズを続けて来て、正直、今、私の心に一番響いているのは、このことです。主の祈りは、呼びかけのあと、「御名をあがめさせ給え」で始まり、「栄えとは汝のものなればなり」で終わります。汝の名で始まり、汝の栄光で終わるのです。結局、主の祈りを祈る理由は、どこまでも自己中心、すなわち自分の栄光を求める性質を持つ私たちが、徹底的に、徹頭徹尾、神中心の生き方に毎日、事あるごとに、この祈りを口にすることによって作り替えられていくことにあるのではないかと思います。イエス様が、こう祈りなさいと、この主の祈りを教えてくださった最大の目的はここにあるのではないかと思うようになりました。

④本当に願えるのか、祈れるのか?

けれども、そすると次に、いったい私たち人間は、そのような祈りを本当に捧げることができるのだろうか、ということです。私たち人間は、本当にそのようなことを、フリではなく、ことばの上のことだけではなく、心底から願えるのだろうか、という問題が出てきます。

Ⅳ. なればなり

①主の祈りの特徴ある言い回しの一つ

ここまで話を進めておいて、4つ目の項目に移りたいと思います。4つ目は「なればなり」というところです。この「なればなり」も140年前に定まった古い日本語なので、主の祈りに特徴的な言い回しですが、現代的に直すと、「だからです」ということになるでしょうか。

②主の祈りのからくり

実は、この頌栄まで来ると、主の祈りには一つの不思議なからくりが働いていることに気が付きます。それは、「天にまします我らの父よ」という呼びかけから始まって、短いながらも6つの願い事を祈って来た、祈って来られたのは、「国と力と栄え」が神様のものだからなんだ、という告白に行きつくのです。言ってみれば、頌栄の方が、順番が先なのです。

③限りなく=今も、そしていつまでも

そもそも、「御国を見たらせたまえ」と祈るのは、「来てりなきゃ困るものがまだ到着していないから、早く来させてください」というのではないのです。「国と力と栄え」がどんなに神のものだ、と言える状態から離れているように見えても、「国と力と栄え」とは、すでに今もう来ているので、「御国を来らせ給え」と祈れるということなのです。「汝のものなればなり」の前にある日本語では「限りなく」となっている部分は、現代英語では、“now and for ever”すなわち「今も、そしていつまでも」となっています。「今」、「国と栄えと栄え」とは、汝のものだ。そして、「いつまでも」汝のものなのだ。だから主の祈りを祈るのだ、というのが頌栄の意味です。

④願望ではなく理由なので循環する

この「なればなり」「だからです」がなければ、主の祈りの意味は大きく変わってしまいます。もし、この頌栄が、私たちが毎週の礼拝の最後に受ける祝祷のように、「今も、後も、世々限りなくありますように」という願望であるならば、主の祈りは、祈り初めて、頌栄はで口にして、スッと流れて、流れ去ってしまうでしょう。しかし、この頌栄の部分が、願望ではなく、本体の6つの願いを願うことのできる“理由”を告白しているので、主の祈りは頌栄まで唱え終わったときに、必然的に主の祈りの先頭にまた戻っていくのです。こうして、主の祈りは、私たちの毎日の祈り、事あるごとの祈り、集まる度毎の祈りとなるのです。

Ⅴ. アーメン

最後に、主の祈りの本当の最後の最後のことばであるアーメンを短く取り上げてみたいと思います。「確かに」とか「その通りです」というほどの意味です。

主の祈りの最後に口にするアーメンには三つの意味があると言ってよいでしょう。

①自分自身に対して

一つは、自分自身に対して、この主の祈りを真実に告白します、ということです。主の祈りがどんなに真理であっても、唱える私の側にウソ、偽りの動機があったら、主の祈りの真理は絵にかいた餅になってしまいます。ですから、主の祈りと私の関係がまっすぐになっている、ということの確認です。

②共同体の祈りとして

二つ目は、この主の祈りが「我の」ではなく「我らの」という、共同体としての祈りであることと深く関係しています。このアーメンは、そこに一緒にいる人々と心を合わせて告白するところに大きな意義がります。そして、この最後のアーメンは、心を合わせる具体的な作業なのです。中学生の合唱コンクールで、指揮者が必ず言うでしょう。「最後だけでも指揮者を見てね」と。もちろん、歌い始めから歌い終わりまで、皆で心を合わせているはずです。しかし、タクトが止まる瞬間は、特に、全員の目が指揮者に集中するのです。そして、心が本当に一つとなってフィニッシュして一曲が終わるのです。主の祈りも、アーメンと唱えながら、天の指揮者に全員の目が注がれるのです。

③主との関係において

三つめは、主の祈りの主との関係です。この主の祈りは主イエス様自ら、こう祈りなさい、と教えてくださった祈りです。そして主イエス様は黙示録3章14節では「アーメンである方」と言われています。主の祈りは、最終的には、主イエス様の御真実に信頼して終わるのです。この祈りを祈ることに意味があるかどうかは、すべて、主の御真実にかかっているのです。私たちが熱心だかどうか、私たちが心を合わせるかどうかにかかっているのではありません。神の独り子が人となって地に降り、私たちすべての罪を身に負って十字架にかかって死に、罪を滅ぼして三日目によみがえってくださった、主がそこまでしてくださった真実のゆえに、私たちは主の祈りを祈る勇気を得るのです。今もこれからもずっと、国と力と栄えは主イエス・キリストのものとなっている、そのことにアーメンと言うことができるからです。

これで、全14回に及んだ。主の祈りを学ぶシリーズを閉じます。皆さま、ご視聴ありがとうございました。

今日は最後に、主の祈りを唱えて閉じることにさせていただきます。

主の祈り 天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせ給え。御国を来らせ給え。御心の天になるごとく地にもなさせ給え。我らの日用の糧を今日も与え給え。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。我らを試みにあわせず、悪より救い出だし給え。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン。

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