主の祈りを学ぶ⑬
「試み・悪と主の祈り」
聖書
マタイの福音書 6章13節
13私たちを試みにあわせず、悪からお救いください。
本日のポイントは、
Ⅰ. 位置づけ、形式、ことばの問題
Ⅱ. 試み・悪と人間
Ⅲ. 試み・悪と神様
の3つです。どうか、最後まで、お付き合いいただけたらと思います。
Ⅰ. 全体の中の位置づけ
では、さっそく、一番目、「位置づけ、形式、ことばの問題」についてお話していきたいと思います。
A. 6つの願いの最後
まず、この願い・祈りは、主の祈りの中に込められている6つの願いの最後のものです。また、自分たちのことについて祈る3つある「我らパート」の最後の3つ目となります。もう、これ以上続きはなく、これで、主の祈りの願いは終わるのです。本当にこれで終わっていいんですか?もっと、他にも祈るべきことはあるんではないですか?たとえば、世界平和のためとか、自分がもっとやさしい愛の人となるようにとか、あの人がもっとまともな人になりますように、とか。いろいろ。けれども、大枠としては、これまで見てきた「御名、御国、御心」を求める「汝パート」と、日ごとの糧と罪の赦しの問題、そして今回の誘惑と悪の問題のどれかに入るのだと思います。
B. 6つ目を二つに分ける人もいる
次に取り上げておきたいことは、今回のこの部分を二つに分ける人もいるということです。すなわち、主の祈りには7つの願いがあり、6つ目が「我らを試みにあわせず」で、それとは別物として7つ目に「悪より救い出だしたまえ」がある、という考え方です。私は、これが一つか二つかということにはあまりこだわる必要はないかと思っています。ただし、二つと考えた場合にも、まったく関係がないというわけではなく、重なっている部分も多いかと思います。ですから、今回主の祈りの第13回目として、両方を一回分として扱っていきます。
C. 唯一の否定的な願い
次に見たいことは、この「我らを試みにあわせず」は、主の祈りの中で唯一、「~してください」ではなくて「~しないでください」という否定的内容を願う祈りだということです。「悪より救い出だしたまえ」の方は、文法的には、否定的内容ではありませんが、消極的な願いだと言ってよいかと思います。
D. 言葉の問題
第一項目の中で最後に言葉の問題を若干触れておきたいと思います。日本語の主の祈りに使われている「試み」という言葉です。これは、ギリシャ語ではペイラスモスという言葉です。この言葉は二つの意味を含んでいます。一つは、日本語で誘惑、英語ではtemptationと訳される意味。もう一つは、日本語では、試み、試練、英語ではtrial, testなどと訳される意味です。日本語や英語では文脈によって、訳し分けているわけですが、ギリシャ語では、どちらの意味でもペイラスモスの一語です。例えば、ヤコブの手紙1章2節からのところにこうあります。「私の兄弟たち。様々な試練にあるときはいつでも、この上ない喜びと思いなさい。」同じヤコブ1章の少し進んで12節からのところには、次のように書かれています。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。」1の2の試練、12の試練は共にペイラスモスです。また、13節から14節にかけて、誘惑する、されることばが4回出てきます。これらは、4回とも「ペイラゾー」ということばが基本となっています。ペイラゾーは、ペイラスモスの動詞形です。ということは、ヤコブの手紙1章に出てくる日本語では、「試練」、あるいは「誘惑」とされる言葉は、ギリシャ語では、ペイラスモス一語でどれも表現されています。
なかには、ペイラスモスがやってきたとき、それに打ち勝てば、それは日本語で言う「試練」になり、それに屈すれば「誘惑」になるとされる方もいらっしゃいますが、わたしはそのような、勝つか負けるかで分けることでスッキリ理解できるとは思っていません。
もう一つの言葉の問題は、今日扱うところの後半の「悪」という言葉です。この部分は、ギリシャ語的では、抽象的な「悪」と取るか、「悪しき者」いう人格化されたものと取るか、両方とも可能だということです。今回の動画では、「悪」で通しますが、この点についても「悪」でも「悪しき者」でも、本質的には変わりはないと理解してよいと思います。
Ⅱ 試み・悪と人間
予備的なことがらは、ここまでにして、ここから本題に入って行きたいと思います。大きな二つ目の項目は、「試み・悪と人間」ということです。主の祈りの具体的な願いの6つ目に出てくる「試み」と「悪」と私たち人間はどのような関係があるのか、ということを考えていきたいと思います。
A. 試み、悪と遭遇することが前提
まず言えることは、聖書では、私たち人間が生きていく上で、試みとか悪と遭遇することは、前提とされているということです。クリスチャンになり、クリスチャンとして成長するにつれて、試みや悪に会わなくなる、というような発想はないということです。エデンの園にすら誘惑がありました。地上を歩まれたイエス様の生涯も、むしろ誘惑と試みの連続でした。ひっくり返して言えば、試み、誘惑、悪と遭遇することは、私たちに何か弱さや足りなさや、欲望などがあるから、ということは考えなくてよい、ということです。
B. 試み・悪との積極的対決は勧められていない
次に指摘しておきたいことは、試み・悪との積極的対決は勧められていないということです。さきほども申し上げましたが、「試み・悪」に対する願いの言葉遣いは、「あわせず」と否定的であり、「救い出だしたまえ」と消極的なのです。そこには、私たちの弱さの認識が基本に据えられています。
私たちは、試みや誘惑、悪に打ち勝つ力を鍛え上げるべき存在とは聖書では見られていないのです。聖書の中に何人か強さの象徴といってよい人物がいます。例えば、旧約聖書士師記のサムソン。彼は、「町の門の扉と二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩に担いて、山の頂に運ん」だ、というほどの怪力の主でした。しかし、彼はその強さのゆえに幸せだったかというと決してそうではありませんでした。強いが故の隙、おごり、弱さがかえって彼の生涯を悲惨なものへと変えてしまいました。
C. 試み・悪との消極的対応が勧められている
むしろ、自らの弱さを、あるいは愚かさを自覚して、弱いながらも守られる道を、愚かでありながら御心の中を歩むことができること、それこそが幸いなのだ、というのが聖書のメッセージです。使徒パウロは、出自的にも、学歴的にも、職歴的にも、能力的にも、気力的にも右に出る者がいないくらいの最強の人物でした。
しかし、神は、その彼の強さを用いようとはされませんでした。肉体の棘と表現される何らかの肉体的な病気かケガが、パウロの生涯から取り去られことはありませんでした。そして、パウロは、そのことに苦しむ弱さの中でこそ、大いに神に用いられたのです。そして、ついにこう言うことができたのです。「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう。私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
Ⅲ 試み・悪と神様
二番目の項目として、「試み・悪と人間」ということを考えましたが、次に三番目の項目として「試み・悪と神様」という視点から考えてみたいと思います。
A. バークレーの言葉
まず、ウィリアム・バークレーの言葉を一つ紹介したいと思います。それは、こういう言葉です。「誘惑、また試練、『ペイラスモス』の原因が、神の行為にあるとすることは、そんなにわかりやすいことではありません。誘惑、また試練が神の摂理のうちにあることは、もっと容易に理解することができます。」というのです。少し、翻訳調でわかりにくいと面があるので、私なりに大胆にこの文章を解釈してみました。
B. 神は誘惑、試練を用いることができる
聖書には、「神はアブラハムを試練にあわせられた」というような表現もいくつかあり、これをあまりにストレートに取ると、アブラハムを、より純粋な者に、より高い次元の信仰者へと引き上げるために、神自ら試練を計画し、アブラハムを試練にあわせることを実行した。そしてその結果、アブラハムが非常に成長した。……そうなると、私たちの祈りは主の祈りと違う祈りになってしまう危険性が出て来てしまいます。
すなわち、「主よ、私にも、アブラハムのように試練を与えてください。私にもエリヤのように悪と対決させてください。」という祈りが理論的には導き出されてしまいます。しかし、イエス様は、そのような強者の祈りをするようには教えられなかったのです。神様を誘惑、試練の計画者、実行者、すなわち行為者と考えることは、主の祈りとはなじまないのです。
そうではなくて、誘惑、試練というものも神様の摂理の御手の中にあるものだということです。それらのルーツをいちいち問うことは私たちにはできません。もしかしたら神様初のものあれば、自分の欲望初のものあれば、サタン初のものもあるのでしょう。
しかし、神様は、どんな種類の誘惑、試練も、御手の中で、逆手に取って善に、益に変えることがおできになるのです。それは、さきほどもすでにパウロを引き合いに出して少し言いましたが、神は人をその強さにおいて用いるのではなく、その人の弱さに徹しているときにこそ、その人の持っている能力、可能性をはるかに超えたレベルで用いることがおできになるということです。
聖書を見ていくとき、強い人が強いから用いられたという例はほとんど見出されません。旧約聖書の三大人物は、アブラハム、モーセ、ダビデですが、この三人とも、大きな働きをした人、のちに続く信仰者に大きな励ましを残した人たちですが、共通することは、強いままでは用いられなかったということです。
アブラハムは創世記12章で、生まれ故郷を捨て、行くところを知らずして信仰の旅に出ました。その大きな勇ましい信仰的決断が後々まで覚えられています。しかし、もし、後に展開されていくように、彼が失敗、絶望を通って弱さに徹するということがなければここまで後世の人に影響を与えることはなかったでしょう。
モーセは、エジプトのあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。しかし、その力ではエジプト人を一人殺してミディアンの地に逃げ堕ちる結果しか出せませんでした。ミディアンの地での40年という弱さに徹したところを通って初めて出エジプトのリーダーとして神に用いられたのです。
ダビデも少年時代にペリシテ人の巨人ゴリヤテを一騎打ちで倒すという武勲を上げました。しかし、彼が本当に神に用いられたのは、サウル王に追われ、自ら罪を犯し、息子アブシャロムから命を狙われて王宮から裸足で逃げ延びるというような、いろいろは試練をとおり、弱さに徹したからこそでした。そのようなところを通って初めて、彼は人を心の底から励ます詩篇をいくつも詠むことができるようになったのです。
誘惑、試練は、神の摂理の中で、神に大いに用いられるのです。いや、むしろ、神と雖も、誘惑、試練、悪に私たちを遭遇されることなしに、私たちを育てることも、用いることもできないのです。
C. 神は、誘惑、試練の中でも我々を握っておられる
しかし、実際には、私たちは試みの中にある時、誘惑にあうとき、悪と遭遇するとき、そんなに流暢なことは言っていられません。自分に自信をなくし、自分がわからなくなり、自分を保つことができなくなります。神様に対しても、神様の臨在や助けを実感することが難しくなり、これまで続けてきた自分の信仰は偽物だったのではないかと疑いたくなり、負のスパイラルに飲み込まれていきます。
しかし、そういうことさえ、神様の摂理の中にあると断言してよいでしょう。もし、そのような真に危機的な状況を通らないならば、私たちは強さを決定的に離れることはできないでしょう。信仰者としての自分のイメージから大きく逸脱し、誘惑、試練、悪に対してありがたさなど口にできるところから見えなくなるほど転がり落ち、自分が失敗者としか思えなくなり、もう神様の祝福とは完全に切り離された、というところまでいかなければ、私たちは自分の強さと訣別し、弱さに徹した、神様が自由に用いられる人間にはなれない、ということです。
ですから、まとめとして言いたいと思います。誘惑、試練、悪との遭遇は、神の摂理の御手の中にあって、私たちから不純物を取り除き、強さを離れ、弱さに徹し、神に用いられる人となるためになくてはならないものです。また、私たちが願わなくても、私たちの人生に、どんな人の人生にも必ず起こり来るものです。
しかし、私たちは、だからと言って、「我に試練を与え給え」「我に悪との対決を与え給え」とは祈るべきではないのです。自分では耐えきれないところを通らされるのです。ですから、「我らを試みにあわせず、悪より救い出だし給え」とだけいつも祈ることによってのみ、神の摂理の御手の中にあり続けることができるのです。
一言お祈りいたします。
私たちの主イエス・キリストの父なる神様。あなたの聖名を心からほめ称えます。弱い者です、と言いながらも強さにあこがれ、強くされることを願い求めてしまう愚かなものです。私は、到底、試みに堪えぬ抜き、悪に打ち勝つことなどできないものです。どうぞ、試みにあわせず、悪から救い出してください。弱さに徹して、あなたの御手に守れて旅路を進ませてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。