主の祈りを学ぶ①
「ですから…こう祈りなさい」
聖書
マタイによる福音書6章5節~9節
5また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。6あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。7また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。8ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。9ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
ルカによる福音書11章1節~2節a
1さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」2そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
あいさつ
皆さん、あけましておめでとうございます。
穏やかで暖かな新年の幕開けかと思っていたら、元旦に能登半島地震、よく二日の羽田空港滑走路での衝突炎上事故、更に次の3日には北九州市で大規模火災が発生しました。それ以前に日本をおおっていた暗いニュースが吹っ飛ぶほどの、大揺れの新年の歩だしとなってしましました。被災された方々の上に、ご遺族となられた方々の上に、神様の特別なお助けを心からお祈りいたしております。
新シリーズの紹介
そんな中、喜多見家庭集会では、昨年末に予告しておりましたように、新しく「主の祈り」を学んでいくシリーズを今日から始めたいと思います。
序 前回の「使徒信条を学ぶ」との比較
昨年、アドベントに入る前まで、合計26回かけて学んだ「使徒信条」は、クリスチャンが何を信じているのか?ということを扱いました。この「使徒信条」は、当方正教会以外の西方教会の流れを汲むカトリック、プロテスタントの多くの教会で日曜日の礼拝ごとに、公に唱えられている信条でした。それに対して、今日から取り上げる「主の祈り」は、使徒信条と比べても遥かにキリスト教信仰ともっと根源的に結びついています。
① 主イエス様からじかに出ている
第一に、使徒信条は、イエス様のお弟子さんたちの更にお弟子さんたちが、どんなに短く見積もっても200数十年くらいの時間をかけて紡いできたものです。それに対して、主の祈りは、イエス様が直接、「こう祈りなさい」と言って教えてくださった祈りです。
② より広範囲に用いられている
第二番目に、使徒信条では東方正教会の流れの教会は除外しなければなりませんでしたが、主の祈りについては、私の知る限り、この祈りを使わないキリスト教の教派はありません。端的に、主の祈りは、全キリスト教会で共通して、大切に唱えられている祈りである、と言えます。また、
③ より頻繁に唱えられている
第三番目に、使徒信条は普通、週に一度、日曜日ごとの礼拝で唱えられる、という使われ方が一般的だと思います。すなわち、週一度のお付き合いです。しかし、主の祈りは、もっと小さな集まりでも最後に唱えたりすることがよくあると思います。ですから、主の祈りの方は、週に一度とは限らず、2度、3度、あるいは365日毎日お付き合いしている、という方も少なくないかと思われます。
すなわち、使徒信条と比べて、主の祈りの方が圧倒的に、広く深く生活に密着していて、しかもその起源が主イエスにまで確実に遡るものである、ということです。
④ 主イエス様は大著ではなく祈り
イエス・キリストは、トマス・アクィナスや、カルバンやバルトのように神学をまとめた大著を残すことはされませんでした。多くは譬えをもって語り、祈りを教え、教えた祈りを誰よりも実践された方でした。ですから、主の祈りを学ぶことは、キリスト教信仰を理解するためには、あるいはクリスチャンとして生きていくためには、これ以上のものはないと言ってよいほどの「基本のキなのです。」
本日のポイントの提示
さて、今回は、
- 主の祈りとクリスチャン
- 主の祈りの特徴
- 主の祈りの文脈
以上の3つのポイントでお話を進めてまいります。
Ⅰ 主の祈りとクリスチャン
1. 種本の紹介
それでは、さっそく一番目のポイント「主の祈りとクリスチャン」というところに入っていきます。今回のシリーズの種本の一つにしているのが、2003年に日本基督教団出版局から出されたW.H.ウィリモンとS.ハワーワス共著、平野克己(かつき)訳の「主の祈りー今を生きるあなたに」です。
2. キリスト者の定義
この本に、次のような一文があります。
「キリスト者とは、主の祈りを心の深みに刻みつけ、それゆえ もうこの祈りについて考えなくても祈ることができるようになった人たちです。この祈りが自分の第二の本性にまでなっているひとたちのことです。」
① 唸った
私はこの文章を読んだとき、唸りましたね。
② 自分なんか毎週気が散っている
正直言って、主の祈りって、毎週唱えるけど、今日こそは他のことを途中で考えるのをやめて、この祈りの文言に心を集中させて祈ろう、と思って祈りはじめても、あっという間に、「あっ、そういえば今日、財布に献金にちょうどよいお札入ってたっけ?」などと必ず気がいったん逸れて、「あ、いかん、いかん」と気を取り直すころには、もうすでに「国と力と」くらいに差し掛かっていて、「ああ、また、集中できない間に終わっちゃった!」なんてことの繰り返しです。その主の祈りに、クリスチャンを定義するほどの意味と重さを見出しているとは、本当に恐れ入りました、という感じです。
③ キリスト者の定義の他の可能性
クリスチャンとはどういう人たちですか?という問いに対して、様々な答えの可能性があると思います。例えば、使徒信条の内容にうなずいている人達。教会に定期的に通い、礼拝に参加している人たち。イエス・キリストを救い主と信じている人たち。どれも間違いではないでしょう。しかし、キリスト者とは、「主の祈りを祈ることのできる人たちです」という定義は非常に優れていると思います。
3. この定義の内容
① 習慣の危険性
そしてもう少し踏み込むと、次に主の祈りは「心の深みに刻みつける」ものだ、ということが言われています。一生のうち、何度祈るか数えきれないほど、祈ります。もちろん、その文言は何も考えずに、あるいは何をほかに考えていても出てくるほど丸々覚え込んでいます。そして、その習慣性には、罠というか危険性も潜んでいます。完全に外側の習慣となり、唱えているだけで、唱えている本人に、何の影響も与えないものとなり下がる危険性です。
① 習慣の力
その危険を百も承知の上で、あるいはその危険に実際に何度も陥りながらも、底力を発揮して来るのが主の祈りなのです。カリスマ美容師で山下誠司という人がこんなことを言っています。
「能力の差は小さい、
努力の差は大きい、
継続の差はもっと大きい、
習慣の差が一番大きい。」
主の祈りは、クリスチャンの習慣と深く関係しています。ウィリモンとハワーワスは、それが第二の本性となるまでに習慣化されているひとがクリスチャンだと言っています。ですから、私たちは皆、その途上の人ですね。
Ⅱ 主の祈りの特徴
1. 簡潔にして包括的
次に、「主の祈りの特徴」に移っていきます。ここでは、二つ指摘したいと思います。一つ目は、「簡潔にして包括的」ということです。試しに、タイムを計って、私的に普通だと思うペースで主の祈りを始めから終わりまで唱えてみました。タイムは36秒でした。36秒だと途中の息継ぎなしに、一息で言うことも可能でしょう。それほど、短く、簡潔です。これだけ祈っていれば、本当にいいんですか?と言いたくなる感じですよね。もっと、他のことも祈らなければいけないことはないんですか。クリスチャンとしてもっと、注意を払ったり、願ったり、知ったりする必要がある領域はないんでしょうか?例えば、現代的な倫理の問題。平和の問題、差別の問題、格差の問題などは祈らなくてよいのでしょうか。LGBTQの問題は、環境の問題、などはどうでしょうか。イエス様の時代には、それらがなかったから主の祈りに入っていないのでしょうか。もちろん、現代ほど複雑でなかった古代にあって、古代にはなかった現代のいろいろな問題があることは事実ですが、イエス様の時代にも病の問題、貧困の問題、格差の問題、平和の問題などは喫緊の問題としてありました。しかし、イエス様は、「こう祈りなさい」と極めて単純な祈りを教えてくださいました。
2. 挑戦的
もう一つは、この世界に対して挑戦的な内容の祈りだということです。先ほど紹介した種本から刺激的な言葉をいくつか紹介したいと思います。
① 虎をオリから呼び出す、原子力をそよ風に
一つ目は題辞にある言葉です。「主の祈りの言葉を口にするとは、虎をオリから呼び出すことであり、原子力さえも春のそよ風に変えてしますことなのである。」
虎をオリから放つと、制御不能となり、いかんなくその獰猛さを発揮します。獲物を圧倒的なスピードと力で捕らえ、かみさき、食い散らします。主の祈りとそのような獰猛さに親和性があるのでしょうか。また、それを兵器として使えば、たった一般で何十万人もの一人の一瞬にして奪う力のある原子力を春のそよ風に変えてしまう、とはどういうことでしょうか。それは、主の祈りの中に、人の生涯を決定的に変える力がある、ということです。
② 冒険の旅に招かれる
次に、「救いとは冒険に招かれることであり、自分たちの人生を神に用いていただきながら、キリスト教信仰という旅を歩み続けることです。」
冒険、とか旅とはなんでしょうか。私たちがこの主の祈りを本気で祈り続けるときに、あるいは、この祈りの内容に自分を委ねていくときに、私たちが身を置いているこの世が定める私たちの生きていくコースから離れていくことになるのです。世の中が、そんなことしていたらどうなっても知らないぞ。そんな願いを持ったら、願うだけでなく、願い通りに生き始めたらどんな貧乏くじを引いてもしらないぞ、と脅しをかけてくるでしょう。しかし、主の祈りを祈り続けるときに、この世が押し付けてくる基準をはねのけながら、天の御国を目指してこの地上生涯をたどる旅を続けることができるのです。
③ 神の御意思の中に巻き込まれていく
もう一つ。「救いとは、あなたの小さな人生が、この世界全体に対する神のご意志の中へと巻き込まれていく、喜びに満ちた驚きです。」
自分が自分に対して立案企画するどんな大きな計画をも遥かにしのぐ、神の大きな計画に私たちが自分から選びとって加わっていくのではなく、巻き込まれていくというのです。それは、自分ではできないことですが、この不思議な単純な祈りを祈り続けるときに、そのようになっていくというのです。実に、主の祈りにはそのような力が秘められていることを、これからの学びを通して知ることができるように願っています。
私たちがいつも祈っているあの主の祈りにそんな力が本当にあるのでしょうか。前半はなんだか、宙に浮いたような神様的なことを祈り、後半はその正反対でパンのこと、赦しのこと、誘惑のこととなんだか自分を中心にした狭い世界のことで完結してしまっているちびっちゃいスケールの超普段使いの、平板な祈りの言葉だと、私たちは思っていないでしょうか。
この「主の祈りを学ぶ」シリーズを通して、私たちの目が開かれ、この祈りの“とんがり具合”に目が開かれていくことを期待しています。
Ⅲ 主の祈りの文脈
1. マタイの文脈
大きな三つ目の項目として、主の祈りの文脈ということを考えてみたいと思います。主の祈りは、聖書の二か所に出てきます。一つは、マタイの福音書の6章9節から13節のところです。ここは、もう少し大きく言うと、マタイの福音書の5章から7章まで、3章に跨る山上の説教と呼ばれる有名なイエス様の説教の中に一部分です。施し、祈り、断食という3つの宗教的な行いについて語られる中で、「こう祈りなさい」とイエス様が祈りの文言を弟子たちに直接教えてくださったときに出てきた言葉です。イエス様はマタイの福音書の文脈では、祈りを教えるときに、反面教師となるものを二つ挙げて、そのように祈ってはいけない、そうではなく、こう祈りなさい、という言い方で主の祈りを教えられました。
① 偽善者の祈り=見せびらかしの祈り⇔隠れた祈り
反面教師の一つ目は、偽善者の祈りです。それは、「人々に見えるように」祈る祈りです。祈りは、神様に聞いていただくために祈るはずですが、なんと人に見てもらうための、“見せびらかしの祈り”をする人たちが沢山いたのです。それに対してイエス様が教えられた主の祈りの一つの大きな特徴は“隠れた祈り”なのです。
② 異邦人の祈り=拝み倒す祈り⇔信頼に基づく、簡潔な祈り
二つ目の反面教師は異邦人の祈りです。それは、繰り返しによって、言葉数が多ければ聞かれるだろう、という祈りです。拝み倒す祈り、神様に圧力をかけてこちらの言い分を通そうとする祈りです。それに対してイエス様が教えてくださった主の祈りは、神様は、こちらが求める前から私たちの必要をご存じだという信頼に基づく、簡潔な祈りなのです。
2. ルカの文脈
① バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えていた
もう一か所、聖書の中でこの主の祈りを記している箇所は、ルカの福音書11書2節~4節にかけてのところです。こちらは、イエス様の道備えをする宣教活動を始めていたバプテスマのヨハネがその弟子たちに祈りを教えているのをイエス様の弟子たちが知って弟子たちが、うらやましく思ったのでしょう。
② 弟子たちがイエスに祈りを教えてくださいと直談判
自分たちのお師匠さんであるイエス様に対して「私たちにも祈りを教えてください。」とイエス様に直談判した結果、イエス様が「祈るときにはこう言いなさい」と言って、教えてくださった祈りがこの主の祈りです。
3. 2000年の文脈
ですから、マタイの方は反面教師に導かれ、ルカの方では、先輩教師に触発されたところにルーツがあったわけです。この二か所を何も知らずに聖書を読み過ぎても、特に強く印象に残るようなことはないかもしれません。しかし、この部分に初めの祈り出しと、終わりの締めくくり部分を付けて、定型句にしたものをキリスト教会は2000年間祈り続けてきました。そして、この祈りは決してすたれることなく、時代遅れとなって色あせることもなく、祈り続けられてきたのです。そして、その力のすごさを多くの先輩クリスチャンたちが証ししているのです。
これから丁寧にこの主の祈りをご一緒に学んでいきましょう。そして、私たちもこの主の祈りを祈ることによって、冒険の旅に出ようではありませんか。
祈り
一言お祈りいたします。私たちの主イエス・キリストの父なる神様。今日から、私たちは主の祈りを学び始めました。多くの人がそらんじている単純で短い祈りです。しかし、主イエス様ご自身がこう祈るようにと教えてくださったこの祈りの力に目が開かれ、私たちの生き方が帰られていく恵みにあずかることができるようにお導きください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。