マルコの福音書を学ぶ(81)

□2026-09-06 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書15:42-47

□説教題 「イエスの遺体を墓に納めた」

□説教者 山田誠路牧師

# 導入 

今日のところは、前々回と前回に続いて、イエス様が十字架上で命を落とされた直後の場面です。今回の登場人物としては、新たに登場する人としては、アリマタヤのヨセフという人がいます。マルコの記述によると、「有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。」とあります。

この人物についてマルコが特に強調しているのは、43節の「勇気を出してピラトのところへ行き」というくだりです。議員というのは、これまでの何度も出てきている「最高法院(=サンヘドリン)」の議員であったということです。ですから、イエス様を冒涜罪で死刑宣告をくだしたその裁判に、このアリマタヤのヨセフも議決権を持つ一人としてそこにいた、ということです。

そのような人物が、処刑されたイエス様の遺体の下げ渡しを願い出るということには、どれほどの勇気が必要だったか、ということは容易に想像がつくと思います。

アリマタヤのヨセフは、このイエス様の遺体の下げ渡しと埋葬のところにしか聖書では出て来ません。また、その後のことについては、記録は残っていないようです。しかし、「この勇気」のゆえに2000年にわたって世界中で覚えられることになったのです。

さて、今日の箇所は、42節の「さて、すでに夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であった」という記述で始まります。夕暮れが迫っている、という一つのことが、今日読んだところに書かれていたすべてのことの直接のきっかけなのです。

そこまで、本日の場面設定を押さえて、本題に入っていきたいと思います。

本日のポイント3つです。

> Ⅰ アリマタヤのヨセフと女性たちにとっての安息日

> Ⅱ ユダヤ教指導者たちにとっての安息日

> Ⅲ 神にとっての安息日

この3点です。

# 本論

## Ⅰ アリマタヤのヨセフと女性たちにとっての安息日

太陽が沈んでしまうと、そこから安息日がはじまります。創世記1章に繰り返されているように、ユダヤの一日の数え方は「夕あり、朝あり」で、日没とともに新しい一日が始まるのです。アリマタヤのヨセフと女性たちにとって、安息日の到来は、タイムオーバーを告げるものでした。安息日が始まってしまうと、それから丸一日、社会がストップし、イエス様の遺体に対しても何もできない24時間が待っている、ということを意味しました。

空を眺めながら、日が沈んでしまうまでの短い時間がアリマタヤのヨセフとイエス様の死を見届けた女性たちにとっての持ち時間だったのです。

これはある程度想像でしゃべりますが、もし、イエス様が十字架に吊るされたまま日没となり安息日に突入すると、ユダヤ人はそれから24時間はなにもできなくなりますから、ローマ人の方が吊るしたままにするなら、吊るされたままになります。そうすると、猛禽に食われたりするかもしれません。
 さすがに、イエス様の遺体がそのように扱われるのは耐えられない、と思って彼らは、持ち時間の中で、精いっぱい、できることをしたのです。

## Ⅱ ユダヤ教指導者たちにとっての安息日

ここから、二つ目のポイント、「ユダヤ教指導者たちにとっての安息日」に入っていきたいと思います。実は、これからお話しすることは、ずっと学んでおりますこのマルコの福音書ではなく、マタイの福音書の内容をベースにお話しする、ということをあらかじめお断りしておきます。

どうして、そうまでしてこのポイントを立てたかと言いますと、一つ訳があります。私は、アリマタヤのヨセフが勇気を出してイエス様の遺体の下げ渡しを受けて、「岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口を封印した」あと、日が暮れて安息日がはじまってから24時間のこと、すなわち安息日の間のこと、また、言い換えると、イエス様の遺体がお墓の中にあった24時間について書いてあるのはマタイの福音書だけなのです。

そこで、今回、私はマルコがまったく触れていない、翌土曜日の安息日に何があったかを、マタイの福音書から読んでみました。すると、そこに驚くべきことが書かれていたのです。 

マタイの27章62節から66節までを読ませていただきます。

「明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」ピラトは彼らに言った。「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。」

「明くる日、すなわち、備え日」とは、まさしく聖金曜日にイエス様が十字架に掛けられた日の明くる日で、土曜日、安息日のことを差します。安息日になって、祭司長たち、パリサイ人たちが、なんとピラトのところに集まって、ピラトに対して交渉したのです。

これは、多くの聖書学者が言っていますが、「安息日規定違反」です。彼らユダヤ教指導者は、命がけで安息日を守る、すなわち「何の仕事もしない」ということを他人には強く要求してきた人たちです。その彼らが、今、堂々と安息日規定を自ら破っているのです。

それは、生前にイエス様が「自分は三日目によみがえる」と、言っていたのを思い出したからです。墓に番兵を立て守らせたのは、番兵の力で復活を阻止しようとしたのではありません。もしそうだとしたら、彼らは世界で一番はやく復活信仰をもった人たちということになります。生き返って、墓から入り口の石をどかして出てこようとしても、あらかじめ施した封印と兵士たちの怪力で、外に出られないようにしよう、としたのではありません。

そうではなくて、弟子たちが来て、イエス様の遺体を盗んで行って、「復活した、復活した」というデマを流されると、これまで以上にやっかいなことになるから、「弟子たちに盗ませない」ために墓の番をしたのです。

いずれにせよ、イエス様の生前のことばのゆえに、彼らにとっての持ち時間は、安息日が終わるまでだったのです。

ここで、そもそも安息日とは何なのかということを考えてみたいと思います。安息日の一番の大元は、創世記の1章、2章にある天地創造のところにあります。神様が6日目までに人間を含むすべてのものを造られ、創造の御業を完成されました。そして、7日目は、神様が休まれた、安息されたのです。そして、その安息は、もっぱら被造物を祝福するために神様は安息日を設けられたのです。

しかし、ユダヤ教指導者たちにとっては、持ち時間が安息日の一日分長くなりましたが、安息はできませんでした。休むことはできませんでした。神が休んで祝福だけをする日として設けられたのに、安息日規定まで冒して墓の番をしたのです。

そういうと待ってください、実際に番をしたのは、ユダヤ教指導者たちではなく、ピラトのところから出してもらったローマ兵たちですよ、とおっしゃる方がおられると思います。イースターの時によく歌う讃美歌に「番しつづけし兵の努力 空しかりき ああわが主」というのがあります。私はこの歌詞がずっと頭にあって、番をしたのは、ローマ兵だとばかり思ってこの年まで来ました。なぜなら、ユダヤ人は安息日には働けない、何もできない、お墓の番もできない。だから安息日規定とは関係なく生きているローマ兵にその部分はやってもらった、という話だとばかり思っていたのです。

しかし、今回の準備で、私はマタイの先ほどの箇所を読み返してハンマーで頭を殴られたかと思うほどの衝撃を受けました。

もう一度、マタイの27章の65と66節をお読みします。よく聞いてください。そして、読んだあと一つの質問をします。

「ピラトは彼らに言った。「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。」

さて、最後の出てきた「そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。」の「彼ら」とは誰のことでしょうか。素直に読むならば、その前に「ピラトは彼らに言った。『番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。』」で出てきている「彼ら」のことです。そしてその「彼ら」とは、ピラトに番兵を出してくれと、安息日規定を犯して頼みに来ている「祭司長たち・パリサイ人たち」のユダヤ教指導者たち以外の何者でもありません。

なんと彼らは、安息日規定を犯してピラトのところに交渉に来ただけでなく、出してもらった番兵たちと一緒に墓までいって一緒に「石に封印をし、墓の番をした」のです。

たとえ、最高法院とピラト官邸の距離が安息日規定で歩いてよい距離の範囲だったとしても。また、ピラトとの交渉が、仕事に当たらない、という特別解釈を施したとしても、「石に封印をし、墓の番をした」ということは、安息していないのです。神様がすべての祝福の唯一の基であるので、神様の最善の導きに委ねるということが、まったくできていないのです。そして、むしろその神様の御手に委ねて安息するというのの正反対の姿をさらしたのです。他人に命がけで安息日を守らせ、イエス様の生涯についても最初のいちゃもんは「あいつは安息日をまもらないで病人をいやしている」というものだった、彼らがこれ以上ない有様で安息日を真っ向から破って、イエス様が葬られた墓の前に番をしているつもりで立っているのです。なんという倒錯した姿でしょうか。

## Ⅲ 神にとっての安息日

これまで、アリマタヤのヨセフとイエス様の十字架の死を見届けた女性たちにとっての安息日、そしてユダヤ教指導者たちにとっての安息日について考えてきましたが、最後に神様の側から見た安息日について考えていきたいと思います。

キリスト教の世界では、「旧創造」と「新創造」という言葉遣いをすることがあります。「旧創造」とは、創世記1章、2章に記されている、「光、あれ」から始まり、人を神の似姿に造られて、「はなはだ良かりき」という宣言で万物をお造りになった創造です。神の口から出る一つ一つのことばによる創造です。その「旧創造」にとって安息日は、完成を意味しました。

たとえば、お料理をたくさん作って自宅にお客様をお迎えするときのことを考えてください。オードブル、メインディッシュ、デザート、コーヒー何種類ものお料理を朝から、或いは前日から仕込んですべてのものを作り終えました。しかし、まだそれは本当の完成ではありません。お客様と一緒に、楽しく食べて、喜んでいただいて満足して、初めてそのお料理は完成したと言えます。「旧創造」にとっての安息日は、すべての料理を作り終えたあとの、その共に食し、満足するところに相当するといってもいいのではないかと思います。

そこでもし、こんなお客さんがいたらどうでしょうか。あるお料理を一口食べたところ、それを持って人の家の台所に行って、違う食材を加えて味変して戻って来て、「これでもっとおいしくなりました、みなさんもどうぞ!」なんてことしたら、最低です。すべての祝福は神様お一人から来るのです。

さて、それに対してまず、「新創造」とは何でしょうか。それは、素晴らしく造られた神の創造の世界に、悲しいかな罪が入って来てしまいました。神様は、その罪の世界に独り子イエス様をお遣わしになりました。そして、人としてあらゆる苦しみをなめ、愛のすべてを注ぎだした末に、私たちすべての罪をご自分の身に負って、十字架で身代わりの死を遂げられました。神が全時代の全人類のすべての罪に対する呪いを、たったお一人罪のない御子イエス様の上にお下しになりました。イエス様は、十字架の上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」というイエス様からは出て来るはずのない、悲痛が極まった叫びを上げて、贖いを完成させられました。

「新創造」は、その十字架上で流された罪のない、御子イエス様が流された血によって生み出された新しい世界です。「旧創造」の世界には、私たちは自分の関与するところは全くない形で、そこに生み出されて入って行きました。しかし、「新創造」の世界は、気が付いたら入っている、という世界ではありません。信じる者がその祝福にあずかる信仰の世界なのです。

さて、「旧創造」と「新創造」の説明が少々長くなり過ぎましたが、問題の「神にとっての安息日」に話を進めましょう。マルコの福音書を読み進めて来て、イエス様の遺体が墓に納められ、石でそのお墓が蓋をされるところまで来ました。日没となり、日付が変わり土曜日の安息日がはじまります。ユダヤ人は安息日には何もできないので、マルコでは一切、土曜日の記述はありません。次の記述は、安息日が開けた翌日曜日の朝となります。

では、その間のイエス様の遺体がお墓に納められていた土曜日のまるまる一日。安息日ですべての仕事が禁止され、社会がストップした時間、神様は何をなさっていたのでしょうか。その時間は神様にとってどんな時間だったのでしょうか。

それは、新創造へのカウントダウンの時間だったのです。それは、初日の出を見るために高台の展望台から大海原を見つめているときのようです。「あと少し、あと少しで、あの水平線の向こうから太陽が昇ってくる。」太陽が顔を出した瞬間に光の筋が海面をまっすぐに広がるのです。その瞬間が訪れるのは、確実。しかし、あと数秒。5、4、3、2、1そのカウントダウンこそが神様にとっての、十字架と復活の間に横たわる安息日だったのです。

人がこれ以上指一本ふれることができない、「ここまで!」というゲームオーバーを告げる安息日の到来。安息日が到来しても、安息することができなかった安息日のプロがお墓の前で番をした安息日。それと同時並行で神様は、復活へ向けて、新創造の完成へ向けて「5、4、3、2、1そのカウントダウン」をしておられたのです。

私たちに生活にも同じようなことがあるのではないかと思います。もうここまで来たら、手の打ちようがない、工夫のしようがない、時に任せたら事態はどんどん悪くなる一方だ。私たちがあきらめても、あるいはあきらめずにそれでも休まず動き回っても、お墓の中には1ミリも影響を与えることはできません。しかし、神様は私たちが思い描くことなどできない、はるかに素晴らしいご計画を進めておられるのです。そんな神様に委ねて進もうではありませんか。

# 祈り

 一言、お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今日は、イエス様の遺体が十字架から取り降ろされて墓に葬られたところを読みました。そして日が暮れて、何もできない安息日が到来しました。アリマタヤのヨセフのマグダラのマリアをはじめとした女性たちも、勇気を出してそこまでして、それを見届けましたが、そこまででした。一方、ユダヤ教指導者たちは、安息日を自ら侵してまで、墓の番をしました。人間はそこまでです。しかし、神様は「旧創造の完成」を、「新創造の苗床」と更に進んで行かれます。私たちに信仰を与えてください。どんなに自分の限界を感じても、神はそこから生まれる、そこからしか生まれない良いことのためにすでにカウントダウンに入っておられることを。そして、毎週、礼拝に集い、真の神の安息に与かることができる信仰を。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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