2026年4月12日の説教動画、ショート動画、説教原稿をアップしました。

□2026-04-12 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書14:17-21

□説教題 「そのような人は」

□説教者 山田誠路牧師

導入 

⒈ 最後の晩餐のメニュー

ずっと、ご一緒にマルコの福音書を礼拝で学んでおります。そして、とうとう、いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれるところまでやってきました。この最後の晩餐は四つの福音書すべてに書かれています。しかし、面白いことに、晩餐という食事の様子を記録しているにも関わらず、何を食べた何を飲んだというメニューについては一切といっていいいほど記録されていません。もしかしたら、この食事は「過越しの食事」という特別な食事なのでメニューは決まっていたからかもしれません。ユダヤ人ならそれでわかるところでしょうが、私たちにとってはその辺りも詳しく書いてほしかったな、という気が少しいたします。

その代わりに、その食事の席で話された話題が記録のメインとなっています。今日のところは、イエス様がユダの裏切りを予告されたところです。これは、お料理でいうと、オードブルで、来週扱いますところがメイン・ディッシュで聖餐式の制定、その次がデザート・コースでペテロの裏切りの予告、ということができるかもしれません。

⒉ 「ユダとペテロ」ではなく「ユダとパウロ」

「ユダの裏切り」はよく、ペテロの裏切りのセットにして、比較対照されたりします。銀貨30枚をもらってイエス様を売り渡すのと、イエス様を3度「知らない」というのと、「積極的な悪」と「消極的な悪」との違いがあるかもしれません。しかし、「知らない」と3度言ってしまったペテロにしてみれば、決してそれが「消極的な悪」だったから後で立ち直れたわけではありません。自分がやってしまったことと直面したときの絶望には、ユダとペテロと、そう大きな違いはなかったのではないかと思われます。そして、どうしてペテロは回復することが赦され、しかも後のキリスト教会の礎の立場に立つことができたのに対して、ユダの方は最初から悪役であることが定まっていたかのように、首をくくって自害してしまうという不幸な結末になってしまうのか。その岐路はどこで別れるのか、ということがよく取り上げられます。

しかし、今日は、イスカリオテのユダをペテロではなく、パウロと比べてみたいと考えております。そして、その比較対象の中で、今日のテキストの中で一番衝撃的な「そのような人は生まれて来なかった方がよかったのです。」について考えていきたいと思います。

ポイントとしては、

Ⅰ 二人の人物像について

Ⅱ 二人の共通点と相違点

Ⅲ 考えるべき二つの点

ということでお話しを進めていきます。

本論

Ⅰ 二人の人物像について

⒈ ユダについて

イスカリオテのユダについて聖書に書かれていることはそう多くはありません。12弟子の一人に選ばれたこと、弟子一行のなかでは財布を預かっていたこと。それは、信頼と能力があったことを示唆します。

また、「イスカリオテ」というのはユダヤ地方にある「カリヨテ」という町の人、という意味だという説が昔から有力です。そうするとガリラヤ出身者が多い弟子たちの中で、もともとアウトサイダーだったのではないか、というイメージと親和性があります。しかし、これは、断定はできず推測の域を出ません。

あと、もう一つ聖書に書かれていることは、先日触れましたが、ユダはサイフを預かっていたが、そこから使い込んでいたということです。そして、その使い込みの事実は、どうして、よりにもよって最側近の12弟子の一人がイエス様を売り渡したのかということと深く結びついているようにも思います。

そして少し先回りしますが、ユダの最期については、福音書ではマタイだけが記しています。イエス様が取られられて宗教裁判、政治裁判とたらいまわしにされているのを見て、ユダは「後悔して」とはっきり書かれていますが、首をつって亡くなりました。ここは重要なポイントですが、ユダはイエス様が十字架に釘づけられるより前に自分で命を絶ってしまったのです。十字架上のイエス様とも、復活のイエス様ともお会いする前に、自分の方からいなくなってしまったのです。

⒉ パウロについて

もう一人、今日、イスカリオテのユダとの比較対照として登場してもらうのがパウロです。パウロは現在のトルコのタルススという町で生まれ、少年時代にエルサレムに上京して、当代切ってのパリサイ派の学者ガマリエルの門下生として律法を勉強して、若手のホープとして頭角を現わしました。「私はヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところのない者でした。」とピリピ書では自分のことを言っています。

任されていたお金を使い込んでいたユダと比べると、パウロは道徳的には「非難されるところがない」と言えるほど潔癖でした。ユダヤ教を信心していたころは「サウロ」と名乗っていましたが、回心後は「パウロ」という名前になりました。

しかしそんな彼はその熱心さのゆえに、そのまじめさのゆえに、その妥協のなさのゆえに、教会への迫害者の先陣を切る者となってしまったのです。第一テモテでは、「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。」と書いています。

教会の最初の迫害者となったステパノが石打にされて殺されていく場面では、パウロはその場に現場監督のような立場で立ち合いました。その後も、パウロは「家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、労に入れた。」「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところへ行って、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道の者であればお男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」と使徒の9章に書かれています。

そして彼は、一網打尽にクリスチャンを捉えようと乗り込んで行こうとする矢先、あと少しでダマスコというところで、突然神に打たれます。そして、こういう声を聞くのです。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのですか。」パウロが迫害していたのは、クリスチャンとなった人間一人一人でしたが、イエス様は「なぜ私のかわいい信者たちを迫害するのか?」とは言わなかったのです。昨年ずっと、山田美紀牧師の担当の時にはエペソ書を礼拝で学びましたが、そこには、「キリストの体なる教会」ということが扱われていました。パウロは、イエス様のお体そのものに危害を加えていたのです。

Ⅱ 二人の共通点と相違点について

⒈ 共通点

続いて、ユダとパウロの共通点と相違点を見ていきたいと思います。まず、共通点から

①一つには、ユダもパウロも、イエス様に対して取り返しのつかないことをしでかしたということです。一人は売り渡し、もう一人はそのお体を迫害し、傷つけたのです。

②そして、二つ目に彼らはともにそのことのゆえに、自分ではどうすることもできない深い後悔の念を持ったということです。ユダについては、さきほども紹介しましたが、マタイの27章では、「イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返して、言った。『私は無実の人の血を売って罪を犯しました。』しかし、彼らは言った。『われわれの知ったことか。自分で始末することだ。』そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。」

ユダは後悔し、祭司長たちに対してではありましたが、「わたしは罪を犯しました」と言いました。

パウロは、ダマスコへの途上で神の光に打たれた直後、三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった、と記されています。そして、衰弱した体でひたすら祈りました。この三日間のパウロの姿は、自分がしでかしてしまったことの重大さに直面して、そのあまりの取り返しのつかなさに精神がダウンしたということでしょう。

⒉ 相違点

次にユダとパウロの相違点を見ていきたいと思います。ユダに関する記述で気になるのは、「立ち去った」「出て行って」という言葉です。ヨハネの13:30には、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。時は夜であった。」という印象的なくだりがあります。ユダは「出て行く人」だったのです。交わりから外れて一人で出て行く人、光からはずれて、一人で闇に出て行く人として描かれています。

一方、パウロが、目が見えなくなり何も飲まず食わずの三日間という死と隣り合わせといっても大げさでないピンチから命の方に戻ってこられた大きな要因はなんでしょうか。それは、神様からアナニアというダマスコのクリスチャンのリーダーをパウロの回復のために助け手として送られてきたことです。

ユダとパウロの違いを一言で言うと、「出て行ったか!留まったか!」の違いと言えるでしょう。一人で出て行くときに待ち構えているのは、大きな大きな闇の力です。これは誰も太刀打できません。しかし、自分のしでかしてしまった取り返しのつかないこと、罪からくる呵責に押しつぶされそうになるとき、祈りつつそこに留まるとき、神様は不思議と外から助け手を送ってくださるのです。「「天は自ら助くる者を助く」とよく言います。サミュエル・スマイルズと言う人が1859年に出した『自助論』本の一節だそうです。しかし、これは聖書から言うと少し違うと思います。ユダが直面した問題も、パウロが直面した問題も、自分で自分を助けてなんとかなるほど生易しいものではなかったのです。

しかし、「天は祈り留まるものに助け手を送る」という隠された道があるのです。

Ⅲ 考えるべき二つの点

⒈ 神の予知

最後に、「考えるべき二つの点」という最後の大きなポイントに進んでいきたいと思います。一つ目は「神の予知」ということです。「予知」とは「予め知っている」ということです。

最初の方で少し触れましたが、今回のテキストの中で一番気になる、衝撃的な言葉はイエス様がユダについて言われた「そういう人は生まれてこなければよかったのです。」のところです。これは、私たちの社会の常識からいうと、他人に対して絶対言ってはいけないNGをワードです。それを、なんとイエス様の口がそうおっしゃったと、聖書に書かれているのです。これは、大変なことです。どう考えたらいいのでしょうか。私たち限りある存在は、その全貌はつかむことができません。その一部分だけを聖書から教えられたいと思います。

それは、神の予知ということです。主イエス様は、ご自分が十字架で死んで贖いを全うするということもご存じでしたが、ユダが裏切ることも、ペテロが3度も知らないということを予知されていたのです。ただし、「知っている」ということと「そうさせるということ」は別です。ミステリー小説作家なら、裏切り者の存在は作家自らがその役割とともに作り出すわけですが、ユダはその役目と共に神がそうなるしかない存在としてお造りになったのではありません。ユダにも神様はペテロやパウロに注がれたのと同じ恵みと憐れみを注がれていたと解釈するのが聖書の神と合致します。

⒉ 人間の尊厳

しかし、また同時にこの言葉からわかるもう一つのことは人間の尊厳です。これは逆説的に言っています。もし、ユダに尊厳がなければ、すなわちユダがユダ自身に責任を持っていないならがば、神が介入して、こんな恐ろしい罪をユダに冒させないようになさればよいのです。しかし、神様はそれをなさらないし、なさることができないのです。なぜなら、神と雖も冒すことができない尊厳をもった尊い存在として人をお造りになったからです。

神が尊厳ある存在としてお造りになった人間を無視して、神が自動的にその人に成り代わって、その人を踏み越えて、悪を阻止し、善を行なうということはないのです。

①悔い改め

それでは、ユダやパウロのように、取り返しのつかないことをしでかしてしまった人間には、何が残されているのでしょう。それは、悔い改めることです。

今日、詩篇の交読では、51篇をご一緒に読みました。あの詩篇は、イスラエルの王でありながら部下の妻と道ならぬ関係を結び、証拠隠滅のためにその夫をわざと戦死させたという罪を犯し、それを一年間かくし続けていたダビデが悔い改めに導かれたときに読んだとされる詩篇です。

17節に「神へのいけにへは 砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」とありました。ダビデをダビデならしめたものは、パウロをパウロならしめたものは、「砕かれた心」、すなわち悔い改めた心だったのです。それに対して、ユダをユダたらしめたのは、「悔い改めなかった心」「悔い改めなかったという事実」なのです。

ここで、大胆な想像を一つ紹介したいと思います。もし、ユダが、銀貨30枚でイエス様は売り渡し、イエス様が逮捕され、裁判にかけられむごいリンチを受けているということを目の当たりにして、後悔したとき、ユダが違う態度に出ていたら歴史は変わっていたかもしれません。もし、ユダが出て行かないで、踏みとどまり祈り続けていたなら、助け手が神から遣わされて、ユダも悔い改めに導かれ、救いに与かり、聖霊に満たされ最強の証し人、伝道者になっていたかもしれません。

皆さん聞いてください。「私は銀貨30枚でイエス様を売り渡したイスカリオテのユダです。しかし、こんな私をも主イエス様はあの十字架の血で赦し、聖霊を注ぎ、証し人としてくださいました。私でも赦され、救われたのです。どんな人でも救われます。どんな絶望の淵にある人にも希望があります。このイスカリオテのユダである私を見てください。」

と力強い宣教ができたでしょう。それは、基本的には「裏切り」を「迫害」に置き換えるとすべてパウロの身の上に起こったことです。本当は、パウロに可能だったことは、ユダにも可能だったはずです。

②神の憐れみ

最後にもう一点だけお話しして締めくくりたいと思います。ここでもう一つ、冷静になって手綱を締め直すべき点が一つあります。それは、悔い改めを強調しても、それは、悔い改めた人の功績にはならないということです。悔い改めて主の御用に用いられたペテロやパウロは、そうならなかったユダに比べて、その分優れていたのでしょうか。悔い改めた人は、その分偉いでしょうか。

決してそうではありません。悔い改めた人の特徴は、意思の強さとか善を慕う強さなどではありません。その特徴は、「神様の憐れみが圧倒していた」ということです。ひとえに、神の憐れみのゆえなのです。神の憐れみはユダにも等しく注がれていた。しかしユダはそれを拒んだのです。

それをも拒むことができるほどの尊厳を私たち一人ひとりは神様から与えられているのです。その自由と責任を主に従うために用いる人は幸いです。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、いよいよ最後の晩餐のテーブルでの会話のところにまで辿りつきました。そしてユダの裏切りの予告のところをユダとパウロの比較を通して学びました。

どうぞ、私たちに与えられている自由と責任という尊厳を、神様の圧倒的な憐れみに触れられて、悔い改め、砕かれた心を持つために、用いさせてください。そのために祈る者としてください。そのような私たちを通して、戦争、内戦、飢饉で苦しんでいる人たちに神様による平和が一日も早く届けられますように、お願いいたします。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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