□2026-03-22 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書14章12節~16節
□説教題 用意のできた客間はどこに
□説教者 山田誠路牧師
序論
先週ご一緒に読んだところは「香油注ぎの水曜日」と呼ばれる日の出来事でした。今日のところは、12節に「種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日」と出て来ますが、ここでまた日が改まり、ここから最後の週の木曜日になります。「聖木曜日」とか「洗足の木曜日」と呼ばれます。
⒈ 既視感あり!
今朝のテキストを読んで、「なんとなく既視感がある!」と感じた方は相当鋭いですね。実は、マルコでいうと11章の冒頭のエルサレム入城の際にも似たような話がありました。イエス様は今回と同じように、まず、二人の弟子を先発隊として遣わしました。そして、「まだ、だれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのを、それを解いて連れて来なさい。」とおっしゃいました。他人のろばを勝手に持ってきて大丈夫かなと思うと、イエス様は、続いて「『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします。』と言いなさい。」とセリフまで授けてくださいました。そして、どうなったかというと「イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。」と、かなり具体的に特定された物事がイエス様のおっしゃった通りに進んだ、ということがありました。それと、今日の過越しの食事の用意をする、という話は多くの点で重複します。
⒉ 準備の人
一言で言うと、イエス様は非常に用意周到な方で、「出たとこ勝負」の方ではない、ということです。古舘伊知郎が2024年に「伝えるための準備学」という本を書きました。あの“口から生まれて来たような彼”が「アドリブはない。99.9%は準備だ」と言っています。イエス様も準備の人だったのです。古舘伊知郎は、その本の中で「結局人生とは死ぬ準備だ」と言っていますが、イエス様の生涯もまさにその通りでした。そして、今日のところは、最後の一週間の木曜日、亡くなるもう前日に差し掛かり、その準備の真骨頂といっていいところだと思います。そして、イエス様は私たちにもなすべき準備があるとおっしゃっているようです。
⒊ 今日のテーマ
さて、今日のところには、非常に特徴的なことばが出てきます。それは、14節にある「客間」ということばです。ほとんどの英語聖書では、”guest room” と訳されています。ギリシャ語では、「カタルーマ」といいます。この言葉は、このマルコの14章14節に一回と、あとは、ルカに2回だけ出て来ます。一つ目は、ルカの2章に、もう一つは22章に出て来ます。22章の方は、今回のマルコ14章の並行記事です。ですから、回数は3回ですが、実質二種類ということです。この二つの「客間」=「カタルーマ」がキーワードです。福音とは招かれるはずのない者がこの「客間」に招かれているという事実なのです。その招きのために、「誰がどのような用意をしたのか」という問いという観点から今日は以下の三つのポイントからお話ししていこうと思います。
Ⅰ 締め出された客間、招かれた客間
Ⅱ この客間が背負った歴史
Ⅲ “用意の上の用意”
この三つです。
Ⅰ 締め出された客間、招かれた客間
⒈ ルカ2章の「カタルーマ」
ルカの2章はクリスマスの記事ですね。2章7節「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」の「宿屋」が「カタルーマ」です。クリスマスの夜、マリア、ヨセフが締め出され、家畜小屋でイエス様を産み落としたその宿屋。このストーリーは、私たちと神様との関係を象徴的に表しています。何百年という単位で救い主を待望してきた民族、救い主のお生まれが預言されていたベツレヘムの人たちも、実際にイエス様がお生まれになった夜には、誰一人、客間を提供する人はいませんでした。
私たちは、いつも自分のことで手一杯、心の余裕も、時間の余裕も、お金の余裕もなく、いいことのためであったとしてもあくせくと忙しく立ち回っています。神様のために、そして隣人のために客間を用意して、客間に通すことが苦手なのが私たちではないでしょうか。
イエス様は、この世に来られたとき、客間から締め出され、家畜小屋で生を受けられました。そして今また、この世を去って行こうとされる最後の夜を迎えようとしています。言ってみれば、世界という客間から締め出されておられるのです。
⒉ マルコ14章の「カタルーマ」
しかし、なんとその締め出されたイエス様が、今度はご自分の方から、「整えられた客間」を用意して、弟子たちを最後の大切な食事の席に招いてくださるのです。しかも、あと数時間後、この食事が終わってからそんなに時間が経たないうちに、弟子たちは全員蜘蛛の子を散らすように、「我が身可愛いさ」にイエス様を一人置いて、逃げて行ってしまいます。
そう考えると福音とは、まさに、このイエス様の側からの信じられないほどの寛容な招きにあるのだと思わされます。招かれるはずのない者が招かれている、それが福音です。招くに値しない者たちを招くために、イエス様の方で席を整え、用意をして招いていてくださる。これが福音の入り口です。
Ⅱ この客間が背負った歴史
そして、実はこの14節に出て来る「二階の大広間」は、実は、キリスト教歴史の中においてとても重要な役割を果たした場所なのです。そのことを見ていきましょう。
⒈ 最後の晩餐の会場
一つ目は、これからマルコでは14章の17節以降に記述されていくいわゆる「最後の晩餐」の会場になったということにおいて重要です。ダヴィンチの絵と共に「最後の晩餐」ということばを知らない人はほとんどいないと思います。そして、それは、絵画の世界や、一般常識の世界においてだけでなく、聖書の世界においてもとても重要な食事の席でした。詳しい内容は、次回以降に譲りますが、ユダの裏切りの予告、聖餐式の制定、ペテロの裏切りの予告、と濃密な内容が展開されていきます。それらを通して、3年半寝食を共にしてきた直弟子たちに、ご自分の心の最奥部を吐露して、重要な遺言的メッセージを語られました。
しかし、実は、この広間はそれだけではないのです。
⒉ ペンテコステの会場・初代教会の集会場
これからお話ししますことは、聖書テキストが直接語るわけではありませんが、初代教会以来の伝承では、という前提で聞いていただきたいと思います。この部屋は、ペンテコステの出来事が起きた場所と同じ場所だとされています。
使徒の働きの1章13節に「泊っている屋上の部屋」。そして2章1節には、「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた」という表現が出て来ますが、それがマルコ14:14の「二階の大広間」のことであるとされてきました。
また、もう一つ、使徒の働き12章には、誕生間もない初代教会に加えられた迫害の中で、ペテロが捕らえられて牢に繋がれたことが書かれています。しかし、ペテロの方は、不思議に牢を脱出することができました。そして、そのペテロが真っ先に向かった先が12章12節に書かれています。「ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈っていた。」この人々が大勢集まって熱心に祈っていた場所が、今回の「二階の大広間」と同じ場所である、というのが初代教会以来のキリスト教会の伝統的な理解です。
そして、実は、「マルコと呼ばれているヨハネ」とはこのマルコの福音書の記者マルコのことです。マルコの家は裕福な家で、そこに人々が集まって来て祈るようになった。それが初代教会の集会所となったと言われているのです。
Ⅲ “用意の上の用意”
次に大きな3つ目のポイントとして、“用意の上の用意”ということに二重の用意について考えていきたいと思います。
⒈ イエス様の用意(場所)
①場所の確保
一つ目の用意は、イエス様がなされた用意です。それは、これから行われる過越の食事の会場を確保し、席を整えたというセッティングです。
過越の祭りとは、イスラエルの民が奴隷状態であったエジプトから神の偉大な御手によって脱出してきたことを記念する祭りです。その中で、過越の食事というのは、出エジプトの夜の出来事を象徴する食べ物を定められたしきたりに従って食することによって、毎年、毎年、出エジプトを思い起こし神に感謝を捧げるための重要な食事です。エルサレム以外の地に住んでいる人もこのときには、エルサレムに上京することがもとめられていました。そして、上京するだけでなく、この特別な食事をエルサレムの中で忠実に行うことも求められていました。
ですから、上京組にとっては、まず大切なことはその食事のための場所の確保でした。その部分については、イエス様がすでに用意をされていたということです。どのようにして、ということについては聖書に記述がありませんので、推測するしかありませんが、先ほど述べたことを前提にすると、イエス様はマルコの母マリアに事前に話を通して協力を要請していたと想像することもできます。
② 隠密行動であった
次のこの日の状況について少し考えてみたいと思います。この時すでにイエス様にとってエルサレムは危険すぎるくらい危険なところでした。14章1節に「祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。」とあった通りです。
そこで、今日のテキストの13節に注目していただきたいと思います。「イエスは、こう言って弟子たちのうちの二人を遣わされた。『都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。』」という不思議なことばがあります。
実は、当時は水がめを運ぶのは女の人仕事だったので、男の人が水がめを運んでいるというのはとても目立つことだったそうです。ですから、それがある種の暗号として用いられたのです。弟子たちは通りがかりの人や町の人に不必要に接触することなく、すっと目当ての場所に案内されるようになっていたのです。いわゆる隠密行動です。
もし12人の男が全員で動いていたらとても目立って、当局から察知され、最後の晩餐の前に手が回ったかもしれないからです。
そして、もう一つの想像として、ここにもマルコの母マリアの存在が浮かんできます。二人では足りない部分はマリアが自分の家の奉公人を目立たない形で手伝わせたのではないか、との想像も成り立ちます。
⒉ 弟子たちの用意(行為)
①二段階の用意
イエス様の方でされた用意に加えて、15節の終わりの「そこでわたしたちのために用意をしなさい」、16節の「それで、彼らは過越の用意をした。」とある、もう一つの用意があったのです。ある説教者はこれを「用意の上の用意」と言いました。
イエス様の方でされたのは、部屋の確保と席や食器などの用意です。一般的に食事をする場の整え、セッティングです。それに加えて先発隊の二人の弟子たちに命じられたものは、過越の食事という特別な食事にだけ必要な用意を意味していました。
②過越の食事の用意
それでは遣わされた二人の弟子たちはどのような準備をしたのでしょうか。今から申し上げることは、マルコの福音書には書かれていませんが、むしろマルコの福音書の記者が想定していた当時の読者たちは知っていて前提とされていたことです。
まず、「パン種の除去」という作業がありました。そもそも過越祭というのは、イスラエルの民が奴隷状態であったエジプトの地、ファラオの圧政から神の奇跡的な介入で脱出してきたことを記念するお祭りです。出エジプトの際、急いでいたので、パン種をいれないで焼いたパンを食べたこと、そして、パン種は腐敗のもとであるという思想から、これを部屋中探して取り除くのです。実際にパン種は目に見えませんので、ろうそくを灯して部屋を歩き回るといった儀式的なことだったようです。
次に、神殿に出かけていって、傷のない一歳の子羊を祭司に屠ってもらい、屠殺された小羊を持ち帰って、骨を折らないようにくし刺しにして丸焼きます。
その他、奴隷時代の苦しみを象徴する「苦菜」、神の救いを現わすブドウ酒、苦難の涙を象徴する塩水、などを弟子たちは用意したと思われます。
⒊ 「意味の種」を蒔く
このように弟子たちのなすべき用意はまだたくさん残っていたのです。イエス様は、それは、弟子たちがするように指示されました。
次の日に、自らのからだを十字架の上で神の子羊として捧げようとしておられるイエス様は、最後の食事を、それもただの食事ではなく過越の食事を弟子たちとしようとされています。「やがての日に、あなたがたが、あの日、神殿で子羊を屠り、丸焼きにして、食したあの過越の子羊とは、実はわたしのことなのだ、ということが分かる日が来るから、その日のためにあなたの手で用意をさせるのだ。」というのがイエス様の用意だったのでしょう。
イエス様は、自らの体を神の子羊として捧げる準備だけでなく、その前日に、その本当の意味を弟子たちがやがて悟ることができるための用意をもされていたのです。パン種は注意深くこの食事の席から取り除かれなければなりませんでしたが、イエス様は代わりに、あとで、この子羊の意味がよくわかるための「意味の種」を弟子たちの心に蒔いておかれたのです。
ここに深い、深い、イエス様の愛を感じます。そして、現代に生きる私たちにも同じ主は、変わらない愛を私たち一人一人に向けておられるのです。そのことを信仰によって受け取らせていただきましょう。
まとめ
⒈ 旧約の故事から
⒉ 喜多見チャペルへの適用
私たち喜多見チャペルは、毎週このセントポーリア音楽ホール二階練習室大という小さな部屋を借りて礼拝をしています。たいへん小さな群れです。私は教会のメールアドレスには、upperroomという名称を使っています。「二階の部屋」です。この場所は、まさしく、主の目から見たならば「用意のできた二階の大広間」なのです。ここに素晴らしい主の御業がなされていく、ここから真のキリストの体が立ち上がり、ここが祈りの家となっていく。主の用意をなし終えておられるのです。旧約の預言者を代表するエリヤは自分一人で850人の異教の預言者たちと戦った気でいましたが、実は神様はバアルに膝をかがめない、エリヤにさえ想像すらできなかった7,000人を用意しておられました。
⒊ 招きの言葉
クリスマスの夜には、誰もイエス様に対して客間を開けませんでした。しかし、今イエス様は「用意のできた客間」に私たちを招いておられます。その招きがいかに光栄なものであるかを知る者となりたいと思います。そして私たちのなすべき「用意の上の用意」を通じてイエス様が蒔かれた「意味の種」を育て、イエス様の十字架のご愛を知る者へと整えられていきたいと思います。
一言お祈りをいたします。
天の父なる神様、聖名を心から賛美いたします。今日は、「最後の晩餐」の用意のところを学びました。これからやがて、次々に重要な出来事が起きる場所をイエス様が確保し、席を整え、用意をしてくださいました。そして、その上で、先発隊の弟子たちにもなすべき用意を命じられました。目先のことしかわからない私たち人間とは違って、神様ははるか先の先までご計画をお持ちで、そのための用意を整えた上で、私たちに“用意の上の用意”に招かれます。主との大切な交わりの用意が具体的に何であるのか、それぞれに違っているでしょう。しかし、来週の聖日から受難週に入ろうとする週をこれから歩む私たちを、信仰に満たし、私たちには見えていませんが、神様には既に見えている群れとともに信仰の目を上げる者としてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

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