□2026-04-05 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 ヨハネの福音書20:1-18
□説教題 「私が引き取ります」
□説教者 山田誠路牧師
導入
皆さま、イースターおめでとうございます。全世界の教会と共にイエス様のご復活を祝うイースターの朝を迎えました。今日は、いつもの「マルコの福音書を学ぶ」シリーズから離れて、ヨハネの福音書からイースターのメッセージを受け取りたいと思います。
イースターの記事は、四つの福音書すべてに書かれておりますが、どれも、日曜日の朝早く、数名の女性たちがイエス様のお墓を訪ねるところから始まります。しかし、その少し前からお話ししたいと思います。ずっと続けているマルコの福音書の学びでは、やっと最後の晩餐の準備のところまでたどり着きました。最後の晩餐は、木曜日の夕方です。その日の夜イエス様は逮捕され、夜通しユダヤ教指導者ちから裁判や拷問を受け、翌金曜日の朝、今度はローマ総督のピラトの裁判を受け9時にイエス様は十字架に張り付けられ、6時間後の午後3時ごろ息を引き取られました。
それから、ユダヤ教指導者の中にいましたが、イエス様の隠れた弟子であった、アリマタヤのヨセフとニコデモらによって、急いでイエス様の遺体は埋葬されました。そして、数名の女性たちもそれを見届けました。それが、金曜日の日没間近でした。日が沈むとユダヤでは、日付が変わり、そこから土曜日で安息日になります。そして、社会はほぼストップします。特に女性たちは、イエス様の遺体をもっと手厚く葬りたいと思っていても、安息日にはそれができなかったです。
安息日は土曜日の日没で開けます。しかし、現代と違って、当時は電気がない時代ですから、日曜日の朝、火が上るのを待たないと、実際には、何もできなかったです。ですから、日曜日の朝、早く、まだ暗いうちから彼女たちは行動を始めたのです。
これから今朝の本題に入っていきたいと思いますが、初めに一つの問いを設定します。それは、「復活の主はどういう人にはじめに現れたのか?!」ということです。「だれに?」という問いならば簡単に「マグダラのマリアに」という答えを出せます。しかし、「どういう人に?」という問いには、少し深くこの記事を読んでいく必要があります。
ということで、今日は、
Ⅰ マリアの姿
Ⅱ マリアのことば
Ⅲ 復活の主のことば
という三つのポイントでこれからのお話を進めて参ります。
本論
Ⅰ マリアの姿
⒈ 絶望の次の絶望の淵にたたずむ姿
ヨハネの福音書の復活の朝の記事は、マグダラのマリアの登場から始まります。マグダラとは、ガリラヤ湖西岸の地名です。彼女は、他の男の弟子たちと同様、ガリラヤからずっと、イエス様と共に旅をしてエルサレムにまでやってきたのです。他の福音書を見ると、彼女はイエス様に「七つの悪霊を追い出して」いただいたと書かれています。精神的に、霊的に混乱の極みに陥って、自分では自分をどうすることもできないところからイエス様に救っていただいた経験が彼女の原点にありました。
その師と仰いでいたイエス様が十字架に付けられて無残にも殺されてしまったのです。彼女は絶望の淵に叩き落とされました。それでも、せめて、イエス様の傷ついたお体に香油を塗って、遺体を手厚く葬りたい、という願いを強く持って、それを行動に移しました。しかし、今度は遺体がなくなってしまったのです。「せめてもの思い」も遂げられなくなってしまいました。これで更に絶望の淵に叩き落とされたのです。
⒉ 泣いてばかりいるマリア
そして、今日の記事をよく読みますと、一つのことに気が付きます。マリアのことを表現していることばで3回も繰り返されていることばがあるのです。それは、「泣いている」ということです。11節に「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。」13節に「彼らはマリアに言った。『女の方、なぜ泣いているのですか。』」15節に「イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。』」
復活の主に最初にお目にかかったマグダラのマリアをヨハネは「泣いてばかりいる女」として描いています。私たちも子どもの時は、何かあるとすぐ「わーっ」と泣いたじゃないですか。大人になると、たいていのことでは泣かなくなります。感情の高鳴りを理性がギュッと抑えることを学ぶからです。しかし、大人でも時に、涙を堪えられないときがあります。理性では自分を保つ辺りをつけられない時、感情が理性を越えて私たち全体を包みます。そして、泣くことによって自分をやっと保てるような時があるのではないでしょうか。
Ⅱ マリアのことば
⒈ 二人の御使いに対して
次に、少しマリアのことばを見ていきたいと思います。13節を見ると、御使いたちから「なぜ、泣いているのですか。」と尋ねられたマリアは、「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私にはわかりません。」と答えました。
私は、このマリアのことばを読むとこんな光景を連想します。
「子どもが初めて少し高級なレストランに連れて行ってもらった。パンとスープが出てきて、これが今まで食べたことがないほどおいしいので夢中で食べていた。しかも、パンはお替り自由とも言っていた。しかし、あっという間に下げられてしまった。もっとあのおいしいパンを食べたいのに、と思って不機嫌になっていたら、ジューとすごい音と一緒にすごいメインディッシュが出てきて、それを一口頬張ったら、まあ、舌がとろけそうなほどおいしかった。そして、さっき、不機嫌になった自分が恥ずかしくなった。」みたいな感じですね。
イエス様の遺体がなくなっているということは、実は、主が復活されたという素晴らしことの証しです。しかし、彼女の思いは、死体に香油を塗ることがその時のできるベストだという考えから外にでません。すると、どうしてパンを持って行ってしまうのですか、と同じような感覚を持ったのでしょう。
⒉ イエス様に対して
①園の管理人だと思って
次に、マリアは復活の主イエス様から声を掛けられます。「なぞ、泣いているのですか。誰を探しているのですか。」
それに続く15節のことばはとても興味深いです。なんと、「彼女は、彼が園の管理人だと思って」と書いてあるのです。これは、非常に驚かされることです。マリアは、復活の主イエス様をこの言葉を聞きながら見たのに、イエス様だと分からなかったのです。そして、「園の管理人」だと思ったというのです。
これは不思議です。でも、こういうことってありますよね。私たちは、あそこに行けがあの人に会えると思って、そのところに行くと、なんだかみなその人の顔に見えてくる。逆に、その人に会うことなど全く思ってもいない場合、目の前をその人が通り過ぎても気が付かない。
マリアにとって、十字架で死んでしまったイエス様は、動かなくなって、息をしなくなって、心臓がドクドクしなくなって、冷たくなって、お墓の中で動かず横たわっている、それ以外に思い浮かべる姿はなかったのです。目の前に立って、自分に語りかけて来る、ということは考えの隅の隅にもなかったのです。
②どこに置いたのですか?
そして、管理人だと思って言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。」これは、基本的に先ほどの御使いたちに言ったことと同じだと思われますので、次に急ぎます。
③私が引き取ります。
それに続いてマリアはもう一言発言しています。今回、その言葉が私の心に留まりました。それでそこから本日の説教題は取りました。「私が引き取ります。」というのです。
これは、なかなかの覚悟だと思います。さきほど、お墓が空っぽなことを確認して、もう帰って行ってしまったペテロやヨハネはこのことを言えたでしょうか。
十字架上に息絶えたイエス様の死体を自分が引き取るとピラトに申し出て、自分が入るために用意しておいた未使用のお墓を提供してイエス様を葬ったアリマタヤのヨセフに言えたでしょうか。
ヨハネの福音書3章では、夜にこっそりイエス様のところに会いに来ていたが、イエス様が亡くなったあとは、堂々と大量の没薬と沈香を持って来たニコデモでも言えたでしょうか。
「(イエス様の遺体なら)私が引き取ります。」というセリフはマグダラのマリアの口から出てきたのです。そして、これを言った人というのが、私の最初に立てた問いの答えです。
これを言えた人に、復活の主は最初に現れたのです。
Ⅱ 復活の主ことば
⒈ 「マリア」
①目を開くことば
イエス様は、「私が引き取ります」と言ったマリアにお言葉を返されます。「マリア」短く、彼女の名を呼んだのです。この一言で彼女の目が開かれます。イエス様は、金曜日の夕刻に死んで葬られました。自分のできるベストはイエス様の遺体に香油を塗ること。という事実に基づいた自分の見ている世界を越える、神の真実の世界を見る目が開かれたのです。
16節をよく読むと、どうもこの「マリア」と声を掛けられたとき、マリアはイエス様に背を向けていたようです。そこで、振り向いて「ラボニ、先生」と言いました。14節を見ると、「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、」となっています。この時点でイエス様のことを見ているのです。そして、見て、管理人だと思ったのです。
私たちは、目で見て確かめられる世界が一番確実だと思っています。しかし、目で見たものは最終的に脳で像を結び、判断し、意味の世界につながっていきます。目から全く新しいことが入って来ても脳の古さがそれをシャットアウトすることがあるのです。その限界を超えるのは、神からの呼びかけです。13節で御使いたちがマリアに呼びかけたときは、「女の方」という言葉でした。それまで、御使いたちとマリアには何の関係もありませんから、それで当然でしょう。
②一体一のことば
しかし、復活の主は、彼女を「マリア」と名前で呼んでくださるのです。「マグダラのマリア」とも呼ばれませんでした。マリアという名前の女性はイエス様の周りに沢山いたので、その中で区別するために、マグダラ出身のマリアという意味でマグダラのアリアです。しかし、それでは大勢の中の一人です。この時、そこにはイエス様とマリアしかいません。「マグダラの」をつける必要はなく、一対一の関係で「マリア」と呼んでくださるのです。
⒉ 「わたしの…、あなたがたの…」
次にイエス様は、少し回りくどいようなことを話されました。17節の後半を読みます。「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」
ヨハネの福音書14章6節に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」という有名なことばがあります。このことばは、この道が開通したことの宣言です。マリアはそれを伝える使者としてイエスによってお墓から遣わされて行ったのです。
説教を締めくくりたいと思います。最初に「復活の主はどういう人にはじめに現れたのか?!」という問いを立てました。それは、「私が引き取ります。」という倒錯した思いを口にした人に、というのが答えです。私がイエス様のためにベストを尽くします、と言った瞬間、それはわたしのセリフだと言わんばかりに「マリア」と呼びかけ、ベストを尽くすのはわたしの方だ、すでに道は開通した。私があなたを引き取ります。これが復活の語りかけなのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、今年のイースター、復活節の礼拝を共に守らせていただきました。空っぽのお墓を見て、イエス様遺体が取り去られたと思い、それを取り戻すことしか頭になく、泣いてばかりいたマグダラのマリアがそこにいました。しかし、彼女が必死に「私が引き取ります。」と神様の側から見たらまったく見当違いのことを口にした瞬間、復活の主は「マリア」とやさしく名前を呼んでくださいました。そして彼女の目が開かれました。
私たちの生きる意味は、イエス様の残された教えや行いに香油を塗るように丁寧に身を当てはめることではありません。私たちの最大の問題である死をさえ打ち破り、父なる神様との道を開通してくださった復活の主に活かされることです。
どうぞ、このイースター礼拝を通して私たち一人ひとりの心の耳と目を開き、復活の主に生かされるいのちを生きる者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。

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