2026年3月15日の説教動画・ショート動画と説教原稿をアップしました。

□2026-03-15 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書14章10節~11節

□説教題  イスカリオテのユダは

□説教者  山田誠路牧師

序論

今日の聖書テキストはたった2節と、とても短く区切りました。登場人物はイスカリオテのユダです。日本におけるユダの知名度を正確には知りませんが、もしかしたら、ペテロやパウロよりも高いかもしれないと思うほど、この「ユダ」という名前は良く知られています。そして、それは「裏切り者のユダ」というレッテルとともに人々のイメージに刷り込まれています。ユダについては、考えるべきポイントはたくさんありますが、今日は、このマルコの福音書の文脈の中で「ユダ」という人物を捉えたいと思います。

⒈ マルコの福音書における記述

まず、このユダという人物は、マルコの福音書にどれくらい登場するか、ということを押さえておきましょう。マルコでは、3章19節に、12弟子の名前を全部記しているリストの中に初登場します。そして、その時すでに「このユダがイエスを裏切ったのである。」というコメントが付いています。

ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、バルトロマイ、ピリポ、マタイなどのように、イエス様の弟子になった経緯はどこにも述べられていません。

二回目の登場が、今日のテキストのところで祭司長たちのところに行って、イエス様を引き渡す相談をし、金をもらう約束を取り付けて帰ってきます。

最後の晩餐での裏切り予告の場面では、マルコはどういうわけかユダという名前を出さずにその場面を書いています。14章18に「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」という言い方です。そして、続いて衝撃的なことばをイエス様は発せられます。「そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」これは、現代の私たちにとっては、他人に対して絶対に言ってはいけないNGワード中のNGワードです。救い主からこれほど過酷な言葉を引き出してしまうほどの闇が、ユダ、そして私たちの中にあるこういうことも含めて、ユダについては深く考えるべき点がたくさんあるのです。
 四回目の登場は、14章43節からのゲッセマネの園でのイエス様の逮捕の場面です。ユダが剣やこん棒をもった群衆の先頭に立って現れ、口づけをもって、暗闇の中でイエス様を特定して、まさに売り渡し、裏切った場面です。

マルコではこの「『先生』と言って口づけした。」という場面がユダの登場の最後です。すなわち、マタイのように首をつったというユダの最期はマルコには記されていません。以上がマルコにおけるユダについての記述のすべてです。

⒉ マルコの文脈から

さて、先ほど、マルコの福音書の文脈の中で「ユダ」という人物を捉えたい、と申しました。文脈を少し考えてみたいと思います。少し、時計の針を戻して、あの長かった論争の火曜日まで戻りましょう。宮の中で次々に、ユダヤ教指導者たちから貶めるための質問に対して、知恵と権威をもって対応されたイエス様は、献金箱の向こう正面に座られました。すると貧しい一人のやもめがやってきて、レプタ銅貨二枚を投げ入れました。それを見ていたイエス様は、「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべを投げ入れたのですから。」とおっしゃいました。

そして、その後、イエス様と弟子たち一行は、宮を出ます。宮を見て「この宮はなんと立派なのでしょう!」と感嘆の声を上げた弟子たちを、イエス様はオリーブ山に連れて行き、宮を見下ろしながら、AD70年のエルサレム滅亡と神殿破壊、及び、それを更に超える終末の預言をされました。いわゆる「オリーブ山の説教」でした。

そして、先週扱ったところでは、やっと日付が変わり水曜日になり、ベタニアである女が壺を割って、純粋で非常に高価なナルド油をイエス様の頭にすべて注いだ、という事件が起こりました。先週の説教ではこの女はヨハネの福音書によるとマリアと特定されると申し上げ、「マリアは、」「マリアは」と実名入りで語りました。しかし、今日はマルコの文脈で、ということでお話ししていますので、ややこしいですが、今日はこれ以降、マルコに書かれている通りに「ある女」で通していこうと思います。

さて、弟子たちは、「なんという無駄なことをしたのか。300デナリ以上に売れて貧しい人たちに施しができたのに。」と厳しくこのある女を責めました。しかし、イエス様は、「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」という、福音書の全記述中で最高度のほめ言葉で、このある女のした行為を称えました。

先週も申し上げましたが、ナルドの香油を注いだある女を激しく責めたのは、ヨハネの福音書では、ユダであると書かれています。そして、ヨハネの福音書12章には、他の福音書にはないユダについての詳しい記述があります。12章6節を読みます。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているのを盗んでいたからであった。」

ここまで、マルコの文脈を追ってくると分かることが一つあります。それは、マルコの福音書では、ユダは、同じくイエス様を裏切ってしまったが、その後回復されて初代教会の指導者になったペテロとの比較の中で語られているのでない。むしろ、①生活費のすべて、レプタ二枚を捧げたやもめ、②純粋で非常に高価なナルド油をすべて捧げたマリア、③そして、お金でイエス様を売り渡したユダという対比で語られている、ということです。

ここまで、文脈を捉えた上で、残る時間、次の三つポイントで、このユダのことから悪の問題について考えていきたいと思います。

Ⅰ 悪の連携

Ⅱ 光と闇との関係

Ⅲ 二人の女とユダとの対比

Ⅰ 悪の連携

⒈ 祭司長たちの密議

先週の聖書箇所に含まれていたのに私がほとんど素通りしたところがあります。それは、14章7節です。「過越しの祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。」というところです。

そして、今日の10節では、「さて、12人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。」とあります。ここに、悪と悪のきれいな連携を見ることができます。私たちの感覚としても、人間は良いことをするためにも連携しますが、多分、悪いことをするための連携の方が、ずっと巧妙で強力だと感じているのではないでしょうか。

⒉ オレオレ詐欺の例

2003年頃から「オレオレ詐欺」という言葉を聞くようになりました。至る所の警察署に「息子はサギ」という横断幕が掲げられました。ところが、その後、警察官、弁護士、銀行員などを装う「劇場型」に進化、更にその後、「医療費の還付金がある」と役所を装う多角化、更に現在では、AIやSNSを駆使した凶悪化・組織化が進み極めて巧妙な段階に入っているとのことです。「オレオレ詐欺」という言葉がすでに死語になりつつあるほど、この手の悪はあっという間に連携して巨大な犯罪ジャンルへと進化を遂げました。悪はいつでも連携を図ります。

⒊ ユダは…行った

さきほど、14章10節を読みましたが、そこには祭司長たちのという悪の権化がたむろしているところに、呼ばれもしないのに、ユダが自分からのこのこ出向いて行ったと読める表現で書いてありました。しかし、本当にそうなのでしょうか。私は違うと思っています。ユダは呼ばれて行ったのです。それは、祭司長たちからの誘いではなかったかもしれません。しかし、ユダの心の隙か、心の闇に巧妙に語り掛ける悪の誘いがあったのでしょう。

ここまでイエス様を待望のメシアだと思って従ってきたけれども、どうも自分の師匠は自分が思っていたようなローマからの政治的独立を目指していないようだ、という心の隙。そして、自分が公金を使い込んで、いつかはバレないうちに埋め合わせなければならないという心の闇。悪はいつでも心の隙に、心の闇に語り掛けて来て、光を避けて闇にいる人間を仲間に引きずり込もうとしているのです。連携のプロ中のプロなのです。

Ⅱ 光と闇の関係

⒈ ユダについての疑問

次に「光と闇の関係」ということを考えたいと思います。それは、イエス様とユダとの関係です。ユダの問題を考える時に、いつでも心に引っかかることがいくつかあります。たとえば、①なぜ、イエス様自ら厳選して選んだ12弟子の中からよりにもよって裏切り者が出たのか。②イエス様はユダが盗んでいたことをご存じだったのか。③ご存じだとしたらなぜ放っておかれたのか、という疑問です。まだまだ疑問はいくらでも出て来ます。

これらの問題をもっと敷衍すると「神様がいらっしゃるのなら、どうしてこの世に悪があるのか?」ということになります。そして、これらの疑問に私たちは答えを見出すことはできないでしょう。

⒉ 光と闇との共存

しかし、少なくとも言えることは、イエス様がこの地上を歩まれたとき、悪はイエス様のいと近くに厳然と存在し、大いに活動していた、ということです。逆から言うと、イエス様は罪ゆえに悪がはびこるこの世に、来てくださったということです。イエス様が来られたら悪がなくなったということはありませんでした。ヨハネの福音書1章5節に「光は闇の中に輝いている」とあります。闇がなくなるのではなく、光が闇の中で輝くのです。

神様がいるのに、イエス様がいるのに、なんでこんな悪が存在するのか?!と考えても埒があきません。光は闇の中で輝くのです。光があるところには、その逆の闇も存在するのです。イエス様は闇をなくすためではなく、闇の中で輝くためにこの世においでになったのです。

Ⅲ 二人の女とユダとの対比

⒈ 二人の女はすべてを捧げて

最後に「レプタ二枚を捧げた貧しいやもめ」及び「ナルド油を注いだある女」とのユダの比較を考えていきたいと思います。二人の女性に共通していることは、留保なくすべてを捧げたということです。それは、別の言い方をすると、そこには「計算が働いていない」ということです。愛のゆえに計算しないでしたことが、自分の理解を越えて最善に導かれたのです。そして神様の目に、人の評価を覆して大きく、尊く映ったのです。

⒉ ユダは計算でやった

それに対してユダは計算でやったのです。「これをこうすれば、ああなる。」彼は祈ることもせず、愛することもなく、計算で動いたのです。

そして、驚愕すべきは、この計算が、いと近くでいつもイエス様と一緒にいた人物の心の中でなされていたという事実です。「十二弟子の一角」を占めるということは、イエス様が行くところ行くところに大群衆が押し寄せてくる当時としては、羨望の眼差しで見られるような地位を得ていたと言ってよいでしょう。

しかし、「最も近くにいた者が、最も遠くへ行ってしまった」という現実は私たちに大きな警告を投げかけます。

⒊ まとめ

むしろ悪が入り込めなかったのは、レプタ二枚を捧げたやもめの心の方でした。「こんなに貧しいのだから、少しくらいズルしても、道を外しても……」と思ってもおかしくなかったかもしれません。「ナルドの香油は嫁入り道具で手をつけられないから、二番目にいい香油を注ごう」と思っても不思議はなかった。しかし、レプタ二枚のやもめもナルド油を注いだ女も、イエス様への愛が計算を封じたのです。

ユダの罪は、主を「自分の計算・枠組み」の中に閉じ込め、利用しようとしたことにあります 。対する女性たちは、主のために、自分の計算(枠組み)を壊したのです。それは、単なる「無計画」ではなく、神の愛という、計算不可能なものに触れた時に流れ出た愛の行為だったと言えるでしょう。

私たちに今朝求められているのは、計算をやめることです。けれどもそんなことをできる人は一人もいません。誰にもできません。しかし、ただ一人、計算を度外視して、愛に生き抜いたお方がイエス・キリストです。主がかけてくださるお声に、愛をもって応答するという導かれ方が私たちにとって最高の悪から守られる道です。

一言お祈りをいたします。

天の父なる神様、聖名を心から賛美いたします。今日は、ユダがイエス様を売るために出て行った、というところを学びました。悪は連携をいつでも私たちに仕掛けてきます。闇も悪も、この地上で避けることはできません。イエス様でさえ、悪に囲まれ、挑まれながらこの地上をすごされました。しかし、私たちは、たった一人計算を度外視して愛に生き抜いたお方イエス・キリストを知っています。どうぞ、この方の語り掛けに愛をもって応答することによって悪から守られて生きていくことができるように、お守りください。

このお祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。