2025年10月12日の説教動画、ショート動画、説教原稿をアップしました

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  • 2025-10-12 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ12:1-9
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(52)「私の息子なら」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 

A. 文脈

今お読みした箇所では、久しぶりにイエス様はたとえを語っておられますが、その文脈をまず確認しておきたいと思います。先週ご一緒に見ましたところでは、ユダヤ教の指導者たちから「あなたは、何の権威によってこれらのことをしているのですか!」との論戦を挑まれました。それに対して、イエス様が逆に「ヨハネのバプテスマは天からですか、人からですか」と問い返されました。ユダヤ教指導者たちが「分かりません」と答えたので、イエス様は「それなら私も答えません」と返しました。今日のたとえは、このいわゆる「権威問答」の直後、今度はイエス様が主導権を取って話された部分です。

ですから、先週の権威問答と同じく、時は最後の一週間の火曜日、論争の火曜日です。場所も先週と同じく、宮の中です。これから、しばらく、具体的に言うと、マルコ福音書では、12章の終わりまで同じ場所での一続きの出来事が綴られていきます。

B. イザヤ書との関係

次に抑えておきたいことは、このたとえには、当時これを聞いた人たちがみなピンとくる下敷きとなっている旧約聖書のことばがあった、ということです。イザヤ書の5章1節から2節までのところです。週報に印刷しいておきましたので、ご覧ください。お読みいたします。

さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。2彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。 

このイザヤ書では、ぶどう畑とはユダヤ人のことであり、それが神の大切にしていたものであり、良く超えた土地柄で、掘り起し、石を取り除き、良いぶどうを植え、やぐらを立て、踏み場を掘り、と時間と労力をかけて一生懸命に手を入れて、収穫を期待していました。ところが、甘いぶどうを期待していたのに、まったくの期待外れの酸いぶどうができてしまった、という描写です。預言者イザヤが、彼の時代のユダヤ人の姿に対して、神から預かった言葉を述べたのです。

イエス様と同時代のユダヤ人たちは小さいころから徹底した聖書教育を受けていて、しかも今イエス様が話している相手はユダヤ教の指導者たち“プロ中のプロ”ですから、このたとえを聞いて、だれもがたとえの中にでてくるものが何を意味しているのか、そしてこのたとえが自分たちを指して語られている、ということはすぐにわかりました。

しかし、後で詳しく見ていきますが、イエス様は、日本の古文の「本歌取り」のように、イザヤ書5章のことを材料に使いながらも、そこに新しい意味を加えてこのたとえを話されました。そのあたりのことを本論の方で詳しく見ていきたいと思います。

 

C. 本日のポイント

ここまでを序として、本題に入っていきたいと思います。

本日のポイントとしては、

Ⅰ 遣わされるしもべたちと息子

Ⅱ このたとえの不思議

この2つです。

Ⅰ 遣わされるしもべたちと息子

A. しもべ=旧約の預言者たち

さっそく第一のポイントに入っていきます。

まずは、イエス様が語られたたとえを詳しく見ていきましょう。1節をごらんください。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て」ここまでは、さきほど紹介したイザヤ書5章とまったく同じです。そして、「ある人」とは神様で、「ぶどう園」が神に選ばれたユダヤ人だということも明らかです。

⒈ 加えられた要素

① 不在地主

次にイエス様のたとえでは、「それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。」と続きます。これは、イザヤ書にはない要素です。注解書によりますと、当時のパレスチナには、多くの不安定な労働者と不在地主がいたそうです。具体的に言うと、パレスチナよりもっと快適なところに住んでいるユダヤ人、または、ローマ人がパレスチナ地域のぶどう園の持ち主であったことが多かったようです。この部分の改変は、イエス様が当時の社会状況に合わせて手を加えたと言えるかもしれません。

② 遣わされるしもべたち

そして、次にイエス様がこのたとえに新しく加えたコアの部分が続きます。3節から5節までのところです。

「ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。」

しもべは何度も繰り返し派遣されました。最初のしもべは、打ちたたかれ手ぶらで返された、ということで命はとられませんでした。二人目は頭を殴られ、辱められた。そして、その次の3人目のしもべは殺されていまいました。ぶどう園の持ち主は、それでもしもべを遣わすことをやめず、「多くのしもべ」を遣わし続けます。そして、打ちたたかれたり、殺したりされた、という話です。

一番目、二番目、三番目、その後と順番に預言者の中の誰を指しているという特定は難しいと思います。ヘブル書11章には旧約聖書のヒーロー列伝があります。全員がいわゆる預言者と呼ばれる範疇の人ではありませんが、その章の後半にこう書かれています。35節の途中からお読みします。「また、ほかの人たちは、もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けました。また、ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。」

モーセも障害何度が民衆から石で打ち殺されそうな危機を経験しました。あれだけ素晴らしい働きをしたイザヤも、伝説ですが、ヒゼキヤの息子のマナセ王の命令で、木の中に入れられ、その木ごとのこぎりで真っ二つにひかれて殉教したとされています。エレミヤは、鞭打たれ、足枷につながれ、何度も投獄され、水のない殿しかない井戸の中に投げ込まれました。そして、このたとえを聞いていたユダヤ教指導者たちは、確実に最後は、バプテスマのヨハネの斬首のことをイエス様は示唆していると感じ取ったことでしょう。

この部分については二つ申し上げることがあります。

a. エレミヤ書との関係

一つは、この部分についても旧約聖書に元歌のような部分があるのです。エレミヤ書35章15節です。これも週報に印刷しましたので、ご覧ください。お読みします。

「わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、行いを改めよ、ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない、わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住め、と言った。それなのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。」

今、私はエレミヤ書の中から35章15節を引用しましたが、これとほぼ同じことを言っている箇所がエレミヤ書だけで全部で6か所あるのです。歴史的にも度々ですが、エレミヤ書の中だけでもたびたび、6回も繰り返されているのです。神様の思いは半端なのものではありません。

b. 歴史認識

二つ目は、これがイエス様の、あるいは聖書の歴史認識だ、ということです。その認識は大きく3つの要素でなりたっています。

①一つ目は、人類の歴史は神の目から見た時、悪の道を進んできた、ということです。

②二つ目は、神様は人類の歩みを注視して度々預言者を遣わされた、ということです。

③三つめは、人類は或いはその代表であるユダヤ人は、神から遣わされた預言者を繰り返し退けてきた、ということです。

さらに続けると、神はそこに愛する御子を送られた、そして、世はその御子を拒み殺してしまった、しかし、そのすべてを清算する終わりの時がやがて必ず来る、というところまで含めたものが聖書の歴史観だと大雑把に言うことができるでしょう。

B. 愛する息子=イエス様

イエス様のたとえでは、次に更なる展開を迎えます。6節から読みます。

「しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。」

愛する息子を遣わす、というのは、イザヤ書にもエレミヤ書にも直接には書かれていない要素です。そして、これはご自分のことを指しているわけです。ある注解者は、8節の「そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。」とたとえの中でイエス様が語っておられるのは、実質的に4回目の受難予告だ、と言います。イエス様は、都の外のカルバリ山の丘で十字架に付けられ、その近くの墓に、すなわち都の外に葬られました。

Ⅱ このたとえの不思議

A. ここが納得できない

今日は、このあとこのたとえ話の不思議な点について皆さんと一緒に考えてみたいと思います。ここまでこのたとえを読んできて、そうは言ってもなんだかこのたとえは、不思議で、納得できないなと思われる点はありませんでしょうか。

私にはありますね。神様をたとえているはずのこのぶどう園の持ち主は、あまりにも愚かだとしか言いようがないように思えます。

自分のしもべを遣わしたら打ちたたかれたり、殺されたりしているのに、それでも繰り返し、繰り返し懲りずに、大切なしもべを送り続けるなんてことがあるでしょうか。おまけに、それなら「愛する息子なら敬ってくれる」と思って、最終手段として自分の息子を送り込むでしょうか。しかも、その結果は、最悪で、息子はこれまでのしもべが受けてきたよりももっとみじめな目にあわされます。殺されて、ぶどう園の外に投げ捨てられる、というのです。

そして、極めつけが、そこまでの最悪の事態になった後に、9節、主人はやってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える、というのです。しもべや息子を殺してきた悪い農夫たちも、最後には皆殺されるというのです。このたとえでは、死ぬ人が多すぎます。というか、みな死にます。

そして、6節にある「私の息子なら敬ってくれるどろう。」というのは、本気だったのでしょうか。この主人は、読みが浅すぎたのでしょうか。状況の深刻さを把握し切れていなかったのでしょうか。それで、最後に皆殺し、とは最低最悪の持ち主ではないでしょうか。

以上が、私の心に浮かぶ疑問です。皆様はそのような疑問は持たれないかもしれませんが、しばしお付き合いいたできたいと思います。この不思議を解決することは可能なのでしょうか。

B. 手軽な解決案

一つには、これはたとえなので細部にまでこだわって解釈すると矛盾が出てきてしまうのは当たり前だ。たとえは、そのすべての要素に個別具体的意味を持たせる必要はない、とすることも可能でしょう。持ち主は、神様で、ぶどう園はユダヤ人で、農夫は当時のユダヤ人指導者たちで、と登場人物について認識されればよい。そして、息子が殺されるのは、イエス様の十字架の予告で、最後の落とし前の部分は、よくわからないがいわゆる「最後の審判」「終わりの日」というやつなのだろう。それぐらいを受け取ればよいのだ、と割り切ることもできるかもしれません。

C. 矛盾の中の解決案

しかし、わたしは、そう割り切らないで、この割り切れない矛盾の中にこそ、福音の神髄が隠されているように思うのです。この矛盾の中にこそ、神様の、そして御子イエス様の私たちに注がれる愛の深さがあるように思えるのです。

その本当の鍵は、今日あえて読まなかった10節、11節のところにあります。それは、来週のお楽しみということにさせていただきます。しかし、今日は、その予告編だけ少しさせていただきたいと思います。

打ちたたかれても、殺されても、何度でも何人でもしもべを遣わしてくる、それが私たちの神様です。実はそれ以上に賢い方法も、効率的な作戦もないのです。なぜなら、このたとえでたとえられているぶどうの収穫とは、単に農作物の収穫の量や数字や儲けのことではないからです。

神が求めておられる実態は、人の心だからです。神に造られ、神に愛され、あらゆる手をかけていただいた人間の心に生じる神様への感謝と愛だからです。それは、機械的に生み出すことはできないのです。種を蒔き、養分と水分と日光を与え時間を掛ければ必ず収穫できる、というようなものではないのです。愛は、愛することによってしか生まれてこないのです。

イエス様がこの地上に来られた時、「どうせ受け入れられない」「どうせ殺される」その目的のために来た、というのではないのです。イエス様は、神様の愛を示すために人となられたのです。こちらも本気で愛するから、そちらも愛も持って、受け入れ、愛をもって返してほしい。その期待を本当に持って、この世に来てくださったのです。

ヨハネの福音書の13章1節に、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」別の訳では、「極みまで愛された」とあります。イエス様が愛されたのはお弟子さんたちで、ここで農夫にたとえられているユダヤ教指導者たちではないです、という反論があるかもしれません。しかし、イエス様は、十字架の上で「父よ。彼らを赦し給え。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈られました。その中に、これらのユダヤ教指導者たちも含まれています。彼らもやはり、イエス様に、そして父なる神に、極みまで愛されたのです。

しかし、ペテロが「たとえ殺されるようなことがあっても、私は決してあなたを裏切りません。」と言い張った肉の頑張りは通用しませんでした。そこに、愛の関係における罪人である私たちの限界があります。だからこそ、イエス様は十字架で命を落とされたのです。イエス様が死んで復活するという中に、私たちの罪が赦され、私たちの内に愛が芽生える道が開かれたのです。

来週、もっと踏み込んでそのところを扱いたいと思います。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、最後の一週間の論争の火曜日にイエス様が宮の中で語られたたとえを学びました。捉え切れない部分もありますが、このたとえを通して、あなたがどのように私たちをご覧になっておられるのか、あなたがどのように私たちに向き合っておられるのかを知ることができました。

私たちは、罪深く弱く愚かな者たちでありますが、聖霊によって、深くイエス様の十字架の愛と復活の力を知る者としてください。そして、少しでもみこころにかなった歩みができる者としてください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。