- 2025-07-20 喜多見チャペル 主日礼拝
- 聖書箇所 マルコ10:23-27
- 説教題 マルコの福音書を学ぶ(43)「人の不可能と神の可能」
- 説教者 山田誠路牧師
序
⒈ 今年のテキストの展開
序論として、今日のテキストの筋を確認しておきたいと思います。先週のところでは、金持ちの青年がイエス様のところに「永遠のいのちを得るために何をしたらよいですか。」と聞きに来て、「財産も全部売り払って、貧しい人に与えなさい。そのうえでわたしに従って来なさい。」と言われましたが、財産を多く持っていたので、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った、という話でした。
今日のところは、その直後の記事です。イエス様は、周囲を見回して、弟子たちに言われました。イエス様の発言を記す福音書の描写は、単純に「イエスは言われた。」という場合もありますが、「イエスは」と「言われた」の二つの要素のほかに、「弟子たちに」という対象がはっきり述べられている場合、それから更に、今回のように「周囲を見回して」のような特別は記述が加えられている場合も少なくありません。そして、そのような場合には、その追加の記述は大切な意味を持っています。
今回のこの「周囲を見回して」は、弟子たちの動揺と緊張を現わしています。「驚き」という言葉は、今回の箇所では、24節と26節にイエス様のお言葉に対するものとして重ねて出てきます。しかし、その前に、前回の出来事である、金持ちの青年と立ち去り方に弟子たちが驚いて、その場の空気に緊張が走ったのでしょう。そのことが、「イエスは周囲を見回して」に表れています。
そして、イエス様はことばを発せられます。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」それに対して、弟子たちは驚きます。そして、イエス様は重ねて発言されます。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」と。この発言は直前の発言の言い直しですが、新しい要素としては、「ラクダと針の穴」というたとえを引かれたところです。このたとえの解釈には、歴史的いくつかの試みがなされてきましたが、端的に言うと、不可能だ、ということです。ラクダは当時、パレスチナで知られていた一番大きな動物だったそうです。針の穴は、逆に最も小さいものの代表として引き合いに出されています。とても分かりやすいたとえです。
この「ラクダと針の穴」のたとえをもって、「難しい」が「不可能」に格上げされてしまったことを聞き、弟子たちは「ますます驚いた」とあります。すると、イエス様は、「彼らをじっと見て」言われました。右往左往、どぎまぎしている弟子たちの心にやさしくよりそうように言われたのでしょう。
イエス様は、今日のテキストの中の結論にあたる言葉を短く、発せられます。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」ここで言われたことを更に短くすると、本日の説教題のように「人の不可能と神の可能」ということになると思います。
それでは、ここまでを序論として、今日は、ここから
Ⅰ 何が可能・不可能なのか?
Ⅱ 富と救いの関係
Ⅲ 可能と不可能の関係
この3点でお話をしていきたいと思います。
それでは、さっそく、最初のポイントに入っていきます。
Ⅰ 何が可能・不可能なのか?
まず、はっきりさせておきたいことは、「人にはできない」と言われていることは何なのか、です。
A 救わること
最も結びつきが強いと考えられることは、直前の26節で弟子たちが言った言葉の中にある「だれが救われることができるでしょう。」の部分でしょう。この「救われること」というのが「人にはできない」ことだと考えられます。「人にはできない」と「救われること」の二つをもう少し滑らかにつなげると、「人は自分では自分を救うことはできない。」或いは、「人は自分の力では自分を救えない。」ということになるかと思います。
B 神の国に入ること
もう一つ「人にはできない」が意味している内容として可能性があるのは、今日のテキストで何度も「難しい」と言われている「神の国に入ること」となります。23節では、「富を持つ者が」、25節では、「金持ちが」と限定されていたのを、27節では、富には関係なく、人間すべては、と一般化して、「神の国に入ること」は人にはできない、という意味で言われているというように考えることもできます。
C 二(三)は同義語
そして、二つは実は一つのことなのです。もう少し広げて言うと、前回のところのキーワードだった、「永遠のいのちを引きつぐこと」と今回の「神の国に入ること」と「救われること」の三つは、実質、同じことを三つの別々角度から言い表していることばだと解釈して問題ないと思われます。
富士山はかなり完璧なプリン型をしていますが、それでも御殿場側から見た「表富士」と富士五胡方面から見た「裏富士」では表情が違います。しかし、どこから見ても一つの富士山です。「永遠のいのち」「神の国」「救い」というキーワードは、福音の真っ中心を三つの角度から言い表した言葉だと捉えることができると思います。そして、そのよう一つのことに対して幾つかのことばがあることは、理解を助ける重要な働きをすると思います。
Ⅱ 富の救いの関係
次に、少し立ち戻って、富と救いの関係について考えてみたいと思います。
A 一般的な感覚
私たちは、富だとかお金だとかこの世における繁栄・成功、といったものが神の国への入国の妨げになる、という考え方にはそれほどの違和感は感じないのではないかと思います。富・名声・権力といったものは、いつでも私たちの魂の健全性に戦いを挑んでくる要素で、そういうものに気を付けなければいけない、というように考えるのは、極めて一般的なことだと思います。
有名な種まきのたとえにも、せっかく蒔かれた種の発育を邪魔する茨とは、「この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望」だとイエス様はおっしゃいました。
B 旧約聖書の世界観
しかし、実は、当時のユダヤ人にとっては、富はむしろ神様の祝福を現わすものと考えられていたのです。詩篇112篇の1節から3節には、このようなことばがあります。「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。その子孫は地の上で勇士となり 直ぐな人たちの世代は祝福される。繁栄と富とその家にあり 彼の義は永遠に堅く立つ。」
アブラハムへの神様の祝福は家畜や金・銀を豊かに持つようになる、という描かれ方をしています。ヨブは、出だしの1章で全財産を失ってしまいますが、最後の42章では、家畜はすべて2倍に回復され、それが神の祝福として描かれて終了します。
ですから、弟子たちは、この金持ちの青年に対して「富を持つ者」が、あるいは「金持ち」が神の国に入るのは難しい、いや、不可能だというイエス様のお言葉を聞いたときに二重に驚いたのです。一つ目は、財産のうちのいくらかではなく全部という厳しさ、徹底ぶりに驚いたのだと思います。二つ目は、富んでいる人は、お金を持っている人は、それだけ神の祝福を受けている証拠なので、持っていない人と比べると地、神の祝福をよりたくさん受けていて、神の国に近い、と考えられていたところが、イエスは真逆なことを言った、という驚きです。
C イエス様の教え
イエス様は、山上の説教で、「貧しいものは幸いだ。」「天に宝を蓄えなさい。」「神と富とに仕えることはできません。」「まず神の国と神の義を求めなさい。」とおっしゃいました。イエス様は伝道開始直後から、従来のユダヤ教の世界観である、「神の祝福は地上での繁栄に表れる」という考え方を根本からひっくりかえすようなことを口にされました。十字架を直前にした裁判の席では、ピラトに対して、「わたしの国はこの世のものではありません。」とイエス様の言う祝福というものが、この世で測られるスケールを出ていることをはっきり宣言されました。
そして、何よりもご自身が十字架にかけられて死んでいくことを通して一番大切な使命を果たされた姿からも、イエス様が私たちにもたらす祝福が、この世の生涯の中で辻褄が合うもの、この世で成功すること、この世で称賛されること、この世でいい思いをすることではなく、むしろその正反対で、この世ではすべてを失ってもその更に向こう側により確かなものとして約束されるものであることがわかります。
「富」と「救い」の関係は、このように、イエス様においてそれまでの流れを大転換したものなのです。弟子たちは、この点においても、この時点で、まだイエス様についていくことができていません。ただ、驚き、ますます驚くばかりです。
Ⅲ 不可能と可能の関係
さて、最後の考えてみたいことは、不可能と可能の関係です。「人にはできない」ということと「神にはできる」ということが同時に成り立っても、それで終わってしまっては、人間は不可能の中に置き去りにされて救われようがありません。「神にはできる」ということが、「できない私たち」となんらかの関わりを持ち、「自分ではできないけれどもできる」ということにならなければ意味がありません。
そこで、どのような形で、どのよう意味において「神の可能」が「人の不可能」と関わりを持つのかということを掘り下げていきたいと思います。
A いくつかの類型
いくつかの類型を想像してみたいと思います。
①代表型
AさんはできないけれどもAさんの属するグループの誰かができるので、Aさんができると同じこととみなされる。例えば、野球の試合で自分は4打席4三振だったけれども、自分のチームの4他のメンバーたちが打ちまくり、試合に勝ったします。そうすると自分はBチームのピッチャーを打つことはできなかったのですが、Aチームに属する者として、BチームにあるいはBチームのピチャーに勝った、ということができるでしょう。
②代理型
Aさんはできないけれども、Aさんの代わりにできる人がやってくれる場合。これは、私の母方の祖母が亡くなったとき、祖母の弟にあたる人が挨拶の中で言ったことです。私の祖母は絵が上手で、その弟は絵が下手だった。夏休みに絵を書いてくる宿題がでると、姉さんが自分の代わりにシャシャシャーと書いてくれて秋になるとそれを学校に持って行った。すると金賞をもらって、廊下に張り出される。それが毎年続いて、とうとう自分は何個も金賞をもらってけれども絵が描けない人間になってしまいました、という笑い話です。自分は描けない、けれども姉が描ける。姉が代わりに描いて、自分は金賞、ということです。
③契約型
Aさんは自分にはできないので、お金を払ってプロにやってもらう。例えば、家を建てるのに、自分ではできない。そこで、お金を払って大工さんに建ててもらう。一般的はそれでもAさんが建てて家、という言い方をします。
B 今回の取り合わせでは=プレゼント型
それでは、神の国に入るということにおいて、「人の不可能」と「神の可能」はどこでどのようにして交わるのでしょうか。それは、今日のテキストには書かれていません。それを聖書全体の福音の光でみるとどうなるでしょうか。
もしあえて名前を付けるなら「プレゼント型」ということになります。「神にできる」ことは、ご自分が神の国に入ることではありません。それは、意味をなしません。そうではなくて、「人をして神の国に入れるようにする」ということです。
そのプロセスに大切な要素として関係してくるものが二つあります。
①信仰
一つ目は信仰です。人にはできないことを神の側ですべてやってくださった。具体的には神の独り子であるイエス・キリストが私たちと同じ肉体を取って、この地上に現れ、私たちの罪をすべてその身に負って、身代わりとして十字架ですべての呪いを飲み干してくださって、その十字架に免じて、すべての人の罪を赦し、神の子としてくださった。
その事実を信仰によって、受け取るとき、それが自分のものとなるのです。お父さん、お母さんが愛する子どものために用意した誕生日プレゼントを「これはあなたのための誕生日プレゼントだよ」と手渡すとき、その言葉を信じて、受け取るとき、それがその子のものとなるように、神が用意してくださった、救いを私たちが信仰をもって受け取るときに、それが自分のものとなるのです。
②愛
信仰と共にもう一つ重要な役割を果たすのが愛です。先週の説教で私は、「永遠のいのち」とは、「愛の問題だ」と言いました。今回、「永遠のいのち」と「神の国への入国」「救い」が同義語であるならば、「神の国へ入る」ためにも「愛」が当然重要な役割を果たすのです。金持ちが神の国に入れないのは、神の国よりも富みやお金を愛しているからなのです。人は一番愛しているものの国の住民なのです。ですから、人が神の国に入るとは、その人が神の国を何よりも一番に愛する人に変えられることです。
そして、今、富とお金を何よりも一番に愛している人が、自分の力で、あるいは自分の悟りで、富やお金よりも神の国を愛するように、愛の対象のプライオリティを変えることは不可能だというのです。しかし、神にはそれができるのです。神の愛にはそれをする力があるのです。
どのようにしてでしょうか。私たちが神様を愛する前に、私たちが神様に背を向けて、己の欲望を遂げるためにまっしぐらに突き進んでいるときに、神がまず私たちを愛してくださることによってです。愛の対象を強制的に変えさせることはできません。愛だけが愛の対象を変えることができるのです。あのイエス・キリストの十字架に現れた神の愛の現実に触れられるとき、人の心が変わるのです。何を愛するかのプライオリティが変わるのです。
愛のプライオリティにおいて2番目と3番目が入れ替わっても、大勢に影響はありません。愛のプライオリティにおいては、トップが総取りします。一番愛する者が変えられる、自分から神に、富から神に、これこそが、人にはできないが神にはできることの真っ中心ななのです。愛は、信仰を働かせるときに一瞬にして私たちの存在のすべてを駆け抜けるのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、富と救いということ。人の不可能と神の可能ということを学びました。私は私の愛の対象を自分で変えることはできません。しかし、神の愛が迫るとき、十字架の愛がわかるとき、こんな愚かなものであっても、神様を第一とする心が芽生えます。願わくはその小さな信仰から芽生える小さな愛が、日々確かなものとされていきますように。試みられ、失敗をすることを通しても、なお立ち上がり、イエス様を愛し、イエス・キリストを共に歩む生涯を全うする者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。