2025年4月20日イースター礼拝の説教動画と説教原稿をアップしました。

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□2025-04-20 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 コリント人への手紙第一15:20-26

□説教題 「滅ぼされるのは、死」

□説教者 山田誠路牧師

導入 -テキストの概要―

皆さま、イースターおめでとうございます。本日は、全世界の教会と共にイエス様のご復活を祝うイースターの朝を迎えました。今日は、いつもの「マルコの福音書を学ぶ」シリーズから離れて、パウロ書簡からイースターのメッセージを受け取りたいと思います。

まず、序論としてイースターの大切さについて簡単にお話するところから始めたいと思います。クリスマス、イースター、ペンテコストというカタカナ語で呼ばれる三つがキリスト教の三大祭り、祝祭です。その中で、我々現代の日本人にとって、最も親しみがあり、大きな意味を持っているのは、やはりクリスマスですね。

ところが、復活とペンテコステはキリスト教成立と同時に祝われ始めましたが、クリスマスが祝われ始めたのはずいぶん時間が経ってからだと言われています。はっきりしたことは言えませんが、少なくともローマ帝国内でキリスト教がある程度広まってからのことであることは確かです。

復活については、直弟子たちはいつ起きた出来事なのか、特定できたのですが、イエス様のお生まれになったクリスマスの日時は特定できなかったのです。また、意味付けとしても、キリスト教の誕生と一番直接的に結びついているのは、イエス様のお誕生ではなく、イエス様のご復活だったからです。

キリスト教は、

イエスの誕生によって始まったのではなく、

イエスの宣教開始によって始まったのでもなく、

十字架死によって始まったのでもなく、

イエス様のご復活によって始まった宗教であること。

加えて言えば、イエス様が殺されていなくなり、自分たちは逃げ隠れし、ウソをついて保身に走った絶望し切った弟子たちだけが残された状況に、復活という出来事が起きて始まったことをまず、覚えておきたいと思います。十字架が神の愛の象徴であるとするならば、復活はすべての人に向けての希望の象徴です。

さて、本日は「復活の章」と呼ばれる、パウロが書きましたコリント人への手紙第一の15章から、今年のイースターのメッセージを受け取らせていただきたいと思います。

ポイントとしては、

1. 特別な死

2. 初穂としての復活

3. 死を滅ぼした復活

この3点です。

Ⅰ. 特別な死

  1. 復活は死が前提

それでは、第一のポイント「特別な死」に入っていきます。イエス様が復活されたということは、その前提として死なれたということがあります。更に言うと、死んだということは、その前に生きていた、ということがあります。命が与えられ、生きて、死んで、はじめて復活するのです。

実は、復活ということを考える時、落としてはならない重要なポイントは、一つ手前の死にあります。復活を復活から考えはじめるとよく分からないのです。復活は一つ手前の死から考える必要があります。すなわち、イエス様が復活されたのは、イエス様の死が特別なものであったからなのです。

  • 罪のない死

それは、端的に言って、罪のない死だったのです。イエス様は、私たちの罪を身代わりに背負って十字架について、私たち一人ひとりが受けるべき罪の罰をお一人で全部受けてくださった。それを贖罪死と言います。しかし、それが成立するためには、一つの条件が果たされていなければなりません。それは、身代わりになる人には罪がない、ということです。もし、イエス様に罪があったら、十字架の上で死んだとしても、それは、自分の罪のために神に罰せられたまでのことであって、他人の罪までを負うことはできません。

イエス様の十字架上の死が、他のすべての人の死と違っていたのは、ご自分には罪が一つもなかったことです。イエス様の十字架が尊さは、実にここにあるのです。

⒊ コルベ神父を例にとると

ナチス・ドイツ時代に身代わりの死を買って出たコルベ神父の話があります。日本の長崎で宣教師として働いたこともあったコルベ神父は、ポーランドに帰国後、ナチスへの抵抗運動への支持者として逮捕され、アウシュヴィッツに送られました。ある日、一人の男が脱走しました。再発防止の「見せしめ」として、無作為に10人の囚人が選らばれ、餓死刑に処されることになりました。そのとき、選ばれた一人の囚人が、「妻と子供がいる」と叫び、絶望の涙を流しました。その時、コルベ神父が一歩前に出て、

「私はカトリックの司祭です。年も取っているし、家族もいません。どうかこの男の代わりに、私を死なせてください。」

と言ったのです。この異例な申し出でをナチス将校が受け入れ、コルベ神父は命を落としたのです。

これは誰もが心打たれる実話です。しかし、ある意味、コルベ神父も強制収容所の中でやがては他の囚人たちと命を落としていく運命にあったとも言えます。もちろん、アウシュヴィッツを生き抜いた人たちも少数ながらいるにはいましたが、ものすごくドライに言ってしまえば、死ぬ順番を早くしてあげた、とも言えなくもありません。

しかし、イエス・キリストの死は、コルベ神父の例で言うと、10人の餓死刑に処されるべき囚人をランダムに選んだ将校自らが身代わりになったようなものです。死ぬべき必然性をまったく持っていなかった側の人間が、死ぬべき人の身代わりとなったのです。

⒋ Ⅰペテロ2:22

ペテロの手紙第一2章22節にこうあります。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。」

⒌ 罪のない「生」

イエス様が十字架で亡くなられたのは33歳の時のことだった言われています。人として歩まれたこの33年間は、何のためにあったのでしょうか?「この人を見よ」という有名な讃美歌の歌詞にあるように、「貧しき憂い、生くる悩みをつぶさに舐める」為という面もあったでしょう。「友なき者の友となる」為という意味もあったでしょう。

しかし、忘れてならないのは、イエス様が私たちと同じ、貧しさや、孤独や、憂いをいっぱい抱えながら生きて、それでも罪を犯さない生涯を全うする為でした。

イスラエルの過越祭で捧げられる子羊はよく観察して傷がないことが証明されたのもでなければなりませんでした。イエス様も人となってすぐに十字架にかけられても、罪を犯すことはなかったも知れません。しかし、それでは、「調べてみて罪がなかった」ということにはならないのです。33年間、様々な誘惑に遭い、悪巧みの的とされながらも、一つの罪も犯さなかったその尊いいのちが十字架の上で捧げられたのです。ただの命ではなく、罪からご自身を守り抜いた尊いいのちをイエス様は差し出されたのです。

Ⅱ. 初穂としての復活

それでは、次に今日の大きな2つ目のポイントに移っていきたいと思います。復活そのものを見ていきたいと思います。今日のテキストでは、20節に「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とあります。この部分は、イエス様の復活を考えるときに、最も大切な部分だと個人的思っているところです。

  • 村上陽一郎の例

そう思うようになったのに、一つのきっかけがありました。それは、『私にとって復活とは』という11人の執筆者の論考を集めた本の中の、科学史家である村上陽一郎が書いていた文章がきっかけでした。村上陽一郎は、一時、大学受験の現代文で引用される著述家のトップ10に長く入っていた人ですね。そして、彼はカトリック教徒です。彼はこう書いています。

イエスの『からだの復活』に関してはトマスのように、イエスの掌の傷、脇腹の傷に指を差し込まなくとも、それを信じることはそれほど難しくない。(中略)だが、私たちの『からだの復活』となると、これを正面から素直に信じることは困難である。小さな幼子の段階で亡くなった人間、あるいは老耄の極で亡くなった人間、そうした人々が、一体どのような『からだ』で復活するのか。(中略)かつて洗礼を受ける前に抱いた疑問、恐らく誰もが抱いたであろうはずの疑問は、正直なところ受洗後も解消されたわけではなかった。(中略)しかし、少なくとも『復活』という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる。」

村上陽一郎がどのようにその疑問を乗り越えた話はなかなか複雑な要素がありますので、ここでは割愛いたします。

  • 復活は私たちと直結している

大切な点は、聖書が言う「イエス・キリストの復活」は、私たち普通の人間と直結しているということです。大谷選手が昨日ホームランを打ったかどうかは、私たちとは直接的にはつながりがありません。大谷君にファンなら嬉しいでしょう、気分がよくなって仕事もはかどるかもしれません。しかし、彼のホームラン数と私たちの給料が連動しているわけでもなく、彼の盗塁数と私たちの血圧が連動しているわけでもありません。

それと同じように、多くの人にとって、多くのクリスチャンにとっても、イエス様の甦りは自分とは直接関係のないものとなっていることを私は危惧しています。なぜなら、私がそうだったからです。

自分とは直接関係のない、スーパーヒーローが、自分にはできないすごいビッグなことをしてくれた。それは、史上初だったり、前人未到だったりして、それはすごいこと、明るいニュースとして受け止めるかも知れないけど、自分とは直接関係ない、ということもたくさんあると思います。しかし、イエス・キリストの復活は、そういうものではありません。私たちの現在と未来に直結していることなのです。

 復活は私たちの未来を変えた

まず、私たちの未来との関係についてです。イエス・キリストが死んで終わらず、三日後に死から甦ったということは、私たちも死んで終わりにならないことを意味します。それが、「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」の意味です。初穂には続く大量の収穫があるのです。

  • わたしが道であり、の意味

ヨハネの福音書14章6節に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」というイエス様の有名なことばがあります。イエス様という道を通って、父なる神様のみもとに行く、ということを考えるとき、多くの場合、イエス様を信じることによって、父なる神様と繋がりつつこの地上生涯を辿る、というようなイメージでとらえているかもしれません。そういう面もあるでしょう。

しかし、究極的には、私たちがこの今のいのちが終わって、死んだ後、終わりの日に、よみがえって父なる神の御許にみな召し集められる、それが「父のもとに行く」という言葉が差していることです。そして、それは、イエス様が初穂としてよみがえってくださったのに、続いて二番手、三番手として次々によみがえって父の御前に集められることを意味します。「わたしが道であり」は「わたしが初穂としてよみがえったから、あなたがたもそれに続く」と同じことを意味しているのです。

  • 学校の試験での例

今から約2千年前のイースターの朝に、イエス様が墓から甦られたとき、全人類の未来が変えられたのです。たとえば、学校の試験で、ある問題で✖を付けられた生徒が、納得がいかず、「これのどこが✖なのですか、説明してください」と先生に食い下がったとします。先生がよく考えてみたところ、確かにその生徒の言う通りで、その回答も✖にはできない、正解として点をあげなければいけない、となったとします。すると、食い下がったその一人の生徒の点数があがるだけではなく、先生がその判断をした瞬間、同じ回答で✖を食らっていた人全員の点数が上がることが確定するのです。一人の人が正解とされた以上、同じ回答のすべての人が正解とされるのです。21節の後半にある「死者の復活も一人の人を通して来るのです。」とはそのことなのです。

Ⅲ. 死を滅ぼした復活

 今日の最後の大きな三番目のポイントに移ります。「死を滅ぼした復活」ということです。そして、それは、先ほど申し上げました、「イエス・キリストの復活は、私たちの現在と未来に直結していることなのです。」の「現在との直結」の部分に当たります。

今日の説教題は26節の最後から取りました。「最後の敵として滅ぼされるのは、死です。」というところです。イエス様の復活は「死を滅ぼした」のだ、と言っているのです。それは、どういうことでしょうか。

  • 死は生を裏側から規定する

私たちが「生きる」ということは、「死ぬ」という裏側からその意味を規定されるという面があります。フランスのアンドレ・マルローという人の言葉に、「人間は、自分が死ぬという事実によってのみ、真に生き始める。」というのがあります。試験で言うならば、終了を知らせるチャイム、野球で言うなら9回のスリーアウト目。「そこまで」という絶対的な区切りである死が、お尻から、或いは裏から私たちの生の意味を規定します。もし、そうであるとするならば、その死の意味が変わったなら、私たちの現在の生の意味も根本的に変わってしまうのです。

⒉ 復活と死の死

礼拝の初めの方で交読しましたところは、このコリント人への手紙第一15章の後半のところです。35節から49節までご一緒に読みました。そこには、主に自然界の中の植物界のことが復活の象徴として例に取られています。

動物は精力の盛んな時に交尾をして子孫を残します。生まれてくる子孫は、小さくて未成熟ながら、生まれた時から完成形をイメージできる形で生まれてきます。そして、自分の子どもの世代が更に次の世代を設けるのを見届け、この世を去って行くくらいの代替わりのスピード感です。

しかし、植物界の場合は、命がいったん種に凝縮されます。その種が地に埋められ、種自体は根を出し、目が出て、成長していく過程で跡形もなく消えていきます。自分は死んで、自分の死を踏み台にして新しい芽が成長していきます。ここに復活の象徴を読み取ることが出来るとパウロが書いているのです。種に死が襲い掛かり、種は死に飲み込まれました。しかし、種の死から新しい命が芽として生え出で成長していきます。このようにして、植物界では、太古の昔から死は復活に飲み込まれ、死あってこその新しい命という真理を自然界が証ししているのです。

イエス様も自ら死ぬことによって死を滅ぼされたのです。死んで遺体が墓に葬られ重い石で蓋がされました。イエス様の遺体は死の力によって墓にとどめられることがなく、復活されたのです。ニワトリが殻を破って孵化するように、チョウチョがサナギから羽化するように、別のからだに着替えるのです。イエス様が真っ先に着替え終わられたのです。死は、卵の殻のように、サナギの背中のように、いのちに破られたのです。

⒊ 死が終わりでなくなったら

そして、もし、死が終わりでなくなったならどうでしょうか。昔、東横線は桜木町が終点でした。桜木町まで乗って来た人は、それ以上線路がありませんからそこで降りるしかありませんでした。しかし、みなとみらい線と繋がって、桜木町駅は少し移転して「みなとみらい」と駅名が変わり、終着駅ではなくなりました。次の駅に続く一つの中継地点に変わったのです。

「死」もイエス様の復活によって、終着駅、ターミナル・ステーションではなくなりました。私たちの現在の生は、

・死なないように生きるのでもなく、

・死ぬまで生きるのでもなく、

・死んだつもりで頑張るのでもなく、

・死んだ気になれば頑張れるのでもなく、

死んだ先に繋がる永遠のいのちを、今から生き始める生に変えられるのです。

その死の意味が変えられた、いのちの一番の本質は、十字架の血によって買い取られ、自分自身がもはや自分のものではなく、主のものとなって生きるということです。

今年のイースターに、このような祝福が私たちのものとして神様から与えられていることを知らせていただきましょう。無代価で提供されているこの素晴らしい恵みを、謙って、信仰をもって受ける者となりましょう。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、今年のイースター、復活節の礼拝を共に守らせていただきました。イエス様の死が、罪のない命を捧げれられた特別の死であったこと。イエス様の復活は、終わりの日に、私たちも甦る初穂としての復活であったこと。イエス様の復活は、死の意味を変え、私たちの現在の生の意味を変えてしまったことを学びました。私たちが生きている現実の世界は、罪の世界です。すべての人の心には自己中心の罪が巣くい、弱肉強食がこの世の掟であり、悪がまかり通り、多くの人々が声を上げたくても上げられない不条理の中に生きています。しかし、そのすべての枠組みを作っている死がすでに滅ぼされているのだということを今日、聖書から学びました。生きている以上、必ずいつかは死にます。しかし、死までの視界を持って生きる生き方からどうぞ、私たちを解放し、死によって終着点とならない、永遠のいのちを、主と共に、今日から、今あるところから信仰によって歩み出す者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。