□2025-02-02 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マタイの福音書16:13-23
□説教題 教会総会礼拝「この岩の上に、わたしの教会を」
導入
A. 本日のテーマ
本日は、昨年の4月に正式にスタートした私たちの喜多見チャペルとして初めての教会総会を控えての礼拝です。いつもの「マルコの福音書を学ぶ」シリーズから離れて、「教会」というものを考えるときに多くの重要な示唆を与えてくれる聖書箇所からご一緒に学んでいきたいと思います。
B. 本日のポイント
今日はここから大きく二つのことを学んで行きたいと思います。
Ⅰ. この岩の上に
Ⅱ. わたしの教会を
この2点でお話していきます。
Ⅰ. この岩の上に
マタイの16章18節は、教会というものを考える時に、最も重要な聖書の箇所の一つだと言えます。イエス様がここで、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」とおっしゃったときの、「この岩」とはいったい何なのかについては、これまで様々な議論がなされてきました。3つほど簡単に紹介します。
①この岩=ペテロ
一つ目は、「この岩」とは、ペテロ個人を指す、とするものです。カトリック教会はこの立場に立ち、この場面を根拠に、ここでペテロが教会の礎としてイエス様から直接任命された。ペテロはローマ教皇の初代で、それ以来、キリストからペテロに渡された教会の長としての権威は、連綿と代々のローマ教皇によって引き継がれ、現在の第266代のフランシスコ法王にまで至っているという考えです。
②この岩=信仰告白
二つ目は、決して個人としてのペテロではなく、むしろ、弟子たちを代表してペテロがなした信仰告白こそが「この岩」であるとする考え方。16節の「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰を告白すること、これこそが教会の土台だとする考え方です。
③この岩=キリストとキリストの教え
これは、同じ16節のペテロがなした信仰告白について、ペテロが、あるいは人間がそれを「告白する」ことに重きを置くのではなく、告白されている「事実」に土台がある、との考え方です。
プロテスタントの本流は、ルター以来、この②を採用し、信仰告白を重視してきたという伝統があります。しかし、本日、私は、基本的には③の立場からお話していこうと思います。
A. 「あなたはペテロ」
①直前の「あなたはペテロ」とのつながり
この箇所を普通に読み、自然に解釈しようとするならば、直前の「あなたはペテロです。」というイエス様の発言との関連を考える必要があります。一番弟子ペテロは、本名はシモンと言います。そして「シモン」は当時、とてもありふれた名前でした。そのシモンに岩を意味するペテロというニックネームをイエス様がお付けになったのは、ヨハネの福音書を見ると、出会ったその時でした。
ですから、イエス様も、他の弟子たちももうずいぶん長い間、彼のことをシモンではなくペテロと呼ぶことに慣れていたのだと思われます。イエス様は、16節の信仰告白を聞かれたとき、思わず、「あなたはペテロ」と言われました。そしてそれに続けて「わたしはこの岩の上に」とイエス様はおっしゃいました。ペテロと岩は同じ言葉ですから、そこには直接的な結びつきがあることは確かです。
②その後のペテロを考えると
しかし、他のだれかではなく、ペテロというような人物としてのペテロにイエス様が着目されたと解釈することは他の聖書の記述を考慮するとなじまなくなってきます。今日、先ほどお読みしたところの最後の方、22節と23節では、ご自分がエルサレムで殺されることになる、ということを口にされたイエス様をペテロは、脇にお連れして「とんでもないことを!」といさめました。イエス様は、そのペテロに間髪入れずに、大胆にも「下がれ、サタン。」とサタン呼ばわりされました。また、ガラテヤ書を見ると、後輩のパウロから優柔不断な態度のゆえに、間違いを指摘され叱責されたという記事もあります。
ペテロは、初代教会の中で余人をもって代えがたい大きな働きをしたことは確かです、しかし、決して、完璧だったわけではなく、ペテロだけが特別に信頼されるべき何かを持っていたわけでもありませんでした。むしろ誰よりも多くの失敗をしたのがペテロという人物の特徴でした。そして、更に言えば、誰よりも多くの失敗をしたからこそ、大いに用いられる人物となったのです。しかし、やはり、そのペテロ個人を「この岩の上に」の岩と直接結びつけるのには無理があると思われます。
B. 「そこで、わたしもあなたに言います。」
① 「わたしも」
さて、ここにもう一つ注目したいことばがあります。それは、今、問題にしてきた「あなたはペテロです。」の直前にある言葉です。「そこで、わたしもあなたがたに言います。」というところです。個人的に、今回の準備をしていて、初めて気になった小さな言葉がありました。それは、イエス様がおっしゃった「わたしも」の「も」です。「わたしも言います」ということは、イエス様の前に誰かが何かを言ったということを受けてのことです。それは、一つ前に17節の真ん中あたりからの「このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」のところに書かれています。イエス様が語る前にペテロに語ったのは、天の父なる神様でした。何を語られたのでしょうか。それは、今日の聖書箇所の初めに出てくる「わたしを誰だと言いますか?!」という問いに対する「あなたは生ける神の子キリストです」という答えをです。
② イエス様の興奮
福音書を丹念に読んでいくと、時々、私たちの心があまり激しないところで、イエス様だけ興奮したり、心が騒いだり、悲しんだり、涙を流したりされる場面に出くわします。このところもその一つです。
イエス様はペテロがした信仰告白を聞かれて興奮されたのです。それでは何に興奮されたのでしょうか。あの理解の鈍い、いつでも勇足や、いらないことや、見当はずれなことばかりしているペテロが、わたしの真の姿をとうとうわかってくれた、ということも、イエス様の感動の要素の周辺には少しはあったでしょう。しかし、それが中心ではありませんでした。イエス様の感動の中心は、父なる神がそのことをペテロに啓示された、という事実でした。
③ 告白にまさるもの
人間の告白は、どんなに尊いものであったとしても、弱いものです。ぐらつくものです。時にはぬかるむものです。しかし、ここに告白にまさるものがあります。それは、二つの事実です。一つは、イエス様が「生ける神の御子キリストである」という事実です。この事実は、ペテロが告白する前から、ペテロが告白できるかできないかと無関係に存在している事実です。二つ目は、そのことをペテロは告白できるまでに、父なる神様がペテロに教えてくださった、という事実です。このことに触れて、このことを実感して、イエス様は興奮されたのです。そして、父がそのことをあなたにお示しになったのなら、「わたしも言おう。」
そういえばあなたの名前はペテロ=岩じゃないか。ちょうどいい。いいか、何を建て上げるにも一番大切なのは土台だ。私が建てようとする教会の土台、岩は、これなんだ。と仰ったのです。すなわち、イエス様が「この岩」と仰ったのは、「イエスは生ける神の御子キリスト」であるということと、そのことを父なる神が人間に教えてくださったという二つの事実です。そう取るのが、一番、聖書全体として筋が通っていることだと思います。
Ⅱ. わたしの教会
さて、次に「わたしの教会」という部分に進んでいきたいと思います。
A. 「教会」ということばの意味
①日本語でのイメージ
まず、「教会」という言葉について考えたいと思います。私たち日本人が、日本語で「教会」という言葉を聞いて思い描くイメージはだいたい共通しているのではないでしょうか。十字架が屋根についた中にベンチが並んでいて、オルガンが響いている建物。しかし、もともと聖書の中では「教会」ということばがどのようなものなのかを簡単に見ていきたいと思います。
②ギリシャ語での意味
「教会」はギリシャ語ではエクレシアといいます。意味は、「召し出された者たちの集い」というような意味だと言われております。日本語聖書で「教会」という訳語は、新約聖書に112回ほど出てきますが、旧約聖書には一度も使われておりません。しかしながら、この言葉のルーツは、旧約聖書にあります。たとえば、出エジプト記12章6節に「イスラエルの会衆の集会全体」と表現の「集会」という言葉、また、申命記9章10節に「あの集まりの日に」という表現の「集まり」という言葉をギリシャ語訳したときに用いたのがエクレシアという言葉です。
旧約聖書、新約聖書を通じてこのエクレシアは、ただの一回も建物を示して使われたことはありません。例外なく、人々の集まり、集いを意味する言葉です。
③漢語での意味
日本語の「教会」という言葉は、17世紀以来の漢訳聖書、すなわち中国語訳聖書の訳語を引き継いでいます。「教える」の「教」という字は、中国に前からあった仏教や儒教などの既成宗教を表すことばとして使われていました。ですから、中国語では、「教会」という二文字は、「きちんとした宗教の集まり」といった意味を持たすためのネーミングです。
日本では、「教会」というと「教える」という縦関係と、建物という二つがどうしても結びついたイメージになってしまうと思いますが、本来、聖書での使われ方はそれとはまったくと言っていいほど異なっています。エクレシアの本質は、「神に呼び出された者たちの集い」なのです。
B. 「教会」とはどんな集い?
先ほど申しましたように、新約聖書では「教会」という言葉は112回も使われていて、いろいろな物に例えられています。家に例えたり、建物に例えたり、体に例えたりされています。言ってみればいろいろな角度から多角的に描写されているわけです。どの言い方も、一つで全体を表すことはできません。そこで今日は、教会とはどんな集まりであるかについて、二つの面に絞ってこれからお話していきたいと思います。
①神がご自分の血をもって買い取られた神の教会
一つ目は、使徒の働き20章28節にある「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」ということです。私たちは、教会という集まりを普通、人間サイドから考えることがほとんどではないでしょうか。カトリックとプロテスタントとどう違うのか、とか。バプテストとメソジストとどう違うのか、とか。日本基督教団と他教団ではどう違うのか、とか。靴のまま入るのと、スリッパに履き替えるのとどちらがいいか、とか。しかし、教会を神様の側からの視点で表すと、「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」ということになるのです。神の側から見ると、教会は、教団名でも、教派名でも、教会名でも、土足かスリッパかでも分かれていないと思います。ちょうど国境のようなものでしょうかね。私たちは普段、国境が引かれた世界地図や地球儀を見慣れていますが、空から見れば、どこにも国境は見えません。それは、人間が便宜上引いているに過ぎない境目です。教会も、神様の目から見ると、私たちが思っているのもとはだいぶ違うように映っているのではないかと思うのです。
教会について、神様の側から唯一大切なことは、ご自分の血をもって買い取られた集まりだということです。このごろあまり聞かなくなったような気もしますが、昔よくドラマとかに出て来たセリフで「この子は私がお腹を痛めて産んだ子ですから」というのがありました。母親にとって実の子と言うのは、自分のお腹の中に10ヶ月いて、出産に伴う自分の命の危険と引き換えに産み落とした、という存在です。その子が、何ができるとか、かわいいとか、大きいとか、よく食べるとか、そんなことで実の子と繋がっているのではありません。自分のお腹を痛め、自分の命の危険と引き換えに産み落としたということが、その子とのつながりのすべてなのです。
神様の目から見た時、私たち一人一人はそのように映っているのです。また、神様の目には、教会が十把ひとからげに映っていることはありません。私たち一人一人を、お腹を痛めて産み落としたという以上に、ご自身の血を十字架の上で流して、ご自分のものとしてくださったのです。教会はそのことを一番大切なアイデンティティとする人たちの集まりなのです。
②地上で神の国の前味わい(この世とは別の力が支配しているところ)
二つ目に、教会は、やがてあらゆる面でフルに実現する御国の前味わいなのです。ルカの福音書17章21節に「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」というイエス様のお言葉が記さています。この「あなたがたのただ中に」というのは、私たちの「心の内に」という意味ではなくて、「私たちの交わりの中に」という意味です。そうだとすると、「神の国」と「教会」は非常に近い存在だということがわかります。教会とは、イエス・キリストの血によって買い取られた人々の集いです。そしてその集いの中には、神の国がもうある、というのです。
そして、神の国が実現している教会の交わりとは、この世では見られない力によって治められているところなのです。そこで適用されている法則は、神の意外性による統治ということです。それを一言で言うと、イエス様が福音書の中で度々口にされた「後の者が先になり、先の者が後になる」という原則です。
私たちの社会は、偏差値や収入でランク付けられ、コスパとタイパがすべての尺度となり、効率主義、成果主義の競争社会、そして、他人の過ちを許さない非寛容な社会です。イエス・キリストの教会は、そのような現実社会にあって、そこだけは別の法則で動く集まりなのです。
一人一人が自分の罪の負い目に破産宣告をし、イエス・キリストの無尽蔵の愛という公的資金が注入されて救い出された者たちの集まりなのです。自分には誇るところが何一つなく、誇れるものは、ただ一つ、私のような者にさえ及んだ神様の憐みだ、と言う人の集まりです。そして、その自覚こそが私たちの喜びなのです。この世の基準で、何かを成し遂げた、努力が報いられたときに感じる喜びを遥かに凌駕する喜びです。その喜びをお互いに味わい合うために集うところ、それが教会です。
この喜多見チャペルはそのような教会、集まりとして、神様によってこの一年、立て挙げられていくことを心から願います。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、私たち喜多見チャペルに取りまして記念すべき第一回教会総会を控えての礼拝でした。教会がよって立つ土台について、そして、教会とはどういう集まりであるか、ということについて学ばせていただきました。どうぞ、私たちの教会が、この世にあって、この世にはない、神の国の実現である集まりとなり得ますように、お導きください。この世の基準に照らした成功や、拡大・発展を求める尺度を捨てて、神様の尊い血潮によって買い取られた者たちである、というこのただ一つの自覚に生き続ける者たちとしてください。それによって、神様の栄光が現わされる教会としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。