□2024-05-05 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所:マルコの福音書1:12-13
□説教題:「イエスを荒野に」
今回は「マルコの福音書を学ぶ」の第3回目で、今読まれました1章の12節と13節から「イエスを荒野に」という題でご一緒に学んでいきたいと思います。
今日のポイントは
Ⅰ. この箇所の構造
Ⅱ. 問答がない
Ⅲ. イエスの生涯こそがことば
この3つです。最後まで、ご視聴いただければ嬉しいです。
Ⅰ. この箇所の構造
早速、最初のポイントの「この箇所の構造」に入って行きます。
1. 受洗に直結
①すぐに
前回のところでイエス様は、わざわざガリラヤのナザレから出て来られ、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。ヨルダン川の川底にイエス様のメシアとしての生涯のスタートラインが引かれていたのだ、というお話をいたしました。今日の所は、その直後の出来事として書かれている記事です。12節に「それからすぐに」の「すぐに」はマルコが好んで使う言葉です。
②御霊が追いやられた
受洗後のイエス様を待ち受けていたのは、ヒーロー・インタビューでもなく、記者会見でもありませんでした。イエス様を待ち受けていたのは、荒野での試みでした。そして、注目すべきことに、この試みは、イエス様の油断や、隙(すき)が原因したものでもなく、また、不意打ちをくらった、ということでもありませんでした。そうではなく、なんと御霊がイエスを荒野に追いやれたと書いてあります。
③受洗と宣教の間
そして、この荒野での試みは、ヨルダン川での受洗と15節に出てくるガリラヤでの宣教の開始という二つの出来事に挟まれた形となっています。別の言い方をすれば、「あなたはわたしの愛する子」という父なる神様からの承認の声と、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様の宣教第一声との間に挟まれたところに位置しています。
2. 荒野
①位置の特定はできない、意味がない
さて、次に荒野という場所について少し考えてみたいと思います。荒野ということばが使われるのは、マルコの福音書ではすでにここで3回目となります。一つ目が3節のイザヤ書からの引用。二つ目がバプテスマのヨハネの活動場所として、4節に出てきています。マタイの福音書では、バプテスマのヨハネの活動場所としては、ただの荒野ではなく、「ユダヤの荒野」と言っています。それでだいぶ特定できるでしょうが、学者たちも完全にどこと特定することはできないと言っています。聖書はここでの荒野についての詳しい地理的な情報には意味を持たせていないようです。
②荒野の意味と例
ですから少し一般化して荒野を考えることが許されます。聖書に出てくる荒野は、人が作られるところ、という共通要素があります。旧約聖書では、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民たちは40年間、荒野をさまよいました。申命記には荒野を回顧する言葉は度々出てきますが、二つ紹介したいと思います。
一つ目は、申命記8章の2節です。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」
二つ目は、29章5節です。「私は四十年の間、荒野であなたがたを導いたが、あなたがたが身に着けている上着はすり切れず、その履き物もすり切れなかった。」
この二つから言えることは、荒野は、過酷な条件の中を通過することを強いることによって、しかも短い期間ではなく、徹底した長い期間そこを通ることによって、人間の内にあるものをあらわにするためのところだということです。すべての余裕がはぎ取られて、ありのままの自分、隠し立てが一切通用しない丸裸の自分を、自分自身が突き付けられるところです。また同時に、自分のうちに誇れるものが何一つない自分を支え導く神様の恵みがあることがはっきりとするところです。
新約聖書では、使徒パウロが、ダマスコ途上でまばゆいばかりの天からの光に打たれ、目が見えなくなり、手を引かれて入って行ったダマスコの町で回心を経験します。その後、ガラテヤ書によりますと、パウロは一人でアラビアの荒野に出て行ったとあります。エルサレムに上って、使徒たちや他の有力者にあったりする前に、一人で荒野に出て行ったのです。
それは、他の人間が一切入ってこない、神様と自分とが一対一になるところ、という意味があったでしょう。
③40日という期間
そして、これは荒野という場所とは直接関係がありませんが、40日間というイエス様が荒野にいらっしゃった期間、試みを受けられた期間について簡単に触れておきたいと思います。ご存じの方も多いと思いますが、聖書は40という数字が好きです。
・ノアの洪水で大雨が降り続いた日数が40日、
・モーセがミディアンで失意の日々を送ったのが40年、
・モーセが律法を授かったときシナイ山にいた日数が40日40夜、
・カデシュ・バルネアから約束の地カナンの様子を偵察にいった日数が40日、
・イスラエルの民が荒野を彷徨したのが40年、
・預言者エリヤが神の山ホレブに向かって歩いて行った日数が40日、などです。
それは、何かが徹底的になされる期間を意味しています。イエス様の荒野試みも40日間に及んだということは、サタンとイエス様との闘いが、一瞬のつばぜり合いのようなものではなく、また、一通りのお手合わせのようなものではなく、サタンからイエス様へのありとあらゆる本面からの一切手抜きのない試みが徹底的になされた、と理解すべきだと思います。
3. 登場者たち
①登場者の5者
次に、12節と13節のこの短いたった2節で表現されているマルコが記す荒野での試みの記事の登場者たちを整理してみたいと思います。①御霊、②イエス、③サタン、④野の獣、⑤御使いたち、この5者です。特徴は、イエス以外の人が登場してこないところです。バプテスマのヨハネもここでは関係ありません。ペテロもヨハネもまだ弟子もいません。マリヤもヨセフもパリサイ人、サドカイ人、ヘロデもピラトも出てきません。群衆も出てきません。人はイエス様だけです。そこにサタンが挑んできます。サタンという存在は、その本質は訴える者、という意味です。人を神の前に訴える存在です。しかし、ここで注目すべきことが一つあります。それは、そもそもこの試みは御霊がイエス様を追いやって、荒野に連れてきたというところから始まっているということです。この試みの主導権は、サタンが持っているのではなく、御霊が握っているのです。ですから、サタンが訴えるということも、あくまで、御霊の主導権のもとに許される範囲でそれが行われているということです。
②イチローの例
イチローは自分があまりも強肩なので、無駄なく捕球位置に向かってしまうと、3塁コーチが3塁ランナーにタッチアップの指示を出さないので、ボールを取りに行くスタートをわざと遅らせる、ということをしていたそうです。そうすると、相手チームの3塁コーチが、「あ、イチローがもたついている、これはチャンスだ、行けー!と手を回わす。しかし、それは、イチローの計算通りで、後は走ってくれた3塁ランナーをレーザービームで本塁で刺すだけ」ということになるのです。
荒野でサタンがイエス様に挑んだ試みは最初から勝負がついているやらせではありません。真剣勝負です。しかし、それは、受けて立つ側の主導権のもとにあての真剣勝負だったのです。
③私たちの生涯でも同じ
そして、そのことは、私たちの生涯における試みについてもまったく同じことが言えます。私たちがまったく理解できないほどの試みに会うとき、私たちは神様の支配を疑いたくなります。神様がおられるなら、どうしてこんなことが起こるの。神様が見ていてくださるなら、こんなことが起こるはずがない。神様が責任を持って守っていてくださるなら、こんなことがゆるされるはずがない。そう私たちはみな思いたくなります。しかし、私たちの身に起こるあらゆる試練は、神様の手に余って起こることは一つもありません。神様がサタンに、させまい、させまい、と防いでくださっているのに、そのディフェンスをかいくぐったシュートが決まって、私たちに突き刺さってくるのではありません。神様の許しの中でのみ、起こるのです。
④野の獣
次に13節のちょうど真ん中あたりに出てくる「野の獣」について少し考えてみたいと思います。注解者の中には、野の獣を神不在の荒野に結びついた存在として、「イエス様と御使いの連合」VS「サタンと野の獣連合」という、2対2という枠組みで理解する方もおられるようです。しかし、私は、「イエスは野の獣とともにおられ」という表現、これは原語でもそのようになっていますが、これは、野の獣がイエス様に対して敵対し、牙をむくような存在として描かれているのではないと思います。
マルコの福音書では、「イエスは神の子である」ということを、冒頭のタイトルと、最後近くの、十字架でイエス様が息を引き取った場面での百人隊長が言葉に示されますが、弟子たちは一貫して、そのことを悟ることができない姿で描かれていきます。それと好対照に、悪霊や異邦人たちが、イエス様の本質を一早く捉えていくという描き方がされています。この荒野の試みの場面で、イエス様が野の獣とともにおられた、というのは、この後1章23節に出てくる悪霊にも先立って、野の獣がイエス様を神の子として認めた、というメッセージではないかと考えます。
Ⅱ. 問答がない
1. 他の福音書との比較
①マタイ、ルカとの比較
次に大きな二つ目のポイントに進んでいきたいと思います。二つ目は、マルコの福音書の荒野の試みの記事には、イエス様とサタンとの間に繰り広げられた問答がまったく書かれていないということです。この荒野の試みの記事は、マタイにもルカにも記されています。そして、マタイとルカには、サタンがどんな誘惑を仕掛けてきたのか、それに対してイエス様がどのように切り返されたのかが詳しく書かれています。全部で3回、イエス様とサタンは、対戦しますが、ここでは、マタイに依拠して、一つ目の試みについてだけ触れておきたいと思います。
②第1回戦
第一回戦は、サタンがイエス様に、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」と言ってきます。マタイの状況設定では、この時点でイエス様は40日40夜断食をした直後だったので、強烈に空腹だったのです。それに対してイエス様は、「『人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」とその誘惑を突っぱねました。このイエス様のお答えはとても有名です。深遠な内容を、簡潔にしかも、コントラストを効かせて鮮やかに言い当てています。
マルコは、こんなにキラッキラの有名なお言葉をどうして載せなかったのでしょうか。マルコの情報ソースからこぼれ落ちていたのでしょうか。マルコは、このような金言のようなイエス様の言葉を書き落とすなんて、福音書記者としては、マタイやルカには劣っているのでしょうか。
2. マルコは劣っているのか
①マルコにない他のもの
そういえば、マルコには山上の説教もないし、放蕩息子の話も、善きサマリヤ人の話もないし、100匹の羊の話も、10人のおとめの話もない。ほかの福音書にある感動的な話は一つも載せてないように思えます。
②マルコは二流なのか?
やっぱり、マルコは二流なんでしょうか。
私はそうは思わないのです。マルコに、イエス様のサタンとの間に交わされた問答が書かれていないのは、単純に、マルコはこれらの言葉を自分の福音書には含めない、という判断をしたのだ、ということではないでしょうか。もう少し踏み込んで言うと、神の子イエス・キリストの福音を、自分がしたためているこのマルコの福音書という書物で表現するならば、荒野の試みでの問答は載せない方がよく伝わる、という考えを持っていたからではないかと思います。次の第三のポイントでそのことをもう少し、詳しく見ていきたいと思います。
Ⅲ. イエスの生涯こそがことば
1. マルコが描くイエスの生涯
①“奇跡のわざ”と“教え”が両輪
マルコの福音書は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という書き出しで始まっています。誕生も幼少期のエピソードもなく、ひたすら神と人とに仕える姿を描いていきます。マルコの福音書に記されるイエス様の姿は病の癒しや悪霊追放を中心とする奇跡の業と教えです。これがイエス様の公生涯の両輪です。
②「権威」が貫く言葉
この二つを貫く一つの特徴があります。それは、「権威」という言葉です。少し先取りしてしまいますが、1章の23節をご覧ください。こういうお言葉があります。「人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」続いて27節。「人々はみな驚いて、互いに論じ合った。『これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。』」
ここに、イエス様の教えに対しても、汚れた霊を追い出された業に対しても、人々が持った印象は、イエス様が持っておられた神の子の権威だったことがわかります。
③「権威ある姿」を描くのが目的ではない
しかし、マルコが書きたかった「神の子イエス・キリストの福音」とは、イエス様が神の子としての権威を持っておられた、ということではありませんでした。マルコの福音書を読み進んでいきますと、宣教開始と共にイエスの周りに群衆が集まってくるようになり、破竹の勢いでフォロワーが増えていきます。
④生涯の目的地は十字架
しかし、その権威を帯びた、群衆に圧倒的支持をえているイエス様が進んで行かれた目的地は、総督ピラトが座っている椅子でもなく、また、校庭ティベリウスが座っている王座でもありませんでした。それは、自分の手を足が釘付けられる十字架の二枚の板の上でした。
2. イエスの生涯と人々の思い
①民衆・群衆の期待とすれ違う
人々は、というとイエス様の内に見出した権威のゆえに、もうすぐ、この方が王になり、ローマ帝国の圧政から自分たちを解放してくれるに違いないという期待を寄せていました。途中からイエス様がどうも自分たちがイメージしているメシアから外れてきているということがわかるようになっていきました。そして、あれだけ自分以外の人のためには不思議な業をなしてきたイエス様がご自分のためにはそれを一つも使わずに、簡単にとらえられ、あっけなく十字架に付けられて殺されてしまいました。そしてイエス様の十字架死に触れたとき、人々は、イエスという存在についてまったくわからなくなりました。
②弟子たちも混乱
それは、民衆、群衆だけではなく、イエス様の身近に仕えていた直弟子たちでさえ同じでした。あの人はいったい何だったんだろうか。自分たちが一時抱いたあの方への期待、高揚感はいったいなんだったんだろうか。
③最後に爆弾ニュースが!
その時、その混乱さえも吹っ飛ぶほどのニュースが彼らのところに届けられます。イエス様のお墓が空っぽだー!と。
3. マルコの福音書の末尾問題
①原典はどこで終わっているのか?
マルコの福音書には末尾問題というものがありまして、正式なマルコの福音書の原典はどこで終わっていたのか、ということに関する議論です。
②16章8節で終わり
皆さんの聖書をご覧になると、いろいろな訳ごとに多少表記の仕方が違っていますが、9節以降は一応訳されていますが、多くの写本は8節で終わっていることが脚注などに書かれています。オリジナルのマルコは16章8節で終わっていたとほとんどの学者が考えています。
③意表をつく強引なエンディング
最後の節は、「彼女たちは墓から出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これで終わりです。
お芝居の演出効果として、観客の意表を突く形でのいきなりのエンディングというものもありますが、このマルコの終わり方はあまりではないでしょうか。人類史上はじめて書かれた福音書の最後が、気が動転していた。恐ろしかった。で終わっているのです。十字架に付けられてなくなったというところまで、ストーリーを追ってきた読者が、お墓が空だ、という展開に接して、これで大どんでん返しを辿ってフィニッシュするのかと一瞬思った、その瞬間に終わるという強烈な幕引きです。マルコには、マタイやルカやヨハネのように、復活後のイエス様が弟子に現れて何かを話されたり、一緒に食事をされたりという場面は一切出てきません。気が動転して、恐ろしかったのである、でバッサリ終わりです。
4. マルコが描きたかった福音
①イエスの生涯こそが“福音のことば”
そして、これこそがマルコが描きたかった神の子イエス・キリストの福音なのです。イエスの生涯こそが、福音の言葉なのです。
②人の思いを遥かに超えた“ことば”
すべての人の思いをはるかに超え、人の心に浮かんだこともない、神がとてつもないことを御子イエス・キリストの身の上になされた、その生涯そのものが一つの大きな福音のことばなのです。そういう風に考えると、「人はパンのみに生くるにあらず……」も小さく思えてくるのです。何かの真理をきれいに言い当てることも普通のことに思えてくるのです。
③魂を揺さぶる“ことば”
イエス様の生涯こそが、度肝を抜かれることば、力を持ったことば、人の魂を根底から揺さぶる言葉なのです。私たちは、このイエス様に出会いたいと思います。
一言お祈りいたします。
天の父なる神様、今日は、あなたがヨルダン川で洗礼を受けられた後、そしてガリラヤで宣教を開始される間に挟まれた荒野での試みのところを学びました。人の口から発せられる心のこもった言葉、考え抜かれたことば、配慮にとんだことばも確かに、人の心に届きます。しかし、そのすべてを越えて力強い言葉、福音そのものとなられたイエス様の御生涯をこれからよく理解することができるように、愚かな私たちの心の目を開いてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。
