皆さん、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。喜多見UpperRoomチャンネルの時間です。今回は「主の祈りを学ぶ」の第5回目をお届けいたします。
これまで4回を費やして、祈りはじめ、祈りを捧げる相手である神様への呼びかけの部分「天にまします我らの父よ」までを学んできました。今回から、いよいよ祈りの本体に入って行きます。今回は、「御名をあがめさせ給え」の部分ですが、ここを更に細かく分けて学んでいきたいと思っています。「御名をあがめさせ給え」の「御名」について3回かけて学んでいこうと計画しています。ということで、今回は「御名」のパート①-御名、神の栄光と私たち-です。
本日のポイントは、
Ⅰ. 主の祈りの本体の構成
Ⅱ. 御名について
Ⅲ. 神の栄光と私たち
Ⅰ. 主の祈りの本体の構成
1. 6つの願い
「天にまします我らの父よ」という印象的な出だしで始まる主の祈りは、この短い神様への呼びかけの後、すぐに祈りの本体に入って行きます。日本語では、「願わくは」と続きます。「願わくは」も文語で、普段使わない言い回しですから、余計に印象深く残ります。「願うことは」というのが現代日本語訳になります。古文にク語法というのがあります。用言の語尾にクをつけて「~すること」という意味を表します。主の祈りに出てくる「願わく」のほかに「曰く」「恐らく」「望むらく」「すべからく」「体たらく」なども同種の表現で「すること」というのが元々の意味だそうです。
日本語の主の祈りにはこの後「なになにし給へ」が6回出てきます。「願わくは」はこの6個の「給へ」で終わる願い事を「願うことは以下のことでございます」という感じにひとまとめにする役割を果たしているように感じます。しかし、これは、日本語に翻訳する際の工夫の一つとして出てきたもので、原文にも英語にも、特に6つの願い事をまとめるような言葉はありません。
ということで「願わくは」の部分を終えて、次に入って行きたいと思います。
①御名をあがめさせ給へ
②御国をきたらせ給へ
③御心の天になるごとく地にもなさせ給へ
④我らの日用の糧を与え今日も給へ
⑤我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦し給へ
⑥我らを試みにあわせず悪より救いだし給へ
と、先ほども申し上げたように、「給へ」で終わる願い事が6つ続きます。
最後に「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という頌栄的な締めくくりが付き、最後にアーメンで締められます。
本日の第一のポイントとしてこの6つの願い事の全体の構成について簡単に触れておきたいと思います。
2. 前半と後半
まず、この主の祈りを唱えておられる方々のほとんどが気づいておられることですが、前半の3つと後半の3つに分けられます。前半に神様についてのこと。後半は私たちについてのこと。反復される言葉について申し上げる前に、もう一つ日本語訳の特殊事情について説明しておきたいことがあります。
それは、前半三つの願いごとので初めに繰り返される「み」という言葉です。「御名」「御国」「御心」の「み」です。漢字で書くと現代では「尊敬」を表す「オン」とか「ゴ」とか「ギョ」と読み字を一字書いて「み」と読んでいます。
しかし、実はこの言葉は、原語のギリシャ語でも、英語での「あなたの」「your」ということばです。「あなたとは」もちろん冒頭で「天にまします我らの父よ」と呼びかけた神様のことです。
英語では、単純にyour name,Your kingdom, your willとyourが3回連続出てきます。ヘボンが主の祈りを日本語訳するとき、このyourをどう訳すかに非常に神経を使いました。単純に考えると、聖書の他の箇所に無数に出てくる「神様の」を意味する、現代語の「あなたの」は、当時の明治のことばでは「なんじの」となります。
他の宣教師で主の祈りを「なんじ」を使って日本語訳した人もいました。しかし、ヘボンはどうしても主の祈りの訳語として「なんじも名」「なんじの国」「なんじの心」とすることに賛成できなかったのです。
主の祈りは毎日唱えるので、重さやリズムを考えると「なんじの」はしっくりこなかったのです。それで、漢字としては、聖書の「聖」の字を当て、読みは尊敬の「オン、ゴ、ギョ」のあの字の読み方の「ミ」を採用する。目で文字を見ると、「聖」の字から神様を意識し、しかし、口にする時には「ミ」という口調のよい音にした、ということです。「みな」「みくに」「みこころ」は140年以上前のヘボンの格闘の結晶なのです。それを私たちは今も、そのまま唱えているのです。
話を願い事の全体の構成に戻します。前半に繰り返されることばは、日本語では「み」、ですけれども原語や英語では「your」「あなたの」です。それに対して後半の願い事で繰り返されるのは、「我ら」です。前半は神様のこと、後半は私たちのこと、と先ほど申し上げましたが、同じことを前半は「あなたの」、後半は「我らの」という願い事にきれいに分かれているのです。
これもよく指摘されることですが、この区分は旧約聖書でモーセがシナイ山で神様から授かった十戒の構成と同じです。十戒もやはり前半の第一戒、「わたしをおいてほかに神があってはならない。」から始まって、第4戒の「安息日を覚えてこれを聖とせよ」までの前半4つが神様と人間の間の戒め。第5戒の「父母を敬え」から最後の第10戒の「むさぼってはならない」までが人間同士の関係における戒め。というようにきれいに前半、後半で大きく区切りがあります。
3. 後半3つの理解
更に、後半の3つの願い事については、現在、過去、未来という三つの時制とリンクしていると解釈もあります。すなわち、
・日ごとの糧というのは、今日、現在のことについての願い
・我らの罪というのは、過去に犯した罪、過去のこと
・試練から守ってください、というのは、これからのこと未来のこと
というように理解することもできます。そうるすと、とても気持ちよく心に収まるかもしれません。
また、
・日ごとの糧は、創造主、すなわち父なる神について考え、
・罪の赦しについては、贖い主である御子イエス・キリストについて考え、
・試練から守られるようにというのは、助け主、導き手である聖霊について考える
祈りだ、という人もいます。後半の三つの願い事を、父、御子、御霊の三位一体の神とリンクさせるという理解の仕方です。これもそれなりに説得力があるように思われます。
それに対して、前半の神様についての3つの願いごとをほかの3つという概念とうまく抱き合わせて理解するという方法は見つけることができませんでした。
4. ウィリアム・バークレーの言葉
ここまで、主の祈りの6つの願い事の全体構成を見てきました。この第一のポイントを締めくくるに当たって、ウィリアム・バークレーの言葉を引用します。
「主の祈りは、私たちが中心に立つのではなく、神に祈りの場の中心に立ってもらうことから始めます。正しい一に中心が据えられるとき、周辺的なことが正しくなります。神に適切な場所が与えられる時、他のすべてのことは、正しい場所に置かれるようになります。」
Ⅱ. 御名について
1. よくある2つの説明
次に、二つ目の項目、「御名について」に入って行きたいと思います。
願い事の筆頭に出てくる「御名をあがめさせ給へ」について具体的に考えていきます。ここに「御名」ということばが出てきます。なんで、ここが「あなたを崇めさせ給へ」とか「神を崇めさせ給へ」「主とあがめさせ給へ」「我らの父をあがめさせ給へ」ではなく「あなたのお名前を」となっているかについて考えたこと、あるいは気になったことはおありでしょうか。
私自身のことを言いますと、17歳の時に信仰をもって、40年以上の月日が流れましたが、一応普通に気になっていました。「御名」って何なんだろう。それに対して、一応、次のような説明を聞く機会があり、それなりに、そんなもんなのかなぁと半分くらい納得したような気になって、ずっとここまでやってきました。
二つの説明というのは、一つ目は、名は体を表すということで、聖書では特に、神様のお名前というのは、神様ご自身を表すんですよ、という説明です。
もう一つは、神様のお名前というのは、神様のご性質、或いは本質を表すんですよ、というものです。
いまご紹介した二つの説は、わかりやすい説明です。しかし、私に言わせれば、「御名」ということの説明には一応なっているかもしれませんが、そもそも私が気になっている、「なんで神ではなく「御名」なのか?」という問いには十分答えているとは思えないのです。それで、今回、自分で一生懸命考えました。私が考えたことなので、権威はありません。しかし、私自身が神様から教えられたこととしてお分かちしたいと思っています。
2. 大谷翔平を例に取ると
少し置き換えて、一般化して考えてみたいと思います。一人の人がいて、その人自身というより「その人のお名前が」ということを言うときには何が問題になっているのでしょうか。たとえば今を時めく大谷翔平選手を例に取ってみたいと思います。「大谷翔平が」というときと「大谷翔平という名前が」というときの違いです。「大谷翔平」という言い方が「リアル大谷翔平」の全部を表すとしたら、「大谷翔平という名前」という言い方をした場合、意味する範囲が限定されるように思います。一言で言うと、「名誉」ということと結びついて部分にシフトしていくということです。たとえば大谷翔平がジャンケンに弱いとします。大谷翔平が、歌が下手だとします。そうすると、「大谷翔平」という中には、ジャンケンに弱いことも、歌が下手なことも含まれるように感じますが、「大谷翔平という名前」という言い方とはほとんど関係がないような気がします。
3. 神と神の御名の関係に当てはめると
これを神様と神様のお名前の関係に当てはめると、「神様」ではなく、「神様のお名前」という言い方をすると、それは、「神様の栄光」との関係を深くイメージされているということになります。それは、続くことばが「崇めさせ給へ」であることからも支持されると思います。そして、主イエス様が「このように祈りなさい」と教えてくださった「主の祈り」がこのように始まるということは、私たち一人一人の存在、生きる目的が神の栄光と深く関係していることを意味しています。
Ⅲ. 神の栄光と私たち
1. 教父キュリロスのことば
ここで、三つ目のポイント「神の栄光と私たち」に入って行きたいと思います。4世紀にエルサレムで活躍したキュリロスという教父がこんなことを言っています。
「神の名は、本来、その本質において聖であり、たとえ私たちが何を言おうと、また何をしようと、また何を言わなくても、何をしなくても、神の名は聖である。この祈願は、どうであっても、神の名は聖でないものから、聖なるものになることを意味するものではない。」
かなり理屈っぽいことを引用しましたが、要するに「御名を崇めさせ給へ」という願いは、私たちの願いによって、神のお名前が「崇められていない状態」から「崇められる状態」に移行するお手伝いのために、願います、というようなことではない。ということです。
2. アウグスティヌスのことば
それでは、どんな願いなのでしょう。アウグスティヌスは次のように言っています。
「神の名が、祈るまで聖でないというのではありません。私たちが祈り求めなければならないことは、私たちが神の名を聖なるものと認めるようになるとき、言い換えれば、神が私たちにとって非常に近しい方になり、私たちが神の名よりも聖なるものが何もないと考えるようになり、神の名を犯すことよりも、恐ろしくことがないようになることです。」
「御名を崇めさせ給へ」という願い、祈りは、神が聖であり、栄光に満ちたお方であるという永遠から永遠まで変わらない真実に、自分が組み入れられているという意識を持たせてください、という願いなのです。神様は、私たちに頼まれなくても、私たちに願われなくても、栄光に満ち満ちておられるご存在なのです。なのに、私たちの主が一番の願い事として、「御名を崇めさせたまへ」と祈るように教えられたのは、そこに意味があるのです。
3. コリント人への手紙第一10章31節
新約聖書から一か所引用して、このことをもう少しブレークダウンしていきたいと思います。コリント人への手紙第一10章31節をお読みいたします。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」
4. ウェストミンスター小教理問答第1問
また、これに関連して「ウェストミンスター小教理問答第一問」を紹介したいと思います。
問:人の主な目的は何ですか。
答え:人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」
いったい、そんなことが可能でしょうか。「食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わしなさい。」って、ハードル上げ過ぎではないですか。一体、何を食べればいいんですか。一体、どんなにおいしそうに食べればいいんですか。一体、どんなに美しく飲めば、神の栄光が現れるんですか。自分の人生の目的を神の栄光を現わすことに設定するなんて到底できませんよ。通信簿をオール5で通し、品行方正で、ビジネスに成功し、幸せな家庭を築き、人助けを沢山すればいいんですか。できる人なんていません。という気に皆さんなるじゃないですか。
しかし、それは、発想が逆です。私たちが何かをやることによって、或いは、何かをものすごく素晴らしくやり遂げることによって、神の栄光が現わされるのではないのです。それは不可能ですし、神様の側から言えば、そんなことしなくていい、ということです。
そうではなくて、そもそも、私がこの世に存在していること自体が、私たち一人一人がここに今日生かされていること自体が、神の栄光のため以外の何物でもないと、神の側が言っておられるということです。そのことを受け入れることです。そのことを感謝をもって自分の告白とすることです。こんなにしょうもない私ですが、こんなに失敗だらけの私ですが、今日、ここに私が活かされているのは、神様が、ご自身の栄光を現わすという神の唯一の御目的のために生かしてくださっておられるのです。それ以外に、私たちが存在している理由はないのです。偶然ではないのです。自分の夢を追いかけるために、存在しているのでもないのです。
ローマ人への手紙3章23節にこうあります。
「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができず」。
裏返せば、私たちはみな一人一人、神の栄光のために造られたものなのだ、ということを聖書は宣言しているのです。しかし、罪のゆえに、私たちは神の栄光をあらわることができない、ものとなってしまいました。そこに、救い主イエス様が来てくださいました。
ヘブル人への手紙1章3節には、
「御子は神の栄光の輝き」
という言葉があります。イエス様を信じて、イエス様と共に歩むときに、私たちは、弱いままで、愚かなままで、情けないままでも、神が私たちをご自身の栄光のために生かしていてくださることに納得が与えられていきます。そのとき、特別なものを食べなくても、特別な飲み方をしなくても、特別なことを達成しなくても、神の子とされた感謝とともに何の変哲もない生活をしているなかで、神の栄光のために自分が活かされている自覚、神を喜ぶことば可能とされることがわかってくるでしょう。
「御名を崇めさせ給へ」の祈りは、そのためにあるのです。
一言お祈りいたします。
私たちの主イエス・キリストの父なる神様。今回は、「御名を崇めさせ給え」の部分の「御名」が神様の栄光と関係していること学ばせていただきました。そして、「神様の栄光」のために自分が活かされていることを知りました。どうぞ、これから「御名をあがめさせ給へ」と祈る旅に、そのことを感謝するものとしてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン
