「天にまします我らの父よ」
聖書
マタイによる福音書6章9節
御名が聖なるものとされますように。」5また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。6あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。7また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。8ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。9ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」
導入
主の祈りは、原語のギリシャ語では、「父 我らの 天に」という語順で始まります。ですから、日本語で私たちが親しんでいる「天にまします」のあのフレーズの先頭に出てくる「天は」ギリシャ語のパーツとしては3番目にやっと出てくるのです。今回は、この「天」について学んでいきたいと思います。
本日のポイントは、
Ⅰ. 天とはどんなところ
Ⅱ. 地とはどんなところ
Ⅲ. 天地の交わり
の3つです。
どうぞ、最後までお付き合いいただきたいと思います。
それでは、さっそく、一番目の「天とはどんなところ」に入っていきます。
Ⅰ. 天とはどんなところ
1.「私たちの父」がおられるところ
現在、日本のほとんどの教会が唱えている主の祈りの日本語は1880年に定められたものです。それからすでに144年も経っていますが、一文字も変更されずに、そのまま使われ続けています。昔の言葉になってしまったのをそのまま唱え続けていることも手伝てか、この祈り出しの「天にまします」は、主の祈りのトレードマークと言ってよいと思います。全部言えなくても、後半はうる覚えになっていても「天にまします」の出だしを聞けば、「ああ、あれね」と、ピント来る人は日本に大変多くいらっしゃるだろうと思います。
「天におられるあなたがたの父」という表現がマタイの福音書の5章16節に最初に登場します。その後も5章45節には、「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。」48節「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」6章1節「天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」と、この主の祈りに先立って、マタイの福音書の中に、「天におられるあなた方の父」あるいはそれと同種の表現は、4回出てきています。
ですから、マタイのこの文脈では、「天」は第一に、「私たちの父がおられるところ」を意味しています。
2.神が支配しているところ
次に、主の祈りの文言を少し先取りしてしましますが、すぐに「御国を来らせたまえ」という言葉が出てきます。「御国」とは、日本語では尊敬を現わす「御」が「国」の前についていますので、「国」を尊敬を込めて丁寧に表現している言葉のように、表面的には見えます。しかし、原語のギリシャ語では、「御国」は「あなたの国」ということです。英語でも「your kingdom」という「あなたの」の意味の「your」が使われています。そしてこの「あなたの」は「天の父の」を意味していることは明らかです。「御国を来らせたまえ」は、「天の父の国を来らせ給え」ということになります。ここでわかることは、天は、父が支配しておられるところだ、ということです。また、「国」についても、日本人の私たちには、「国」という漢字を使うと、英語でいう”country” ”nation” ”state”などをイメージしやすいと思います。しかし、原語では、「バシレイア」、英語では「kingdom」という言葉で、それは、「領土」や「国民」というよりも「支配」「主権」を現わす言葉です。「天」とは、「父」の支配が何ものによっても邪魔されずに、完全に行き届いているところ、というのが聖書での意味です。
3.神の御心がなるところ
次に、これも主の祈りの文言の少し先取りになりますが、「御心の天になるごとく」と出てきます。天は、神様の御心がなっているところです。もし、なんの苦痛もなく、不足もなく、争いもないところがあるとして、そこに父の御心が少しでも行われない要素があるなら、そこは天とは言えないのです。逆に、どんなにみすぼらしく、不足ばかりで、苦しいばかりで、自分の願いがから離れているところがあるとして、そこに父の御心がその通りなされているならば、そこは天と同じと言ってよい、ということになります。
Ⅱ. 地とはどんなところ
1. 天と対になっているところ
①聖書の最初の一節
次に、二つ目の項目、「地とはどんなところ」に入って行きたいと思います。
多くの方がご存じのように、聖書の第一頁、冒頭、創世記の1章1節は、「はじめに神が天と地を創造された」で始まります。どんな言葉よりも早く、「天」と「地」はセットで、そして対句として聖書に出てきます。「地」は人間が住み、人間が支配していると見える世界です。しかし、考えてみると、誰一人、この地球を自分で作ったものはいません。すでに存在している地球、太陽、空気、水、そういうものによって命は保たれています。人間は地を治めているつもりになっているかもしれませんが、地の方が人間にすべての必要なものを提供しているのです。地が人を生かしているのです。「天と地」という言い方で「天」が出てくる場合、それは、「地を地たらしめている地以外のすべて」を意味すると言ってよいでしょう。
②伝道者の書から
また、伝道者の書5章2節には、「神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」というところがあります。この場合の天は「地」からかけ離れたところ、ということではありません。むしろ、地に徹底的に密着して、地の隅々にまでという意味。偏在の意味です。
天は、地のように制約・限界のない神の遍在、全知全能が自由に発揮されるところです。それに対して、地は限定的。ここにいれば、あそこにはいない。ついたて一つ立てただけで、死角ができて見えなくなってしまう世界、限られた知識でやっていくのが地の世界です。
2. 罪に落ちたところ
続いて、ローマ人への手紙3章9節の途中からしばらく引用します。「ユダヤ人も、ギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。義人はいない。一人もいない。悟るものはいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。」
聖書全巻を通してはっきり主張されていることは、この地は罪の世界だということです。人間には確かに素晴らしい能力が与えられています。火星にまで到達し、手のひらに収まるスマホで、世界中の人とつながらり、自分の願望の多くを指一本で叶えることができます。しかし、そのなんでもできるはずの人間は、自分を愛することも自分の隣にいる人を愛することもできないのです。それが、どんなに歴史を繰り返し、経験を積んでいっても変わらないのです。私たち人間は愚かで醜い面を確かに持っていて、それをどうすることもできないでいるのです。
3. 神が愛しておられるところ
①神の最高傑作
しかし、同時に私たちが忘れてはならないことがあります。それは、地は神が作られた傑作だということです。創世記の創造の記事を読むと、神様は創造の御業を実に丁寧に確実に進められたことがわかります。一日一日ごとに区切りを付けられるときに、神様は「それを良しとみられた」という言葉が重ねられていきます。そして最後に、人が造られ、全部が完成したときには、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」とあります。その後、人類は罪に堕ちてしまいますが、それでも、神が造られた世界、それは「地」だけではなく「天」「地」の両方が含まれますが、それは「はなはな良かった」のです。「天」だけではなく、「地」も神様の最高傑作なのです。決して失敗作ではないのです。
②神は世を愛された
それだけではありません。次に「地」は神の愛の対象です。もっと言えば、神の妬みの対象だといったほうが正確かもしれません。神は地をご自分の「最高傑作」だが「罪に堕ちた」状態に放置されることがどうしてもおできにならないのです。「地」を、そしてそこに住む私たち一人一人をこよなく愛しておられるからです。地に住む人々の集まりを「世」と言うことばで呼びます。聖書は、神様が「世」を愛するがゆえに取られた救いのプランをどのように実行に移されたかが書かれた書物だといってよいでしょう。
第一ヨハネ2章15節には、「あなたは世をも世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父への愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」とあります。はっきりとしています。
しかし、ヨハネの福音書3章16節にはなんと書いてあるでしょうか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。イエス様は私たちには愛してはいけないと固く禁じられた世を、ご自身ではご自身をお与えになるほどに愛されたのです。そう言うと、それは違います。その二つの箇所で言われている「世」は同じではありません。第一ヨハネの方は、いわゆる神から離れた俗世間というか、永遠的な価値を認めない、一時的な虚栄をすべてとする世界です。それに対して、ヨハネ3の16の方の「世」は私たち、神の形に作られた尊い人間一人一人のことですよ。そんなこともわからないのですか。と言われそうです。しかし、本当にそうでしょうか。本当にこの二つの世は別物でしょうか。わたしは、この二つの世はまったく同じだと思います。もし、それでも抵抗があるならば、こうまとめることができるかもしれません。第一ヨハネで言われている世、「神から離れた俗世間というか、永遠的な価値を認めない、一時的な虚栄をすべてとする世界」をこよなく愛していた私をイエス様はご自分のすべてをお与えになるほどに愛してくださったのです。
Ⅲ. 天と地の交わり
1.何と言っても受肉
ここまで、「天とはどういうところ」そして「地とはどういうところ」ということを考えてきました。次にこの二つすなわち、「天と地」の「交わり」ということを考えていきたいと思います。
最初に指摘したいのは、何と言ってもキリスト教用語で言うと「受肉」ということです。すなわち、神の独り子が人となって、この世に生まれてくださった、ということです。神という物質ではない霊なるご存在が、人の肉体という有限の世界に突入してくださったということです。例が物質界に突入されたということは、同時に、神が人間の歴史に直接のプレーヤーとして介入された、ということでもあります。
それは、先ほども申し上げましたように、神の愛、もっというならば妬みの愛ゆででした。どうしても放っておくことができずに、天が地に来てしまわれたということです。
2.イエス様の公生涯の初め
①イエス様の受洗
イエス・キリストの人としての生涯という場合、その最後の十字架の死に焦点を当てることが多いですが、今回は、今見ました誕生と、続く「公生涯の初め」にむしろ注目したいと思います。イエス様は、ナザレという田舎の村で大工の倅として人目に付かない生活を約30年間されました。そして30歳になったころ、ガリラヤの町々村々をめぐって病人を癒し、人々を教える旅の生活に入られました。それを公の生涯、公生涯と呼びます。公生涯が3年半ほど続いたあと、最後はエルサレムの都で十字架に付けられ殺されていきます。
イエス様は、いくつかの象徴的な出来事を経て、隠れた生涯から公生涯へ移行していかれました。そのうちの一つがヨルダン川における、洗礼者ヨハネからの受洗です。洗礼とは、ヨルダン川に全身を浸し、それ以前の罪に穢れた自分を洗い流して、新しいスタートと切ることを意味する宗教的儀式でした。当時、それを必要としているのは、異邦人、すなわち非ユダヤ人だと考えらえていました。ユダヤ人はアブラハムの子孫で選民であり、ユダヤ人に生まれついた時点で洗い流さなければならない罪や穢れはない、と自分たちのことを考えていました。ですから、非ユダヤ人である異邦人たちが、ユダヤ教に回心する際に必要なのが、洗礼だったのです。しかし、洗礼者ヨハネは、その洗礼にユダヤ人たちを招いたのです。そこにイエス様がやってこられました。洗礼者ヨハネは、「私の方こそ、あなたから洗礼を受けるべき者です」といって、イエス様に洗礼を授けることを辞退しようとしました。しかし、イエス様は、「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしにとってふさわしいのです。」と仰って、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。その時のことをマタイは次のように記述しています。
「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
ここに、天と地の交わりを見ることができます。神が人となってこの地に来られた方、イエスに対して、天が開け、神の御霊が下り、天から声がして「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と語られたのです。「天」と「地」がそれまでのように分離していないのです。「天」には、神がおられ、神の支配が完全になり、神の御心が完全い行われている。一方、それに対して「地」は罪に堕ち、人間が我がもの顔で支配している世界。そこには、対立と衝突はあっても交わりはありえないように思います。しかし、イエス・キリストという存在を通して「天」と「地」が交わることが可能となったのです。「天」がイエス・キリストという存在を通して「地」の中に突入してきたのです。
②イエスの宣教第一声
そして、イエス様が公生涯に出て行かれたときの第一声が、マタイの福音書の4章17節に記されています。「その時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国は近づいたから』」と言われました。「天の御国が近づいた」というのはとっても特徴的な言葉です。私たちが主の祈りでいつも祈る「御国を来たらせたまえ」の「御国」のことです。
エポックメーキングというカタカナ語がこの頃よく使われるようになりました。日本語にすると「画期的」というのが一番近いことばでしょう。試しにChatGPTに「人類史上最大のエポックメーキングな出来事を三つ挙げてください」と出題したら、
①BC約10,000年前に起こった農業革命
②19世紀から20世紀にかけて起こった産業革命
③20世紀以降進行中の情報化時代
の三つという答えを出してきました。
この答えを見て、私はAIの限界を明らかに悟りました。一番重要な出来事三つが一つも入っていないのです。それは、①イエス・キリストの受肉、②イエス・キリストの十字架死、③イエス・キリストの復活です。この三つの出来事によって、人類の歴史は、それ以前とは全く別の段階に移行し、二度とそれ以前には戻れないようになったのです。受肉、十字架死、復活の三つにどうしても一つの代表者を決めてくれ、と言われたら私は受肉を選びます。
男女の関係のことを考えてみてください。プロポーズという出来事が起こったら、二人の関係は新しい段階に移行しているのです。それ以前の段階には戻れないのです。なかったことにはならないのです。
イエス様の宣教第一声にはその意味があります。「天の御国が近づいたから。」わたしが人なってこの地上に来た以上、「天」と「地」の関係は全く新しい段階に入ったのだ。もうそれ以前には戻れない。なかったことにもならない。神がおられ、神に支配が隅々にまで及び、神の御心が全く成る、そういう領域を本気で「来らせ給え」「この身になりますように」と祈ってよい時代が来たのだ。それをわたしは伝えに来たのだ、とイエス様はおっしゃったのです。もとには戻らない。なかったことにはならない、それがエポックメーキング=画期的の意味です。しかし、私たちは、どれほど、もとに戻り、なにもなかったかのような心と思いと考えで生活していることでしょうか。大いに悔い改めて、「天にまします我らの父よ 願わくは御名を崇めさせたえ、御国を来らせたえ、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と幼子のように祈ろうではありませんか。
祈り
一言お祈りいたします。
私たちの主イエス・キリストの父なる神様。今回は、「天にまします」の部分を詳しく学ばせていただきました。「天」を携えて、あなたが「地」に下ってくださったことの意味をもっと深く味わい、感謝して生きる者としてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン