主の祈りを学ぶ③

「我らの父よ」

聖書 

マタイによる福音書6章9節

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
「天にいます私たちの父よ。
 御名が聖なるものとされますように。」

導入

前回お話しましたように、この主の祈りの学びでは、原語のギリシャ語で出てくる順番に祈りの言葉を取り上げていきたいと考えています。

ギリシャ語では、「パテール ヘーモーン」=「父 我らの」という語順だと申し上げました。そこで、先週は、「パテール」すなわち「父」を取り上げたのですが、今回は、次の言葉、「ヘーモーン」すなわち「我らの」の部分を扱っていきます。人類は火星には到達し、

本日のポイント

は、

Ⅰ. 使徒信条との比較

Ⅱ. 信仰の個人的要素と共同体的要素

Ⅲ. 所有から考える信仰

の3つです。

どうぞ、最後までお付き合いいただきたいと思います。

それでは、さっそく、一番目の「使徒信条との比較」というところに入っていきます。

Ⅰ.  使徒信条との比較

1.使徒信条における「我」と「我ら」

使徒信条は、「我は」という言葉で始まります。日本語の使徒信条では、この「我」は三位一体の神にそれぞれ一回ずつ「我信ず」というかたちで合計三回出てきます。英語では、父なる神と御子イエス・キリストをアンドでつないだものに対して一回、聖霊に対して一回、合計二回「I believe」という形で「I」「我」が出てきます。

使徒信条でも、「我らの主イエス・キリスト」という形で「我ら」は一回だけ出てきますが、信条を告白する主体としては、最初から最後まで単数の「我」で貫かれています。それは、この使徒信条の原型が洗礼式における信仰告白にあったからです。前回の使徒信条を学ぶシリーズで、私がそのところを扱った回では、「天国には団体入り口はなく、すべて個人入り口しかない。」「一緒に信じることも、人の代わりに信じることもできない」と申し上げました。

2.主の祈りにおける「我ら」と「我」

 それに対して、主の祈りの方は、冒頭の「天にまします我らの父よ」のところの「我ら」以外にも「我らの日用の糧」「我らに罪を犯す者」「我らがゆるす如く」「我らの罪をも」「我らを試みにあわせず」と合計5回「我らの」が出てきます。そして単数の「我」は、一度も出てきません。

 なぜ、信仰告白と主の祈りではこんなに様子が違っているのでしょうか。祈りには、信仰告白のような個人主義的な面はないのでしょうか?祈りはいつでも共同体主義的なものなのでしょうか?その辺りを、今回は考えていきたいと思います。

ということで、次に、第二番目のポイントとして「信仰の個人的要素と共同体的要素」について考えていきたいと思います。

Ⅱ. 信仰の個人的要素と共同体的要素

1. 信仰の個人主義的要素

①主イエスの場合

主の祈りに一度も「我」が出てこないからと言って、一人で祈るという面が祈りにない、というわけではありません。その一番よい例は主イエス様ご自身です。主イエス様は、祈りの人でした。ヨハネの福音書6章15節にこうあります。「イエスは、人々がやって来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。」ルカの9の28には、「祈るために山に登られた」という表現があります。山はイエス様にとって、しばしば、群衆から離れて祈りを捧げる場でした。主の祈りで「我らの」をベースに祈りなさい、と教えられたイエス様が、一人になれるところをわざわざ探して、一人で祈っておられるのです。

②個人的な招き

また、ルカの福音書9章23節に次のような有名なことばがあります。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」この言葉は、「だれでもわたしについて来たいと思う人々は、自分たちの十字架を負って」とは言っていません。あくまで、一人、一人の決断でイエス様についていくのです。

2. 信仰の共同体的な面

①キリストの体である教会

しかし、使徒信条の「我らの主、イエス・キリストを信ず」の回でも申しましたが、信じるのは一人一人ですが、信じた後は、決して一人ではありえないのです。主イエスを信じる共同体に組み入れられるのです。そして、聖書は、その共同体のことを「キリストの体」と言います。

コリント人への手紙第一12章12節から14節にかけてこうあります。「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。実際、からだが一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。」

 イエスを信じた一人一人は、それぞれの個性、それぞれの役割を持ち、違いを持ちながら、一つの体を形成する。その一つの体全体をキリストの体、そしてそれこそがこの地上における教会なのだ、というのが、新約聖書が教えていることです。

②私たちの意識

仮に、私が、キリストの体の中の左足の薬指だとします。そうであるならば、私は、左足の薬指だという個人としての意識と同時に、キリストの体の一部分なのだ、指だけでは存在しえない、指だけでは指としても機能しない、指はからだ全体につらなってこそ指なのだという共同体への帰属意識を同時に持つことが大切です。

Ⅲ. 所有から考える信仰

1.日常生活において

①私たちの物

また、もう一つ別の角度から考えてみましょう。私たちは個人の所有権を非常に大切にする社会に生きています。小学校に子供が入学すると、名前ペンですべての持ち物に名前を書かなければなりません。教科書一冊一冊、ノート一冊一冊から始まって、体操着、給食袋、定規、筆入れ、数え上げたら切りがありません。ほどんどの物は隣のお友達が持っているものとまったく同じものであり、少し違っていても、いずれにしろ大量生産されたものの中の一つでしょう。それをお金を払って買って、自分のものとし、それに名前を書いて、その所有権がはっきり主張できるようにすることが、集団生活では大切です。

②誰かの物でないもの

しかし、学校生活でも、もっと大きいものは個人のものではありません。机、椅子、黒板、教室、校舎、校庭などは、誰かのものではありません。

私たちの家庭の冷蔵庫に入っている者は、私たちがお金を払った買った自分のものでしょう。しかし、太陽も空気も、空も川も海も、誰かの物ではありません。私たちは、自分の物しか使っていない、よそ様の物などにはお世話にならずに生きているつもりになっているかもしれませんが、生きていくうえで本当に大切なものの多くは、自分のものではありません。そして、自分に与えられているのと同じように、ただで隣の人にも与えられているのです。

2.自分という存在について

①自分はだれのもの?

 それでは、自分自身という存在はどうでしょうか。自分の体だけではなく、精神的な部分もふくめてトータルに自分という存在を意識してみてください。その上で、自分に問いかけてみてください。「いったい自分はだれのものなのか?」と。自分という存在ほど、その所有、帰属がはっきりしているものはない、と考えるでしょうか。親の物でもなければ、配偶者のものでもない。会社のものでもない。自分は自分。自分は自分の物。しかし、本当にそうでしょうか?

 聖書には、次のように記されています。「あなたがたは、もはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。」ここに、実に驚くべきことが書いてあります。

自分で一番確かに自分のものだと思っていた自分自身が、実は自分の物ではない、というのです。

②私たちは神のもの

私たちは、神のものなのです。神の所有とされているものなのです。小学生のランドセルに入っている名前が書かれた持ち物がその小学生のものであるのは、それがお金を払って買われているからです。私たちも、神様がご自身の独り子イエス・キリストが十字架上で流された血潮という代価で私たち一人一人をすでに買い取って、神の物とされてしまっている、というのが、聖書の私たちに対しての認識です。

 この認識に立つと、まったくの私人という人はありえなくなります。自分自身のために存在し、自分自身のために生きている人はいない、ことになります。

まとめ: 主の祈りを祈るときの「我ら」

①立ち位置を変える必要 

ここまで論じてきて、今日の本題の「われらの父よ」に戻っていきたいと思います。主の祈りを祈るときに、もし、自分で自分のために生きていく上で感じている様々な不足感を主の祈りを祈ることによって補強し、充足させよう、というような心構えで祈っているとしたならば、まず、今、立っている立ち位置を変える必要があります。

②共同体意識の芽生え 

 自分は自分のものではない。自分は自分のために生きているのではない。自分は神のものであり、神の栄光のために生かされているものです。それが、はっきりしてくるときに、次に、私たちの周りの人との共同体意識が芽生えてきます。自分は神の所有とされた、という意識は、また、不思議と、神と自分という二者だけで完結しないのです。そこに、かならず隣の人が入ってくるのです。

 私たちは自分という世界で完結している個人主義を脱すると、一足飛びで共同体主義になるのではありません。個人主義と共同体主義の橋渡しとして、自分自身が神のものとなる、というステップがあります。

③神の創造の御業と共同体意識 

 私たちの体を構成する細胞の一つ一つ、その細胞を構成する分子や原子も、巡り巡って私の体の一部を今、構成しているのです。そして、私の体を保つエネルギーも、太陽や空気や水の恩恵を受け、誰かが作ったり、育てたり、運んだりして、私のところまで届いたのです。私という存在はそれらの寄せ集めです。そして、よく考えてみると、そのすべては神様の想像の御業によるのです。そして、神の創造の業は、私一人をお造りになったのではないのです。数えきれないほどの、過去の人類。そして現在、同時代を生きている70数億の人たち。みな、神様がお造りになり、生かしておられるのです。

④主の祈りを祈るときの意識 

 「われらの父よ」と私たちが祈るとき、私たちの意識が無限に広がっていきます。今回は、この主の祈りが、共同体的な性格を持った祈りであることに心を留めました。

祈り

 一言お祈りいたします。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神様。あなたの聖名を賛美いたします。私は、信じますという繋がりとともに、私たちのお父さまとお呼びしてつながる関係にもっと目が開かれていくことができるように、お導きください。

主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン