主の祈りを学ぶ②

「父に祈りなさい」

聖書 

マタイによる福音書6章5節~9節

また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい。

導入

①前回からの流れ

今回は「主の祈りを学ぶ」の第二回目をお届けいたします。

前回の第一回では、主の祈りの中身には入らず、重要性や特徴、文脈などを概観して終わりました。今回、この第二回目から、実際に祈りの言葉に入っていきたいと思います。

②原語の順番で「父」から

前回の「使徒信条」のシリーズでも同様でしたが、扱っていく言葉は、原語での順番に即したいと思います。日本語では「天にまします」と「天」で始まります。英語ですと「Our Fater in heaven」と「our 我らの」で始まります。しかし、主の祈りの原語のギリシャ語では、

「パテール ヘーモーン」=「父 我らの」という語順。すなわち「父」が開校一番の言葉なのです。そこで、今回は「父」を取り上げます。

③今回のポイントの提示

本日のポイントは、

1. 隠れたところにおられる父

2. 隠れたところで見ておられる父

3. 報いてくださる父

の3つです。

どうぞ、最後までお付き合いいただきたいと思います。また、ご意見、ご感想などもどんどんお寄せいただきたいと思います。

それでは、さっそく、一番目の「隠れたところにおられる父」というところに入っていきます。

Ⅰ 隠れたところにおられる父

最初にお読みいただきました今日の聖書箇所のマタイの福音書6章6節に「あなたがたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」という言葉があります。

 私たちが祈りを捧げる相手である神様は、私たちの「父だ」というところからこの主の祈りは始まるわけですが、その「父」はまず、隠れたところにおられる、というのです。これは何を意味するのでしょうか。

①神様は見えない

まず、第一に、この父である神は、人間の目には見えない方だ、ということです。通常、私たち人間は見えるものに頼って、見える世界で生きています。見える物を食べ、見えるベッドで眠り、見える会社や学校に行き、見えるパソコンで仕事をし、見える教科書で勉強します。しかし、祈りの世界は、見える物で完結しない世界なのです。その一番の理由が、私たちが祈りを捧げる相手が、見えない方だからです。見える物だけを頼りにして生きている人は、どんなにキリスト教的な考え方に賛成しているとしても、熱心に祈ることはないでしょう。目に見えない世界に、願いをつなげても、何にもならないと感じるからです。

②どこに持っていくか

 私たちが問題に直面したときに、それをどこに持っていくかということが問題解決のために最も重要なことの一つです。例えば、病気になったとき。何科のお医者さんに受信するか、ということが大切です。そこを間違うと、時間がかかったり、適切な診察を受けられなくなってしまいます。祈りは、私たち人間にとって、もっとも深いところからの求めです。それをどこに向けるかはとっても重要です。主イエス様は、それを目に見えない父に持っていきなさい、と教えておられるのです。ヘブル人への手紙11章3節にこういうお言葉があります。「 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」見えるものは、見えないものによって造られ、存在しているのだと、聖書は教えています。また、コリント人への手紙第二4章18節には、こういうお言葉があります。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

 主の祈りは、呼びかけの冒頭で、私たちが目を向けるべきなのは、見えるものでははなく、見えないお方なのだ、ということを宣言しているのです。

③イエス様が地上で祈った相手

そして、このことは、見えないはずのお方が見える形をとってこの地上に来てくださった、イエス・キリストの生涯において実践されました。イエス様は、朝早く祈られ、一人で祈られ、夜を徹して祈られ、血の朝を流して祈られた方です。イエス様の生きざまの第一の特徴は、その願いを、訴えを、感謝を目には見えない父に持っていかれたということです。そして、ご自身がなさったのと同じことを、私たち目に見える世界に生活している者たちにも要求されたのです。ここに、祈りの第一関門があります。ここを通って祈りの世界に入って行かなければ、他からのルートはありません。

Ⅱ 隠れたところで見ておられる父

次に、第二番目のポイントに移っていきたいと思います。二番目は、「隠れたところで見ておられる父」ということです。

①すべてを見ておられる父

 私たちが祈りを向ける「父」は、隠れたところにおられる方、すなわち目に見えない方、というだけではなく、「隠れたところで見ておられる父」だというのです。これは何を意味するのでしょうか。二つのことを申し上げたいと思います。

 まず、一つ目は、この父は私たちのすべてを見ておられるということです。隠れたところで見ておられるということは、見られている人間から常に意識されることなく見ておられるということです。見られていることを意識すると、人間は通常とは違うモードに入ります。授業参観のためにお母さんやお父さんが見に来ている教室では、小学生たちの姿はいつもとは同じではなくなるでしょう。神様を意識すると人間は、いいところを見せなきゃ、というモードに入ります。しかし、ある意味、それは長続きしませんし、また、本当の自分の姿でもありません。ふと、神様が見ておられることを忘れて何かに没頭しているような時こそ、その人の真の姿だとも言えるでしょう。父は、そのすべてを見ておられる方なのです。私たちは、恋人同士のように、互いに自分のいいところだけを相手に見せ、相手の良いところだけを見て、よい関係を築いていきたいと思うかもしれませんが、隠れたところで見ておられる父との間にはそういう関係は結べません。いいところだけを接点とすることはできないのです。

②結果(results)ではなく
関係(relationship)を見ておられる父

 ということは、次に、この父は私たちの結果を見ておられるのではなく、私たちとの関係を見ておられるのだ、ということです。私は、現在ソフトバンク・ホークスの球団会長をしておられる王貞治氏の大ファンです。王貞治の言葉に「プロは結果がすべて」というのがあります。練習を一生懸命やっているかで評価されるのがプロではない。ファンが見るのは試合で打つかどうかだ。このシビアな感覚が、世界のホームラン王になった人物のプロ意識でした。しかし、神様はプロ野球のファンとは正反対です。一試合に四回くらいしか回ってこない打席のところしか見ていないのではないのです。隠れたところで、見られている方が意識しているときも、意識していない時も見ていてくださるのです。なぜ、見ていてくださるのでしょうか。それは、次の大きなポイントにつながっていきますが、私たちに報いてくださるためです。一瞬でも土俵に手をついたら、一ミリでもかかとが土俵を割ったら相手に軍配を上げるために見ている行事のようではありません。そうではなく逆に、速いから、かっこいいからではなく、我が子が走っているがために、最高の徒競走にしか見えない、幼稚園生・小学生の運動会での親の目のように、見てくださるためです。

Ⅲ 報いてくださる父

 それでは、本日の最後、3つ目のポイントに移っていきたいと思います。3つめは、「報いてくださる父」ということです。

①「父」に祈る祈りは聞かれるのが大前提

  先ほど改めて読みました6節の続きに「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とあります。キリスト教的な教えの中に、「報いを求めず、人にあたえよ」というものがあると思います。そういう聖句も賛美歌もあります。しかし、祈りについては、「報いてくださいます」すなわち「父は祈りを聞いてくださいます」とはっきり宣言されていることをまず、心に留めたいと思います。隠れたところにおられ、隠れたところで見ておられる父に向って祈られる祈りは、聞かれる、というのが、イエス様の祈りについての教えの大前提にあります。「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」的な発想はないのです。祈りは聞かれる、これが祈りの大前提です。なぜなら、私たちが祈っている相手は「父」だからなのだ、というのが、「父」に祈ることの大きな意味です。

②本当の報いは父から(⇔後から訂正される報い)

 また、隠れたところで見ておられる父から来る報いは、本当の報いです。それは、訂正の必要のない報いです。目に見える世界での報い。目に見えるところしか見ない人間がよってたかって評価した報いは、あとでひっくり返ることがあります。世界的に人気のあったアスリートが薬物使用が発覚して、栄光をはく奪されることもしばしば起きます。人間が人間に与える報いは、見える世界のものなのです。しかし、祈りの答えは見えないところにおられ、見えないところで見ておられ、決して訂正が入らない報いなのです。

③廃れない報いは父から(⇔人気)

 また、隠れたところからの報いは、はやりすたりと無関係な報いです。朝バナナが健康にいい、という番組がテレビで放映されると、全国のスーパーでバナナが完売になり、毎日バナナばかり食べている人にはこんな健康被害がある、という本がでるとバナナを食べる人が激減したりする。そんな情報に振り回される世界に私たちは生きています。しかし、これから、学んでいく主の祈りは、およそ人間である限り、どの時代に、どの地域で生きても根源的に必要となってくるものについての祈りです。その必要に、隠れたところにおられ、隠れたところで見ておられ、隠れたところから報いてくださる、という祈りの世界が、なんだかわくわくする、本物のにおいのようなものを、今回感じ始めておられる方はおられないでしょうか。

 隠れたところにおられる父に祈る、という主の祈りの第一のエッセンスに今回は心を向けました。

祈り

 一言お祈りいたします。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神様。あなたの聖名を賛美いたします。私たちは、通常の生活の中で、目に見える世界に意識が限定されて生きております。しかし、主の祈りは、私たちの心を、隠れた世界、目に見えない世界の重要性に気づかせる祈りです。どうぞ、私たちが、目に見えるものに振り回されるところから解放され、真に根源的なものを切に求める者へと造り変えてください。

主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン