□2025-05-11 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書9:14-29
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(36)「わたしのところに連れてきおなさい」
□説教者 山田誠路牧師
導入 -テキストの概要―
①変貌山からの下山直後
今朝のテキストは、先週ご一緒に学びました変貌山から、イエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちが下りてきた直後の出来事です。そこには、大勢の群衆が集まっていました。イエス様一行の下山を待っていたのではなく、そこには問題が生じていたのです。
②“てんかん”に似た症状
「霊が取りつくと、ところかまわず倒し、泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせ」るという問題を幼い時から抱えている一人の男の子がいました。それに加えて、口をきけなくする霊、耳を聞こえなくする霊、という表現が出てきていますが、その症状も含めて、現代の私たちがてんかんとして知っている症状によく合致しています。
③父親が息子を連れてきた
父親のイエス様の質問に対する答えから、それが幼い時からのことであり、何度も火の中や水の中に入って死にかけた経験があることもわかります。そんな子供を持つ父親が、その子を連れてイエス様のところに助けを求めてやってきたのです。
④麓の弟子たちは癒せなかった
ところが、イエス様は山の上におられ、同行を許されなかった弟子たちが対応しました。麓に残っていた弟子たちも、すでに6章の段階で、二人一組になって、汚れた霊を追い出す権威を授けられ、町々村々に遣わされ、「多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒した」実績がある人たちでした。
しかし、今回は、麓にいた弟子たちにはこの問題を解決することができなかったのです。
⑤律法学者たちと議論に
しかも、それに留まらず、その問題に対処できないことを、宿敵の律法学者たちに突っ込まれて議論になっていました。その議論が人目を惹き、黒山の人だかりができ上っていました。そこに、変貌山から降りてきたイエス様が登場します。
今日は、ここから大きく二つのことを学びたいと思います。
一つ目は、「山の麓の現実」
二つ目は、「解決はどこから」
この二つです。
Ⅰ. 山の麓の現実
それでは、まず一つ目のポイント「山の麓の現実」に入っていきます。
⒈ 理想と現実
変貌山の山頂でどれほど素晴らしいことが起きたとしても、山の麓では待ったなしの深刻な問題が進行していました。これは、私たちの生活の現実だと思います。山の上の出来事、経験は一時的なものであり、そこにずっと留まることはできず、必ず山を下って、麓の生活、山に登る前の通常の生活に戻っていかなければなりません。
今日は5月11日で今年のゴールデンウイークが明けて数日といったところです。私は、5月6日火曜日の夕飯が終わって片づけをしているとき、思わず妻に言ってしまいました。「あー、私の連休が終わってしまう」。連休はいつまでも続かないのです。必ず、いつもの日常に戻っていかなければなりません。そして、そこには、いつでも問題が山積しているのです。
⒉ 不可能と現実
そして、その問題は私たちの手に余るものなのです。過去に何とか切り抜けられた問題なのに、また、襲ってきて今度は前回と同じやり方では対処できないほど、根深くなり、悪化していたりするのです。私も、自分の力ではどうすることもできない問題に取り囲まれながら生活しています。
①先生の前なら出来るんだけど
私は大学4年生の時、ほんの数か月、声楽を習ったことがありました。私の人生の中で他人にお金を払って何かを習って、短期間でこれほど効果があったと思ったことはほかにない、と思うぐらい密度の濃い時間でした。皆さんも経験あると思うのですが、音楽の先生がピアノを弾きながら、ご自分でも正しい発生で美しい声を出しながら発生のリードをしてくださると、その時はよい声がでるのです。先生と同じことはできないまでも、生で耳から入ってくる良い声をどうしたら、自分の体を使って近いものを再現できるか、その現場では体のあらゆる器官がイメージして機能を総動員して自分の持てるベストのアウトプットをします。そして、先生の「ここをこんな感じで」とイメージ言語でアドバイスをくれると更に効果がアップし、「あー、出た出た」と自分の声が今まで出せなかったような声を出せるようになります。しかし、不思議なことにそれは長続きしないのです。一週間後、先生の前で声を出すと、ほとんどまた元の木阿弥状態まで戻ってしまっています。
今朝、この現象についてAIに訪ねてみたらこんな回答がありました。「この現象は「先生の声や指導による一時的な活性化」と「発声技術の身体的定着の未熟さ」によって説明できます。レッスンで得た感覚を日々の自主練習で繰り返し再現し、身体と脳に定着させることが、良い声を持続させる鍵となります。」
お弟子さんたちも、先生といるときには特別なワンランクもツーランクも上の人たちのグループ入りしたような気になったり、先生から遣わされたときには、先生が見守っているときには通常できないことができたりしました。しかし、それが身体的定着にまでは至っていないのです。弟子たちはまだ先生がいないと現実の問題には対処できない人たちだったのです。
②イエス様の現場は山上ではなく山麓
イエス様は、変貌山の上で輝かしい時を過ごすためにこの地上に来られた方ではありませんでした。山の麓の厄介なだれも手が付けられない、長引いている現実問題に解決を与えるために、山の麓で人々を助けるためにこの世にきてくださいました。
15節をみてください。「群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。」とありますね。読んでいて「群衆はみな、すぐにイエスを見つけると」に続く部分は、どんな内容を想像されるでしょうか。「群衆はみな、すぐにイエスを見つけると」「喜んだ」とか「安心した」とか「これでこの子も癒していただけるだろうと期待をした」などということが続くように思はないでしょうか。
しかし、面白いことに「非常に驚き」という表現が続いているのです。なぜ、ここで群衆は驚いたのでしょうか。イエス様の下山が思っていたより、早かったからでしょうか。聖書学者たちは、一つの可能性として、山から下りてきたイエス様の衣がまだ変貌した余韻のようなもんで輝いていたのではないかと想像する人もいます。
いずれにしろ、イエス様は、私たち人間が対処不可能な問題の真ん中にスーッと入ってこられます。
③イエス様のイライラ?!
そして17節に福音書で唯一かと思われるイエス様のイライラのような言葉に遭遇します。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」結構、きつめの言葉です。イエス様に似合わなさそうな言葉です。
しかし、この言葉は、イエス様の寛容さに限界があるとか、イエス様も切れることがあるとか、そういうことではないと思います。ご自分にはできる、しかし、弟子たちにはできない。その現実を前にして、イエス様はこのギャップを埋めるために地上に来られたご自分の使命の重さを再認識されたのでしょう。
第一のポイントをまとめると、先生が一緒にいるときには、一時的にできるような気になることがあっても、それは長続きせず、私たちの手には負えない問題に囲まれながら生きていくのが私たちの現実だということです。そこに、イエス様は下ってきて介入されるのです。
Ⅱ. 解決はどこから
続いて第二の大きなポイントである「解決はどこから」に進んでいきます。
⒈ 不完全な信仰から
この状況に対する解決は、どこに入口があったかを見ていきたいと思います。私は、二つあったと思います。一つ目は、「不完全な信仰から」ということです。21節から24節にかけての父親とイエス様とのやり取りのところをもう一度読ませていただきます。
21イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。22霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」23イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」24するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
このやり取りは実に興味深いものです。この父親はイエス様に息子のことをお願いするときに「おできになるなら」というクッションのような言葉をはさみました。この「おできになるなら」が実際どういう意味を込めて言われたのかは、与えられている情報だけから特定するのは難しい感じがします。
お弟子さんたちにできなかったという結果が出ているので、その師匠であるイエスにもできない可能性は十分にある、という疑いというか、「イエス様ならおできになる」という確信がなかったということであったかもしれません。
あるいは、もう少し別の角度から、「初対面の一介の親子が先生の手を患させるのはとても恐縮なことですが」というような遠慮というか、距離感というか、位の高い人に何かをお願いするときの丁寧さを表す意味での表現だったかもしれません。
いずれにせよ、イエス様は、この「おできになるなら」ということばを問題にされました。あるいは、そこを突破口とされました。「できるなら、と言うのですか。信じるものには、どんなことでもできるのです。」と言われました。
①叱責か?
このイエス様のお言葉も二通りに取れるかと思います。一つは、「叱責」と取る解釈です。この父親に対して「信仰が足りない。信仰が生ぬるい。信仰がスパッとしていない。もっと確信を持ちなさい。そんなあやふやな信仰ではなにもできないよ。そんな保険をかけているような信仰は何も生み出さないよ。疑いを捨てて、信じなさい。杖を捨てて、走り出しなさい。」というような叱咤激励というところでしょうか。
②信仰への招きか?
もう一つは、「信仰への招き」と取ることもできるかと思います。「私たちをあわれんでお助けください。」という願いを私のところに向けたのは、それだけで立派な信仰です。あなたの心に、たとい疑いや迷いがあったとしても、わたしのところに来たこと自体が、信仰の現れです。せっかくわたしのところに来たのだから、遠慮はいらない、もっとわたしの近くにきなさい。もっと、しっかりとわたしに寄り掛かりなさい。そうすれば、わたしのところに持ってくる問題に、大きい問題、小さい問題の差はないことがわかるだろう。どんなことでもわたしのところに持ってくればよい、という確信が強くなるでしょう。」こういう励ましの意図が込められていたと取ることもできるでしょう。
私は、今回このところを読んでいて、叱責ではなく招きであると感じました。福音書を読んでいくと、イエス様はたびたび、弟子たちの不完全な信仰、勘違い、不理解などを退けるのではなく、それらを逆手に取って、すばらしい真理を開陳されることがあります。
③ヨハネ14:6の例
たとえば、ヨハネの福音書14章6節に「わたしいが道であり、真理であり、いのちなのです。」という有名なイエス様のお言葉があります。この真珠のように美しい言葉は、イエス様が弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、あなたがたは知っています。」と言われたとき、弟子の中のトマスが正直に「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」と問い返したために出てきた言葉でした。
イエス様から「あなたがたは知っている」と言われたら、私なら、「知らないな」と思っても、“知ったふり”をしたと思います。けれども、このトマスの正直さ。自分が知らない、ということを隠さず、偽らず、ありのままイエス様にお話ししたときに、思いもよらない尊い真理の言葉がイエス様の口から出てきました。
イエス様は、私たちが不完全な信仰を向けるときに、「それは欠けがあるからダメ、出直していらっしゃい。」とする方ではないのです。欠けだらけの信仰を向けた私たちに、とっておきの素晴らしい宝物を出してきて私たちに答えってくださる方なのです。
⒉ 「連れてきなさい」という招きから
次に、今日のテキストにあるもう一つの招きに心を向けてみたいと思います。それは、19節の最後のところにあるイエス様のお言葉です。「その子をわたしのところに連れて来なさい。」という招きです。
今回のストーリーをこの父親の立場に自分を置いて読むと、この息子は、私たちが現実の生活の中で抱えている問題を意味します。そして、その問題は、最初のポイントで触れましたように、どんなに一時的によいことが起きても避けられない現実問題です。そしてそれは、往々にして私たちの力ではどうにもできない問題です。そのような問題に囲まれたとき、そのような問題に行く手を閉ざされたとき、そのような問題に押しつぶされそうになったとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちへの救いの手はどこから指し伸ばされるのでしょうか。
そえれは、「その息子を、わたしのところに連れて来なさい。」「あなたのその自分ではどうすることもできない問題をわたしのところに持って来なさい。」というイエス様の招きから来るのです。
①クロンダイクの例
一昨日、私はあと1週間で94歳になる母のところに行って、一緒にトランプをしてきました。母は、脳梗塞で倒れて、言語障害と右半身麻痺という障がいを負っています。それでも、左手一本でトランプをめくったり、動かしたりすることができます。一人でできるトランプの遊びにソリティアとかクロンダイクと呼ばれるものがあります。いつもそれを二人でやります。
カードを横に七列ならべます。一番左は表を向いたカードが一枚置かれるだけですが、右に行くにしたがって一番上の表を向いているカードの下に伏せられているカードが一枚ずつ増えていきます。一番右の列は表を向いている一番上のカードの下に6枚の伏せられたカードが眠っています。そのように並べきって残ったカードは手持ちのカードとなります。手持ちのカードを一枚ずつめくっていきながら、すでに並んでいるカードを数が大きい方から小さい方に向けて、赤黒を交互に並べていきます。最後まで並べ切れたら上がりです。手持ちのカードが残っているのに、どこも動かせなくなったら終わりです。
一昨日は3回やって3回とも上がれたのですが、序盤はいつもダメそうな様相になってきます。もう少しで手詰まりになりそうだ。その不吉な見通しを持ちながら、ドキドキしながら進めていきます。手詰まりになって、終わりになってしまうところから救われ新しい展開が起きるのはどこからか、というと最初に並べた伏せられているカードが開かれることろからです。手持ちカードは一巡すべてめくってしまうと、何が含まれていて何がないかはわかってしまいます。しかし、最初に横一線に並べたとき、伏せておいたカードは、その列の表を向いているカードがどこか別の列に移動できたときはじめて開くことができます。今まで伏せられたカードが開かれるとき、新しい道が開かれ、そこから突破口が開かれて、新しい展開がはじまるのです。
②イエス様のところで新しいカードが開かれる
クロンダイクをやりながら、私たちの人生も同じだな、と思いました。私たちの知っている、もう見てしまっているカードは、どれをどう駆使して使って御手も、手詰まりとなってしまう。解決はどこにもなさそうに思える。しかし、その問題をイエス様のところに持っていくときに、新しいカードが開かれるのです。通常イエス様は、一つのカードで一機に上がりになるようなことはなさいません。詰んだと思われるところに、一つの道を開かれます。次の一手を打つ道を備えられます。すると不思議に、また、それまでなかったはずの、さらに次の一手が開かれていくのです。
私たちは山の上に幕屋を張って、降りてこないでそこにいるような生涯をたどるものではありません。どんなに素晴らしいことがあっても、それは束の間に終わり、山の麓の問題だらけの現実世界で生きていかなければなりません。しかし、その難しい現実世界に、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われるイエス様の招きが今朝、私たちに届いていることを覚えましょう。そして、イエス様は、私たちがその問題をイエス様のところに持っていくとき、欠けのある、中途半端な信仰で行くとき、「出直して来い!」とはねつける方ではなく、それを受け止め、受け入れ、取って置きの「宝物」を持ち出してきて私たちにくださる方なのです。このイエス様に信頼して進んでいきましょう。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、変貌山の後の山の麓での出来事からをともに学びました。私たちの現実の生活は自分の手に余る問題が次から次へと起こり来る、待ったなしの現場です。そこでイエス様の招きの声を聴き、「信じます。不信仰な私をお助けください。」とありのまま応答し、祈り願う者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
