□2025-01-19 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書7:1-13
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(26)「人間の言い伝えか神の戒めか」
導入
A. 本日のテーマ
今日のテーマは、説教題にも掲げましたように、「人間の言い伝え」か「神の戒め」か、ということで、二項対立のわかりやすい構造になっています。これが縦軸だとするとそこに加えられる横軸はエルサレムの宗教指導者たちとイエス様との対立です。この横軸の対立構造は、マルコの福音書を一貫して流れる一つの太い流れです。
B. 本日のポイント
今日はここから三つのことを学んで行きたいと思います。
Ⅰ. 対立のきっかけ
Ⅱ. 「恐れ・プライド」対「愛」
Ⅲ. 「熱心・犠牲」対「神との人格的な交わり」
この3点でお話していきます。
Ⅰ. 対立のきっかけ
今日のテキストに記されている具体的なできごとをまず見ていきたいと思います。
A. 宗教指導者たちからの指摘
①パリサイ人、律法学者
7章1節に「パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たち」という表現が出てきます。「律法学者」という言葉は、すでに1章22節に最初に登場しています。そこでは、イエス様が語る言葉に権威があることを言い表すために「律法学者のようにではなく」と、権威を感じさせないネガティブは存在として引き合いにだされました。
その後、2章に入り、また登場しますイエス様が4人の友人に床に載せられたまま連れてこられ、天上からイエス様の目の前につり降ろされた中風の人に向かって、イエス様がいきなり「子よ。あなたの罪は赦された」と宣言され場面です。そこに居合わせた律法学者たちは、心の中で「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」と言ってつぶやいたのです。これは、間違ったことは言っていないのですが、イエス様がどういうお方かを取り間違え、イエス様の権威に挑戦している姿です。
続いて2章の次の記事で、取税人マタイが弟子に召され、その壮行食事会にイエス様と弟子たちが同席しているのを見とがめてパリサイハの律法学者たには、こう言いました。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」これは、今日のテキストとも関連してきますが、聖いことと汚れたことという大切な領域を根本的に間違ってとらえているというところに端を発しています。
「パリサイ人」という言い方では更に、2章の後半、3章の始めにもイエス様の対抗勢力として登場し続けます。イエス様の短い公生涯は、このようにエルサレムの宗教指導者たちとの対立ということが大きな太い線としてあるのです。
②昔の人たちの言い伝え
今日のところは、食事の席でのことです。お弟子さんたちのある者たちが洗わない手でパンを食べていたのを彼らが見つけたのです。そしてこれまでと同じようにすぐに詰問してきます。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」と。これは、お母さんがこどもに「あんた外から帰って来たんだから、手洗いなさい」というような、衛生的な観点から言われたことではありません。そうではなくて、儀式的な汚れを言っているのです。
ユダヤ人はこの時までにかなり複雑で、不幸な歴史を辿ってきました。そして、世界の中でたった一つ、神の言葉を託された民族としての強烈な自負がありました。ですから、度々経験した自民族の不幸な歴史は、自分たちが神のことばに背いたことの結果だというのが彼らの歴史解釈でした。それは、正しい解釈なのですが、人間は愚かなので、その正しい認識に基づいて正しい道に帰る、その帰り道を間違えるのです。そこに行き過ぎが発生していまうのです。
もともとは、モーセが神から授かった律法の中に祭司が幕屋で奉仕をするときに身を清めるようにとの規定がありました。ユダヤ人たちはこれを軽々しく破らないようにするために、律法の周りにいくつもの細かい規定を設けて本体の律法には絶対に違反しないようにしようとしたのです。本来、祭司に対する規定であったものを、一般人にも適用し、更に律法が言っていないことまで事細かに規定したものの集合体が、「昔の人たちの言い伝え」として当時の人々の生活を縛っていました。
イエス様の弟子たちは、いわゆるアウトローの人たちが比較的多かったので、こうしたことに頓着しない者がいたのでしょう。それをパリサイ人、律法学者たちが目ざとく見つけてイチャモンを付けて来たのです。
B. イエス様の応答
これに対して、イエス様は、二つのことで返されます。
① イザヤ書からの引用
一つはイザヤ書を引用して彼らの偽善を糾弾するということです。
7章6節後半と7節にはイザヤ書29章13節からの引用です。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間に命令を、教えとして教えるのだから。」というのです。
イエス様は、宗教指導者たちが、「昔の人たちの言い伝え」と表現したことを、それは神が教えたことではなく、人間の教えだと厳しく指摘されました。ここには、悲しい人間の現実があります。神の教えを守ろうとして熱心にやって来たことの積み重ねが、神のことばから離れた人間の教えになってしまっているという現実です。
② コルバンと宣言したら
イエス様が返された二つ目のことは、当時の「コルバン」という風習を例に出しての偽善の糾弾でした。「コルバン」とは、「捧げもの」を意味するヘブル語の音訳です。人が自分の財産に対して「これはコルバンです」と宣言すると、それは神にささげられた神聖な物として扱われることになり、他の目的に使用されることが出来なくなるのです。それが、恣意的に使われると、たとえば、親が老後の生活に困っていたとしても、コルバンと宣言された財産は親のために使わなくて済む、というまことに本末転倒なことになってしまうのです。そして、そういう例がこの時代に実際にあったようです。
それで、イエス様は、このコルバンという風習を引き合いに出して、神様への捧げものを大切にするという、それ自体は正しいことを隠れ蓑にして、実際には、自分の財産を私利私欲のために守る、そればかりか、モーセの十戒の中でも中核をなす「父母を敬え」という大切な戒めをないがしろにするために使われている、と手厳しく糾弾されたのです。
ここまで横軸の方を見てきましたが、これから、縦軸の「人間の言い伝え」VS「神の戒め」という二項対立の方に話を進めていきたいと思います。
Ⅱ. 「恐れ・プライド」対「愛」
その一つ目は、「恐れ・プライド」対「愛」です。
A. 「恐れ・プライド」
①「恐れ」
細則を形式的に守ることに熱心な人の特徴は、それが恐れから出ていることです。学校の掃除当番のようなものでしょうか。自分たちの教室をきれいに保ちたいという思いは、もちろん誰にでもあると思います。しかし、一日くらい掃除しなくても、そんなにひどく汚くなるわけではありません。しかし、今日の当番をさぼらない理由は、さぼると大変なことになるから、という恐れである場合が少なくないのではないでしょうか。先生に怒られるから、下手すると明日一人でやらされたり、友達からの信頼をなくしたり、というネガティブなことにならないように、という発想です。
②「プライド」
そして、面白くなくて、形式的にやっていると、やっていること自体がプライドに置き換わっていくのです。まるで、そこにはポイント交換のシステムが出来上がっているかのようです。自分は、こんなにまじめにやってるんだから、人よりポイントが積みあがっていないなんてことはあり得ないよね、というのがプライドになっていきます。
令和になり、急速に音を立ててなくなりつつあるのだと思いますが、昭和の体育会系的な縦社会の習慣・風習というのはこういう仕組みでできていたのではないかと思います。昭和の体育会系の逸話の例として、「練習中に水を飲まない」というのがありました。どうして水を飲んではいけないのか、胃を冷やすから、とか水を飲むと後でしんどくなるからとか少しだけ身体的なもっともらしい理由も聞いたことはありますが、そのほとんどは、精神論、根性論からきていたようです。水を飲むことは「甘え」「弱さ」であり、水を飲みたいのを我慢することで根性を鍛える、というような発想が根底にあったようです。この構造だと、水を飲まないことにより、それはプライドに繋がり、途中で飲んでしまう弱いヤツを裁き、見下すという精神構造になっていきます。悲しいことに、これは昭和の体育会系の中だけではなく、聖書時代のユダヤ人の社会の中にも、そして、現代のキリスト教会の中にも、同じことが言えるのではないかと思います。
B. 「愛」
①愛の本質
この「恐れ・プライド」という動機の反対は何かというと、それは「愛」です。人間社会はどこまでも不完全なものですが、そうは言っても、不完全ながらもこの「愛」というものが動機となっている関係も見られます。親子の関係、夫婦の関係、兄弟姉妹の関係、親友、恋人同士の関係。自分が相手することが、しないと困ったことになるからというネガティブな動機からではなく、また、どんなに自分が相手に何かをしたとしても「これで自分はこれだけポイントを貯めた」とか「こんなにしたのだから自分は大したものだ」などという意識を持たない関係です。
①愛の具体例
赤ちゃんに夜中に何度起こされても、我が子のお世話をするのは、なにか打算が働くからではないと思います。お世話しないと泣き止まないから、近所迷惑だから、老後面倒見てもらえないから、周りの人たちからちゃんと子育てしてないと烙印を押されるから、など、そんなつまらない理由からではないと思います。もちろん、そうしたことも頭をよぎることがあるかもしれませんが、それがメインの理由にはならないと思います。
ひとことで言うと「かわいい」からですよね。この「かわいさ」のために何でもやってあげたい、という気持ちになるのですよね。「かわいい」からやったことは、自分の喜びです。それが「愛」の自然な形です。
Ⅲ. 「熱心・犠牲」対「神との人格的交わり」
もう一つ考えたいことがあります。それは、「熱心・犠牲」対「神との人格的交わり」というものです。
A. 「熱心・犠牲」
①間違っていることに熱心
パリサイ人、律法学者は、これまで見て来たように、「神の戒め」から逸れて、「人の言い伝え」という「まがい物」を「間違った動機」で求めているのならば、命がけではなく適当に手を抜いてやっていたのでしょうか。それが、そうではないところが厄介なのです。バークレーという人の注解書にこんな例が書かれていました。あるラビがローマによって投獄されました。飲むために牢獄で与えられた水を、今日問題になっているように、手を洗うために使い、命を落としかけた、というのです。
人間は、案外、間違った目的を間違った動機で行う時にも、熱心さは出てくるのです。命がけでそれを追求するのです。犠牲を厭わないのです。自分の生活の快適さも、スケジュールの都合も、命の危険さえも差し出すのです。
②祝福を対価で買い取る
それによって、見返りがあると計算しているからです。一つは人の評価です。「あの人はあんなに熱心で犠牲を払っている、偉い人だなー!」と言ってもらえれば、思ってもらえれば割が合うのです。また、その熱心と犠牲を神様がちゃんと見て報いてくださる、という思いです。これは、厳しい言い方になるかもしれませんが、神様の祝福を自分の熱心と犠牲で買おうとしていることになるのです。
B. 「神との人格的な交わり」
このまるで神様との間に取引を成立させようとするような関係。神様に自分の熱心と犠牲を差し出して、これで祝福が来ないなら、「正義の神」と呼ぶことをやめて「不義の神」として訴えますよ、と言わんばかりの関係の対局にあるのはどんな関係でしょうか。
それは、神様と人格的な交わりを楽しむ関係です。イエス様が引用されたイザヤ書の言葉にヒントがあるように思います。ここに引用されていることをひっくり返すと
①神様を口先ではなく心から敬う、
②神様に受け入れられる礼拝の民である、
という二つのことが出てきます。
① 神を心から敬う
神様との正しい関係を持つとしたなら、それはどこから始まるのでしょうか。それは、神様を敬うことからです。言い換えると、神様を神様とすることからです。そしてその第一歩は、造り主を覚えるということです。自分は偶然、個々に存在しているのではない。お父さんとお母さんが私を作ったのでもない。人間には人間を作り出すことはできません。精子と卵子が受精して受精卵が出来て、なぜ、そのただの物質が人格をもった人間になるのでしょうか。いのちの与え主である神様が、一人一人の人間を愛して作ってくさったからなのです。作り主を覚えるということが基本中の基本です。
② 礼拝者
そして、次に続くのが礼拝者として神様と繋がるということです。礼拝とは、ただ単に、讃美歌を歌い、聖書を学び、祈り、献金することではありません。そのようなプログラムが礼拝の本質ではありません。礼拝とは、生ける神との人格的な交わりです。人間同士の交わりの中でも、心が通い合わない形式的なものがあります。と同時に、心と心が通じ合い、人格的に交わることが出来た、嬉しかった、楽しかった、知り合うことができて新しくされた、深められたという経験を持つことがあるじゃないですか。
神様との関係も同じです。ただの形式で、心が通じ合わない礼拝もあり得ます。しかし、神様がすべてをもって私を愛していてくださることを受け止め、わたしも私のすべてをもって神様を愛しますと告白できたときに成立する生きた交わりは、人をほんとに幸せにします。
それが可能になるためにこの世に来てくださったのが神の御子イエス様なのです。そのイエス様がどういうお方かを描くのがマルコの福音書のテーマなのです。今週も、このイエス様との交わりを大切にすごしていきましょう。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様がパリサイ人、律法学者たちの偽善を厳しく糾弾された記事を学びました。私たち人間は、まことに愚かで、どこからでも間違いに迷い込むものです。熱心だからといって、それだけで良いわけではありません。犠牲を払っているからといってよいわけではありません。私たちの内に愛が働いているかを常にあなたから探られて、嫌々やるのではなく、何かの為にやるのでもなく、神様を敬い、感謝し、愛し、そして神様が周りに置いていてくださる人々を愛するがゆえに、この事をし、あるいはあの事をしない、そういう生き方ができますように、お導きください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
