□2025-01-12 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書6:45-56
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(25)「そばを通り過ぎるおつもりであった」
導入
A. 前回からの繋がり
先週はいわゆる「5千人の給食」と言われるところから学びました。たった5つのパンと2匹に魚が、イエス様の手に握られ、祝福の祈りがささげられ、配られたときに、男だけで5千人、女性やこどもまで入れると1万を超える人々の空腹を満たし、余ったものを集めると12の籠にいっぱいになった、という奇跡の出来事でした。それほどまでに多くの人々のいのちの養いにの元となった、捧げられた一人分のお弁当は、私たち一人一人の生涯を象徴していました。また、もっと直接的には、十字架で捧げられたイエス様のいのちを象徴している、というお話をいたしました。
B. 本日の流れ
今日は、それに続く部分ですが、簡単に言うと、その後の移動中のことと、移動先での出来事、ということになります。
まず、本日のポイントを3つ挙げておきます。
Ⅰ. イエスと群衆の関係
Ⅱ. イエスと父なる神の関係
Ⅲ. イエスと弟子たちとの関係
この3点でお話していきます。
Ⅰ. イエスと群衆との関係
A. イエスの人気が高まる
もともと、宣教旅行から帰って来た弟子たちに、休養をとらせる必要をイエス様が感じて、人里離れた寂しい場所でリトリートの時をもつために向かったところに、群衆が先回りして追っかけて来たのが、5千人の給食のそもそもの発端でした。ですから、5千人の給食という奇跡が行われる前の時点で、すでにイエス様の動員力はものすごいものがあったわけです。
それに加えて、当時も今も変わらず人々の一番の関心の的であるパンの問題、言い換えると経済問題において、イエス様はこの5千人の給食という奇跡で絶大な信頼を勝ち取ってしまったと言ってよいでしょう。病気を癒してくれる、悪霊を追い出してくれる、よいお話をしてくれる。それもものすごくありがたいです。しかし、何と言っても、この人についていけば、食いっぱぐれがない、と思わせてくれたことはイエス様の人気上昇に拍車をかけることになったでしょう。
B. イエスは群衆から距離を取る
しかし、イエス様はそのような人気を好まれませんでした。もっと、正確に言うならば、そのような理由でついて来ようとする人びとから距離を取ろうとされました。そのように言うと消極的な感じがします。裏っ返してもっと積極的に言うとこうなります。イエス様は、今、ここで何も手を打たずに、この群衆の中に盛り上がってきているエネルギーに身を委ねるならば、ご自分は「貧困と飢え、あるいは重税から救う経済的救世主」に祭り上げられてしまう。それをイエス様は、積極的に、はっきりと拒絶されたのです。
そのために、イエス様は、5千人の給食の場所から弟子たちを、いち早く離れさせようとしました。また同時並行して、イエス様はお一人で群衆を解散させました。
今の文脈からは離れてしまいますが、ヨハネの福音書の2章24節にこういうお言葉があります。「しかし、イエスご自身は、彼らにご自分をお任せにならなかった。」まさに、この短い言葉でこのマルコの福音書の5千人の給食直後のイエス様と群衆との関係を端的に言い現わすことが出来ると思います。
C. 群衆はやがて離反する
福音書に出てくる群衆は、いつも自分のことだと思って読むのがいいと思いますが、群衆はイエスについて深い関心を持っています。犠牲を厭わず、イエス様の行くところ行くところについていきます。しかし、群衆がイエス様に期待していることと、イエス様が群衆にあたえようとされていることは、大きく乖離していました。イエス様の生涯は、人気という人間が一番弱いものによる誘惑に常にさらされながらも、この隔たりを常に意識して、丁寧に距離を取り、避けながら歩んでいかれたのです。もちろん、十字架への道をです。
実際、福音書の前半に登場するイエスの追っかけをしてどこにでもついて行った群衆は、やがてイエスを見限り、最終的にはエルサレムの宗教指導者たちに先導されて「十字架につけろ」と叫びに飲み込まれていってしまうのです。
D. 現代の教会と人気
現代において、教会の働きを進めていくときにも同じ問題があります。人気の問題です。人々に届くためには、人々の関心を引きつけなければなりません。今の時代の人が、面白いと思うこと、興味を思えることをしないと、来てもらえない、見てもらえない、聞いてもらえない、ということがあります。そして、一旦、多くの人の関心を集めて人気がでたならば、その人気を保とうとするのが人間です。その誘惑を免れる人は一人もいません。しかし、少なくとも覚えておきたいことは、我らの主は、今日学んでいるようにして、群衆の人気を警戒し、群衆との距離を取り、群衆のご自分を祭り上げようとする力に持って行かれないようにするために細心の注意を払ってこの地上生涯を全うされた方なのです。
Ⅱ. イエスと父なる神様との関係
次に、イエス様と父なる神様との関係を考えていきたいと思います。その手掛かりは、46節です。「そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。」という短いひとくだりです。
福音書を読んでいくときに、いつでもイエス様と弟子たち、群衆たちとの関係に加えて、あるいはそれに先行するものとして、イエス様と父なる神様との関係を念頭に入れておくことが大切です。
A. イエスは父との二人ボッチを好む
イエス様が身体を張って作り出そうとして状況というのは、ただ単に群衆がいなくなった静かな場所と時間というだけではありませんでした。もっと踏み込んで、父なる神様と二人きりになる時間と場所こそが、イエス様がこの時、どうしてもご自分のために必要だと感じられたものだったのです。私たちはなかなかこのモードに入ることができません。何か大きなことにぶち当たると、私たちは神様をそっちのけにして、東奔西走していろんな伝手に頼ったり、いろいろな知恵を引っ張り出してきたりと、あたふたとしてしまいます。しかし、イエス様は、こういう時だからこそ、群衆を解散させ、弟子たちとも離れて、一人で山に入って父なる神様との二人ボッチの時間をしたい喘がれたのです。
B. イエスは忙しいほど祈る
① イエスの姿
残念ながら、イエス様はその時、どういうことばでどのように祈られたのかは聖書に記録がありません。しかし、この「そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。」という短い一節だけでイエス様の基本形がいたいほどよく伝わってきます。イエス様は、なによりもよく祈るひとだったのです。そして、大勢に囲まれれば囲まれるほど、一人になりたいと思われる方だったのです。多くの病人が群がり、多くの人々がご自分の口からでる神の国のことばに耳を傾けたいとやってくると、父なる神様をだけ相手にして祈りに専念したくなる、そういう人だったのです。
② ルター、そして私たち
宗教改革者ルターは非常に多忙でした。彼は説教、執筆、教育、組織運営など多岐にわたる活動をこなし、さらに聖書翻訳という大事業にも取り組んでいました。その中でルターは、「今日は忙しいので3時間祈らなければならない。」と言ったというエピソードが残っています。しかし私たちの多くは、大勢に囲まれれば囲まれるほど、神様に向かう時間を奪われていくのではないでしょうか。
この点においても我らの主の姿を今日のテキストからしっかりと心に刻んでおきたいと思います
Ⅲ. イエスと弟子たちとの関係
それでは、3つ目のポイント、イエス様と弟子たちとの関係に入っていきましょう。ここが今日の中心となるところです。
A. 順風満帆な船中の弟子たち
イエス様が一人祈るために山に向かわれ、群衆は解散され、弟子たちは彼らだけで、ベツサイダに向けてガリラヤ湖を舟で進んでいきました。彼らはどんなことをこの舟の中で話していたのでしょう。聖書を読むとき、聖書に書いていないことを想像すてみるということは、邪道な脇道に迷いこむような、やめておいた方がよいことのように思えるかもしれません。しかし、時には役立つこともあるでしょう。私は、大きく二つの話題が飛び交っていたのではないかと思います。
一つは、2人ずつで遣わされた宣教旅行についての話です。この時点に至るまで、そのことについてシェアする時間は十分に持てていなかったではないでしょうか。もう一つは、もちろん、5千人の給食の奇跡についてです。もしかしたら、弟子たちも、パンと魚がいったいどのようにして増え広がって行ったのか、その実際のところを、証言を寄せ集めて特定しようとしたかもしれません。いずれにしろ、網を捨てて、親を捨てて、取税人という儲かる職業を捨てて、何もかも捨ててイエス様について来た自分たちにとって、その選択が正しかったと思わせるような成功談に花が咲いていたのではないでしょうか。
B. 向かい風が吹いてくる
しかし、そのようなときに、向かい風が吹いてくるのです。少なくとも、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師たちにとっても自分の庭のように知り抜いているガリラヤ湖で、前に進めなくなったのです。そして、時間がどんどん経過してとうとう夜が明け始めることにまでなってしまいました。一晩中、漕ぎあぐねたということです。
C. イエスの登場
① 不思議なことば
そこにイエス様が登場します。48節を見ると、イエス様は湖の上を歩いて弟子たちのところに近づいて行かれました。そして、続きにとても気になる表現が出てきます。「そばを通り過ぎるおつもりであった。」今朝はこの不思議な一句をそのまま説教題にしました。これはいったいどういうことなのでしょうか。
イエス様は遠くではよくわからないので、近くまで行って弟子たちが困っている様子をわざわざ助けるつもりはなく、ただ見に行かれたのでしょうか。すなわちひやかしにいかれたのでしょうか。イエス様にその解釈を当てはめることが無理だとすると、この「そばを通り過ぎるおつもりであった。」というところには、私たちが知らない何かを補わないと正しく理解できない、ということになります。
② 神顕現
その補うべきことは何かというと、それはもちろん旧約聖書の出来事のあるパターンです。それは、神顕現という現象の類型です。霊的な存在であり、無限で超越的な存在者である神が何度か、人間に現れる、顕現されたという記事が旧約聖書に記されています。
a. モーセに現れた神(出33:19-22)
一つ目は、出エジプト記33章19節から22節にあるモーセに神様が現れた記事です。「あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。」と神様はモーセに言われました。すなわち、罪ある人間はモーセといえども、栄光の神を正面から直視することはできません。それなので、モーセが岩の裂け目の中で防御されているときに、そのそばを神が通り過ぎることによって、神がご自身の臨在と栄光をお示しになった、というのです。
b. ヨブ記にしるされた神の顕現(ヨブ記9:8-11)
二つ目は、ヨブ記の9章8節から11節に書かれていることです。「神はただひとりで天を延べ広げ、海の大波を踏みつける。(少し飛ばして)神がそばを通り過ぎても、私には見えない。進んで言っても、気付かない。」こちらのヨブの告白には、イエス様が湖の上を歩いてこられたという部分と連動する、「(神は)海の大波を踏みつける」という表現と、「通り過ぎる」という表現がそろい踏みしています。
c. エリヤに現れた神
その他にも、ホレブで洞穴の外にたったエリヤの前を主が通り過ぎ、大風、地震、火、そしてそれに続いてかすかな声があった、という記事も思い出すことができるでしょう。
d. エゴ・エイミー
旧約聖書を三つ引用しましたが、マルコの今朝のテキストに戻って来たいと思います。「湖の上を歩いてこられた」たということと、「そばを通り過ぎるおつもりであった」ということに加えて、もう一つ、この時のイエス様の行動が旧約聖書の神顕現のデモンストレーションしている要素として指摘できることがあります。それは、50節に出てくる「しっかりしなし。わたしだ。恐れることはない。」の真ん中の「わたしだ」という言葉です。これは、ギリシャ語では「エゴ・エイミー」となっていて、更には、その大元は、出エジプト記3章14章で神様がモーセの質問に答えてご自分のお名前を明かした際に言われたことに遡って行きます。「わたしの名前は「わたしはある」というものだ。」というのが、その時の神様のお答えでした。名前の本体の部分は「私はある」なのですが、この部分が英語では「アイ・アム」、ギリシャ語では「エゴ・エイミー」なのです。
ですから、イエス様はこのガリラヤ湖で漕ぎあぐねている弟子たちに、湖の上を歩き、「わたしだ」と仰ることによって、すなわち神様のお名前を口にされた、ということになるのです。舟の中に乗っていた人たちにはそのすべてが神の顕現であることがわかったのです。
D. イエスの同船とその後
① 湖の風は止む
ここまでが、向かい風に翻弄される船中の弟子たちと、大波を踏みつけて登場されたイエス様との間の緊張が走るやり取りです。しかし、ひとたびイエス様が舟に乗り込まれると、風は止みました。私たちの人生行路を象徴する書き方です。荒波を潜り抜け、向かい風に漕ぎあぐねるような難儀な人生行路を進めている私たちの舟にイエス様が同船してくださるとき、風は止むという絵です。
② 心の波は静まらない
しかし、今回の出来事は、その風が止むという側面とは対照的なもう一つの側面に注目しているようです。それは、その直後、51節の最後の言葉と52節の言葉です。「弟子たちは心の中で非常に驚いた。彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。」というのです。すなわちガリラヤ湖の風は止んだけれども、弟子たちの心の波は静まらないままだったという非常な好対照をマルコは強調しいているのです。
③ ゲネサレでの癒し
今日は、この先の56節までを扱うことにしていますので、この時点で簡単に53節から56節までのところまで見て、その後で締めくくりに進んで行きたいと思います。53節でイエスも乗せた船はゲネサレという地につきます。そしてうわさを聞き付けた人々が病人をイエスのところに連れて来ます。56節はすごいことが書いてあります。イエスが行かれるところ、どこにでも病人が広場に寝かされ、イエス様はそういう人たちに触り、触った人々をみな癒された、という癒しオンパレードの記事です。この一区切りは、理解するのに遅く頑なな弟子たちとは対照的に非常に素朴に癒しを求めてイエスに近づいて来る無名の人々を描いているように感じます。イエス様に政治的、経済的な王になってほしいという要求を持つ群衆とも、あるいは表面的には清さを大切にしながら腹黒い存在として描かれる宗教指導者たちとも違う素朴な求めによってイエス様と繋がる人々として描かれているのでしょう。
まとめ
① 弟子たちの不理解と頑なさ
さて、ここから、まとめに入りたいと思います。5千人の給食の記事、それに続く、ガリラヤ湖上での向かい風の出来事を通して強調されているのは、弟子たちの不理解とかたくなさです。これだけの出来事が続いて起きても、そこに居合わせても弟子たちの理解はまだ開かれない。という状況です。このイエス様の厳しめの言葉を読むと、私たちの頭には、「それではいったい、パンの奇跡はなんだったんだろうか。イエス様の湖上歩行とエゴ・エイミーという言葉による顕現はなんだったのだろうか。それよりも、もっというなら、こんなにまだわかっていない弟子たちをイエス様は、よくも2人ずつペアーにして宣教旅行に派遣したもんだ」と疑問がわいてくるかもしれません。
② 寄り添うイエス様
聖書を読んでいくと最終的にこの弟子たちの目が開かれ、イエス様がどういうお方なのかを理解できるようになるのは、ペンテコステの出来事によって聖霊が注がれてからです。しかし、私は思うのです。だからと言って、ペンテコステだけを強調するのは聖書が教えているところではない。ペンテコステに至るすべてのこと、その場では或いは直接的にはよい結果に繋がらなかった働きかけのすべて、一つ一つがペンテコステに繋がっていくのです。
イチローは、日米通算で4,367本のヒットを打ち、日米通算の生涯打率は3割2分2厘です。少し水増しして3回に一回ヒットを打ったとすると、3回に2回アウトになっているわけです。イチローはあるインタビュで「自分の4千本のヒットより、8千回のアウトに意味がある」というようなことを言ってます。
イエス様も、4千本のヒットより、8千回のアウトに意味を見出して、理解の遅い弟子たちに伴い続けて、十字架に進んでくださったのです。そして、21世紀を生きる、私たちにも同じようにしてくださるのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様がこの地上を歩まれた時に、いかに群衆に対して丁寧に距離をとり、いかに父なる神様と親しく交わり、いかに忍耐強く弟子たちと接しられたかを学びました。どんな奇跡も、どんな言葉も、どんな経験も、いっぺんで私たちをまったく別人のように変身させ、神様のことがすべてわかるようになるようには、神様は私たちをしておられません。もっと時間をかけて、失敗を通して、遅い理解をかえって逆手にとって祝福に変えるようにして私たちを導かれます。どうぞ、このとし、この忍耐深いイエス様に導いていただけますように、こころからお願いいたします。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
