□2024-11-10 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書6:7-13
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(22)「遣わすイエス」
導入
- 前回の復習
前回は、マルコの福音書6章1節から6節までのところを扱いました。イエス様が公の生涯に入られた後、初めて郷里のナザレに帰り、安息日に会堂で教えられた場面でした。残念ながら、「あいつの素性は知っている、大工の息子じゃないかっ!」と、ナザレの人々はイエス様を受け入れませんでした。そして、それゆえに、イエス様は故郷では、大きな業をなすことができませんでした。不信仰ということの強さと、逆に私たち一人一人に与えられている価値の尊さに思いを向けました。
- 今日の流れ
さて、今日のところは、ある意味、先週の郷里ナザレでの拒絶の続きと言って言えないことはないところです。6節の2行目に、「それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。」とあります。ナザレは例外として、ガリラヤ地方では、イエス様が行くところ行くところ群衆が集まってくる状況に変わりはありませんでした。そこでイエス様は、大きな方針転換を図りました。それまでは、イエス様とお弟子さんたちは、常に行動を共にしていました。そして、お弟子さんたちは、イエス様の一挙手一投足をいつも見ていました。しかし、イエス様は、この段階で、弟子たちを、ご自分とは別に、ご自分を離れて、弟子たちだけで伝道するように派遣されたのです。
大項目としては、
Ⅰ. 途上の人を遣わす
Ⅱ. 表面の乏しさと豊かな供給
Ⅲ. ご自身の権威を与えて
この3点でお話していきます。
Ⅰ. 途上の人を遣わす
A.「にも関わらず」の派遣
それでは、さっそく第一の項目、「途上の人を遣わす」に入って行きます。御国の福音を宣べ伝える働きを推し進めていくために、分担するとか、チームを編成するとかいう発想、あるいは戦術はごくごく当たり前のように思われます。しかし、私は単純にそうとばかりは考えられないのです。
1. 弟子たちはまだ受難予告すら受けていない
なぜかと言うと、2つの理由があります。一つは、この時点での弟子たちは、自分たちが伝えるべく託されている御国の福音の全貌をまだ知らず、よく理解もしていなかったからです。マルコの福音書では、イエス様が初めて弟子たちにご自分がやがて十字架につけられて殺されていくことをお話になったのは、9章31節です。今はまだ6章の初めですから、まだまだ時間も必要だし、色々な出来事も経験しなければ、弟子たちに取っては受難予告を聞かせてもらう段階まで、辿り着かないという状況だったのです。
2. イエス様はまだ十字架に架かっていない
また、もう一つ、弟子たちばかりではなく、イエス様のサイドから言っても、人間の形を取るという受肉まではきたけれども、一番、肝心な十字架での贖いの死を遂げていない段階です。福音の中で一番重要な、あるいはイエス様の地上生涯の果たすべき使命の中で最も重要な、ご自身の命を私たち罪人の身代わりとなって差し出す、という部分がまだこれからの段階だったのです。
しかし、ここで大切なことは、それにも拘らず、イエス様は弟子たちを宣教の業に遣わされたという事実です。こんなにまだ理解が浅く、また、まだ福音の真っ中心を知らされてもいないのに、そもそも遣わす理由は何でしょう。
B.大胆に委ねる神
1. 他の宗教者の実働年数
翻って考えてみて、イエス様の実働時間は本当に短いものです。
①仏教の開祖ブッダは、35歳で悟りを開き80歳で入滅したとされていますので実働45年間です。
②ムハンマドは、40歳の時、啓示を受け亡くなったのは63歳の時だったと言われています。実働23年間です。
③パウロについてはどうでしょうか。諸説あるようですが、中心的なところで言いますと、ダマスコ途上での回心がAD34年、ローマで処刑されたのがAD64だとすると、実働30年です。
2. 世界史上の彗星のような天才
世界史上、彗星のごとく現われ彗星の如く去って行った天才、しかもその影響力を長く後世に残している人物としてアレクサンダー大王とかナポレオンとかの名前を挙げることができるでしょう。それでも、①アレクサンダー大王の統治期間は13年、②ナポレオンは約10年です。これらの例と比べても、イエス様の活動期間が長く見積もっても3年半といのが如何に短いかに驚かざるを得ません。
3. キリスト教は弟子たちが宣べ伝えた
今日、キリスト教が最大の宗教になるまでに世界中に広がっていったのは、イエスご自身が生きている時に長年にわたり身を粉にして伝道に勤しみ、亡くなるまでには後の発展が約束されるような堅固な信徒集団を残していったからではありません。キリスト教について言えば、これは、イエスが宣べ伝えたのではなく、弟子たちが宣べ伝えたのです。
4. 欠けの多い途上の人に福音は委ねられた
歴史的に見れば、十字架、復活、そしてペンテコステによって弟子たち一人一人の上に聖霊が注がれ、力を受けて本当の宣教が始まったのですが、弟子たちを派遣するという一番のコアな形は、すでにこのマルコ6章の段階で現れ、今日に至るまで変わりはないのです。私たちの神様は、他人には何も任せられず自分で何から何までやるようなタイプの神様ではないのです。私たち一人一人の小さな人間、誠に欠けだらけの人間、失敗ばっかりしてきた人間に、福音を委ねる大胆な神様なのです。
Ⅱ. 表面の乏しさと豊かな供給
A.持ち物の少なさ
次に大きな二つ目のポイント、「表面の乏しさと豊かな供給」ということに話を進めていきたいと思います。第一のポイントでは、“遣わされたのはどんな人達だったか”という視点から考えました。二つ目のポイントでは、彼ら12弟子は“どのように遣わされたのか”ということに注目します。
これが結構意外なのですね。7節から10節あたりまでに書いてあります。細かく箇条書き的にピックアップして、短くコメントしていきます。
- 2人ずつ遣わした
これは、とても実際的でよく考慮された賢い方法だと思われます。一人でできることと、2人ならできることは2倍ではなく雲泥の差があります。
- 汚れた霊を制する権威をお授けになった
このことについては、大項目の3で取り上げますので、ここでは簡単に済ませおきます。派遣する弟子たちに与えたものとして真っ先に出てくるのが権威です。
- 持っていって良いものは、一本の杖、履き物、一枚目の下着
- 持っていってはいけないものは、パン、袋、銅巻きの小銭
この③と④が一番引っかかるところですよね。現代は移動手段が発達し、現代人は古代人と比べ物にならないくらい旅をするようになりました。また、日本みたいな国では、全国至る所にコンビニがあって、忘れ物をしても旅先で買うことも簡単です。そこで、現代人の旅慣れている人の特徴は荷物が少なくコンパクトだということです。しかし、それは、必要最小限を押さえた上でのコンパクトさです。けれども、どう考えても、イエス様の指示は私たちの常識からすると、必要最小限を下回っているとしか思えません。
B.このミッションの豊かさ
けれども、この少なさは持ち出しの少なさであって、供給の絶対量の少なさではありません。むしろ、この指示された持ち物の少なさは、このミッションが自分の力で遂行するものではなく、遣わす側の備えが大きいことを逆説的に表しているように感じます。
適切な例えではないかもしれませんが、軍隊のことを考えてみましょう。一つの国の軍隊に召集され、どこかに派遣される時には、その国の兵隊さんは、自分で何日分も食料や着替えやお金を用意して戦地に向かうでしょうか。全て軍から支給されるのです。持っていく必要がないのは、必ず支給されるからなのです。
弟子たちが、2本目の杖、二枚目の下着、パンも、袋も、お金も持っていくなと言われた理由は、このミッションが神様のお抱えのお仕事であることを表しているからなのです。
Ⅲ. ご自身の権威を与えて
A.権威を与えられた
大きなポイントの3番目に進んでいきます。3番目は「ご自身の権威を与えて」としました。先ほどの2つ目のポイントでは、持っていってはいけない、という制限の方に目を向けましたが、最後の3つ目のポイントでは、イエス様が積極的にハッキリと“与える”とおっしゃったことに注目したいと思います。それは、先ほどすでに簡単に見ましたが、7節に出てくる、「権威」です。より具体的には、「悪霊を制する権威」です。そして、その結果がどうであったかが、12節と13節に書かれています。
B.イエスと同じ働きを
「12人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。」とあります。これは、ひと言で言うと、これまでのイエス様の働きと同じことをした、と言うことです。
①「悔い改めるように宣べ伝えた」のは、マルコ1章15節に出てくるイエス様の宣教第一声の内容そのものです。彼らは、イエス様がそれまで、どこにいっても、安息日の会堂でも、ガリラヤ湖も岸辺で船の中から語った時も、いつもイエス様の話の主題だった「悔い改め」を宣べ伝えたのです。
②そして、多くの悪霊を追い出したこと、多くの病人を癒したことも、同様に、これまでイエス様がガリラヤ湖を中心に様々なところを巡りながらされて来られた力ある業でした。
C.イエスの働きの特徴は“権威”
イエス様の働きのはじめに接した人々の印象をもう一度思い出してみましょう。マルコ1章22節にはこうあります。「人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威あるものとして教えられたからである。」続いて1章27節には「人々はみな驚いて、互いに論じ合った。『これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。』」
イエス様の教えと力ある働きの何といっても抜きん出た特徴は「権威」でした。それまで見たことも、聞いたこともない、新しい、そして何ものもそれに従う権威でした。そして、今や、12弟子たちは、そのイエスが持っていて実際に働かせた権威を与えられ、イエスと同じようにそれを用い、イエスと同じように力ある業が実際に行われたのです。
D. “権威”について
ここで考えたいことが2つあります。
1. 権威と能力の違い
一つは、権威と能力の違いです。大谷翔平がホームランを打つのは、彼個人の能力によってです。その大谷翔平も見逃しの三振をすることもあるでしょう。大谷が見逃した際どいボールにストライクを宣言するのは、その時のアンパイヤの能力と言うよりは、権威です。彼がストライクと宣言すれば、誰が何と言っても覆らない権威が彼に与えられているからです。私たち主に従うクリスチャンも覚えておかなければならないのは、気にしていなければならないのは、自分の個人の能力ではなく、主から託された権威なのです。私たちはこの世にあって、神の子とされ、神の子の身分にあるものとして歩む権威が例外なく、一人一人に与えられているのです。
2. イエスと同じ業をなす権威
考えたいことの2つ目は、イエス様から権威を与えられた者たちは、イエス様と同じことをする、ということです。イエス様と似たようなことをするのではありません。イエス様と同レベではなく、その一歩手前まで、と言うのでもありません。彼らは、恐れ多くも、イエス様と同じ、同レベの力ある業を行ったのです。
私たちはそのようなことを信じられるでしょうか。この記事は、イエス様ご在世当時という特別な時代だったから、イエス様から直接遣わされたから出来たのできたのであって、今の私たちには、こういうことは割り引いてしか起こらないのでしょうか。
E. 信仰と献身を新たに
私たちの、いえ、私の実際の生活は、今申し上げたような、ちっぽけな、薄められた信頼しか主に置いていないように思います。しかし、今朝、もう一度、この聖書の記事から、主イエス様への信頼と献身を新たにしたいと思います。
主は、私の手持ちの持ち物や、軍資金を当てにして、私の個人的な能力を使って、主の業を進めようとなさる方ではないのです。ご自身が業をなしたのと全く同じ権威を私たちに与えて、私たちの必要を全て備えて、私たち私たちをご自身の代わりに、小キリストとして今日の私たちの生活の現場に遣わそうとされるのです。アーメンと告白し、信仰を持って、ここから遣わされていきましょう。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、イエス様が12弟子たちを2人ずつ組にして宣教の働きに遣わされたところを学びました。今日の私たちにも主は、ご自身が悔い改めを宣べ伝えたのと同じ権威を、ご自身が悪霊を追い出し、多くの病を癒やされた時に用いられた権威を、全く同じ権威を私たち一人一人にも与えてくださることを信じて感謝いたします。そして、遣わしてくださることを感謝いたします。あなたはせっかく肉体を取って、人となってこの地上を歩んでくださいましたが、たったの3年半しか活動されませんでした。御国の福音の宣教は、弟子たちに、そして現代を生きる私たち一人一人に委ねてくださっています。この週、私たちお互いがその尊い使命をそれぞれ今置かれておるところで果たすことができますようにお助けください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
