□2024-10-13 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書5:1-20
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(19)「あなたの家に帰りなさい」
導入
- 前回の復習
前回は、マルコの福音書4章35節から41節までのところを扱いました。イエス様も最初から同船している舟が、ガリラヤ湖上で突風のため沈みかけた時の出来事から学びました。イエス様が言い出し、イエス様も同船していた航海なのに、命を落とすかもと思うほどの危機に見舞われるということは、私たちの生涯にも起こりうること。いや、かえってそのようなことを通してこそ、本当のことを学んでいくのだ、ということを心に留めました。また、取り乱した弟子たちに対する一見冷たく突き放したようなイエス様の対応から私たちの生涯に主イエス様が、付き添ってくださること、ともにいてくださることとは実際にはどんなことを意味しているのか、について学びました。
今日の流れは、
今日は、時間的には先週の続き、同じ日の夕刻あたりに起こったことであると思われます。突風が吹いて来たガリラヤ湖は、イエス様は「黙まれ、静まれ」の一声でなぎになり、弟子たちとイエス様一行は、カペナウムなど、ガリラヤ伝道の本拠地からいうと対岸のゲラサ人の地に到達しました。4章35節でイエス様が「向こう岸へ渡ろう」と言われたので、ここにやって来たのですから、このゲラサ人の地は、イエス様にとっても目的地だったのです。しかし、今日も、また、とんでもない事件が起こります。
大項目としては、
Ⅰ. 墓場で迎えた人
Ⅱ. 正気に返った人
Ⅲ. 家に帰った人
この3点でお話していきます。
Ⅰ. 墓場で迎えた人
A.悪霊につかれた人の様子
嵐が静まったガリラヤ湖を横断した船は、「ゲラサ人の地に着いた」と1節にあります。ゲラサ人の地とは、今日のテキストの最期の節である20節に出てくるデカポリス地方というギリシャ人たちが住んでいる地方を構成している一つの地域です。デカポリスというのは、デカが10を意味し、ポリスが都市を意味しますので、10の都市という意味です。アレキサンダー大王の遠征をきっかけに、この地にギリシャ人が入植して住むようになったのです。ですから、ここに住む人は、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人の宗教、風習に従って生きていた人たちではありません。
このゲラサ人の地には、墓場に住んでいて暴れたり叫んだりする、悪霊に取りつかれた男がいました。これまでも、マルコの福音書には、イエス様が悪霊を追い出された話は幾度も出てきていますが、今回のこのゲラサの墓場に住んでいた男の話は、他と比べて抜きん出て詳しく、悪霊に好かれていた人の様子が書かれています。
①制御不能
大きく二つあります。一つは、制御不能であったことです。3節の後半に「もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。」とあります。鎖を引きちぎるということは、どんな怪力の男にもできることではありません。しかし、悪霊に取りつかれた人は、人間離れした怪力を発揮することがあります。物理的な力や道具も、また他人からのありとあらゆる抑止力も効かない、お手上げの状態でした。
②自傷行為
二つ目は、しかし、この悪霊に取りつかれていた人は、他人に危害を加えていたのではなく、自分自身を傷つけていたのです。誰も制御できず、鎖も引きちぎってしまうこの男は、町に出て来て人々に危害を加えることもできたでしょう。彼がそうしようと思えばだれも防げなかったはずです。しかし、この人は、そうはせず、一人で墓に住み、自分で自分を傷つけていたのです。それが悪霊のすることです。
この二点、すなわち、制御不能であることと、自分自身を傷つけていることは、このゲラサ人の特徴であると同時に、私たち一人一人の姿でもあります。神様から離れて生きているときに、私たちはそのような生き方しかできない者なのです。
B.名前はレギオン
また、この悪霊はイエス様から名前を聞かれて「レギオンです」と名乗りました。レギオンとは、6000人規模で編成された古代ローマの軍隊のことです。ここでは、レギオンという言葉は二つの意味を持っていると思われます。
①数が多い-悪の徹底ぶり
一つは、この男も言っているように「数が多い」ということです。悪は、この小さな一人の人間の中にこれほど詰め込むことができるのか?と思うほどに、私たちの心に巣くい、はびこっているのです。
ガラテヤ人への手紙5章19節からのところに有名な罪のリストと呼ばれるものがあります。「肉のわざは明白です。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」ここにリストアップされた項目は全部で15で、数え上げることができます。
しかし、旧約聖書エレミヤ書17章9節には、口語訳でこういうことばがあります。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」実際には、人の心は、“〇〇個の悪が宿っている”というように、悪の種類を数えることが出来るようなものではありません。すべてがないまぜになって、複合汚染のようになって、そしてそれがまた底知れない深さを持っていて、どれくらいねじ曲がっているか、どれくらい悪に染まっているか、それを誰も知り尽くすことはできない、というのです。レギオンは、人間の心に巣くう罪の徹底さを象徴しています。
②圧倒的な支配
二つ目に、レギオンは、ローマ帝国が領土を広げていくときに送り込んだ軍隊です。その数と武力で圧倒して、新しい土地をローマの支配下に組み入れていきました。レギオンは、他国人による支配を象徴しています。自分の心が自分以外のものによって支配されている状態、それが汚れた霊につかれた状態であり、罪の中にいる私たちすべての人の状態です。日本の国も約80年前、戦争に負けて7年間の占領統治を受けました。日本人が全員イエスと言ってもマッカーサーがノーと言えば、ノーとなった時代でした。私たちの心も、罪の力が圧倒して、私たちを支配してしまうのです。
ゲラサ人の地に到着してすぐに、墓からイエスを迎えに出て来たという人の描写から、罪の姿、その恐ろしさを見させていただきまいた。
Ⅱ. 正気に返った人
次に、大きな二番目の項目として「正気に返った人」ということを見ていきたいと思います。今回のエピソードは、これまで出て来た悪霊追い出しの記事の最大級のもので、特に読む者の心を引くのは、一人の人の中に巣くっていた悪霊がなんと2000匹ものブタに乗り移り、挙句の果てには、その2000匹のブタがガリラヤ湖になだれ込んで皆死んでしまった、というとんでもない事件です。しかし、私は、このエピソードの中で、奇跡中の奇跡と言うべき点は他にあると思います。それは、この男の願いが変えられたことです。
今回の記事では、この男がしゃべっているのか、中に巣くっている悪霊がしゃべっているのかが判然としないところがあるのですが、そこは突っ込まないで、この人がしゃべっているとしてどんな願いを口にしているかを見ていきたいと思います。
A. 私と今のままにしておいて!
まず、6節と7節をもう一度お読みします。「6彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7そして大声で叫んで言った。『いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。』」
最初の願いは、「私を苦しめないでください」ですが、もう少し、分かりやすく言うと、「私に近づかないで、私と関係を持たないで、私を今のままいさせてください。」ということになるかと思います。
B. 追い出さないで!
続いて今度は10節から12節をお読みします。「10そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。11ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。12彼らはイエスに懇願して言った。『私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。』」
これは、この人というよりも中にいる悪霊の願いです。この人の中にしばらくの間駐屯していたが、出て行かざるを得ない状況を察知して、悪霊は自己保身を図ります。この人は、ある意味一番大切な願いを自分では願えない状態にこの時いたのです。この人が、イエス様と一緒になって、自分の内に巣くっている悪霊に対して、「出ていけ」と願ったのではありません。レギオンに圧倒的な数と力で占領統治されていて、自分の本来の願いを願うことができない状態でした。
しかし、イエス様が悪霊の願いを聞き入れられたので、結果的には、この人は、この時点で悪霊から解放されることになります。そして、15節の半ばには、「レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て」という表現が出てきます。
C. お供させてほしい!
そして、この正気に返った人は、18節に「イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。」とあります。
ここに、この人の新しい願いが出てきます。「イエス様のお供をしたい」という願いです。これまで、四人の漁師、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、取税人マタイなどには、イエス様の方から「私について来なさい」とお声を掛けられました。それで、彼らはイエスについて行くようになったのです。しかし、今回は、悪霊を追い出してもらったこの男の方から、「あなたについて行きたいのです。」と願ったのです。
私はこの人がこの願いを自分から自覚的に願ったことこそが、このエピソードの奇跡のマッ中心だと思っています。人は、自分の本当の願いを願うことが出来ないように、心をジャックされてしまっていた。そこから解放され、「イエスについて行きたいのです」と心から願い、それを表明したのは、感動的な瞬間です。
Ⅲ. 家に帰った人
しかし、今日のエピソードでは、ここから更にもう一つ高い山に登っていきます。
A. 良い願いが退けられる
イエス様はなんとこの人のその願いを退けられたのです。先ほどのレギオンの願い、「ブタに乗り移らせてください」には、OKと言われたのに、良い願いである「お供したいのです」という願いは退けられたのです。
この自分から初めて出てきた良い願い、感謝の心から湧き出て来た素晴らしい願いを却下された時こそ、その人の信仰の本質がよく表れるのです。ダビデが、自分の手で主の宮を建てたいという願いを預言者ナタンに告げた時と少し似ているかもしれません。ダビデもそうでしたし、この人もこの信仰のテストにパスすることができました。「こんなに良いことを願っているのに、どうしてイエス様ははねつけるのですか!」と言って、イエス様に食って掛かることもなく、「誰が何と言ってもついて行きます」と我を通すこともしませんでした。
B. 更に良いことが示される
イエス様の指示は、19節「しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。』」というものでした。
ある意味、これは、イエス様について行くより幾重にも難しいミッションだったのではないかと思います。墓場に住んでいたこの人は、当然、この悪霊付きの問題のゆえに、家族に迷惑をかけ、家族はどうすることもできず、この人は家族と修復不可能なほどの断絶を経て、墓場で一人で住んでいたに違いありません。こういう問題に一番、苦労し、傷つくのは、本人であるよりも、多くの場合家族ではないかと思います。その引き裂かれたしまった、これまで自分自身がさんざん迷惑を掛けっとうしに掛けて来た家族の所に帰れ、とイエス様はおっしゃるのです。
イエス様について行くのは、この人以外の人にも出来るミッションです。しかし、このデカポリス地方のゲラサ人の地で、イエス様が自分にしてくださったことを知らせる、すなわち証しする働きは、この人にしかできないミッションでした。
それでこの人はこのあと実際、どういう行動にでたのでしょうか。20節を読みましょう。「それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」素晴らしいですね。彼はイエス様のお言葉に従ったのです。かつては悪霊に取りつかれて、誰も制御できず、自分を傷つけていたこの人が、この一番難しいミッションに、喜んで出て行ったのです。
悪霊に心を占拠され墓場で叫び続け、自分自身を傷つけていた人が、そこから解放されて、「イエス様について行きたい」という自分自身の本当の願いを自分の口で語った。それがこの出来事の奇跡中の奇跡でした。そして、その良い願いは、なんとイエス様から退けられてしまうのですが、その時、イエス様について行くことより遥かに難しい「あなたの家、あなたの家族のところに帰る」というそして「主の憐みの深さ、広さ、大きさをその人たちに知らせる」というミッションにこの人が喜んで向かうことが出来たこと。これが更にまされる奇跡の最高峰なのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。墓場で迎えた人、正気に返った人、家に帰った人と学びました。私たちは私の全部を知られている家に帰るのは、難しく、大変勇気がいることです。しかし、どうぞ、それがあなたの御心であるならば、自分免許の良い願いから離れて、あなたの導きにしたがう者としてください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
