- 2025-11-16 喜多見チャペル 主日礼拝
- 聖書箇所 マルコ12:28-34
- 説教題 マルコの福音書を学ぶ(56)「すべての中で、どれが第一」
- 説教者 山田誠路牧師
序
A. 導入 ―情報過多、オーバーチョイス―
現代は情報過多の時代です。また、オーバーチョイスの時代です。昭和の八百屋さんにはバナナは一種類しか置いてなかったと思いますが、今、少し、大きめのスーパーに行けば、バナナだけで産地、大きさ、糖度、栽培方法などによって、5種類くらいのバナナが陳列されていたりします。政治に関する考え方も、経済に関する考え方も、どんどん新しいものが出てきて、また、変形して枝分かれして、お互いが他者を「分かっていない、間違っている」と否定しあっています。
イエス様が生きておられて時代のユダヤ社会には、守るべき律法が613あったと言われています。現代の外資系企業の従業員規則のようなものを「ドゥーズ・アンド・ドンツ」と呼ぶのだと聞いたことがあります。「こうすべし」の「Do」の複数形と、「こうすべからず」の「Don’t」の複数形で「ドゥーズ・アンド・ドンツ」というわけです。イエス様の時代には、248の「ドゥーズ:すべし」と365の「ドンツ:すべからず」で合計613だったというのです。
現代日本で自動車を運転する際に知っていなければならない交通法規は110種類程度だそうです。しかし、私たちは車を運転するときに、規則が多すぎてどれを守ったらいいんだか、自分がまもっているんだかどうだかもわからない、などということはないと思います。しかし、当時のユダヤは、明らかに規則過剰の社会でした。特に安息日を厳格に守るための規則はとても細かく決められていました。例えば、安息人に歩いてよい距離は約900mまでと決められていました。これ以外に禁止されたいたのは、たとえば、二文字以上の字を書くこと、火を付けること、火を消すこと、結ぶこと、解くことなどです。
ここまで来ると、「いったいこれだけ沢山ある律法の中で、何が一番大切なのか?」ということを考えてみたくなっても当然だと思いませんか。実は、今日のところに出て来る「すべての中で、どれが一番大切な戒めか」というのは、当時のユダヤ人指導者の中ではよく議論されていたトピックだったようです。
また、こういうと皆さんがっかりされるかもしれませんが、イエス様のお答えも、誰も知らなかったことを言ったとか、誰も気づいていなかった真理を開陳したとかいうこともありませんでした。しかし、それでも、今日の場面でのイエス様もやはり驚くべき答えをされています。
B. 本日のポイント
っということで、ここまでを序として、本題に入っていきたいと思います。
本日は時間の関係で、イエス様の返答の部分だけを本論で扱いたいと思います。
Ⅰ 最初のやり取り
Ⅱ 続く会話
Ⅲ 最後の週の文脈において
の3つの項目でお話ししていきます。
Ⅰ 最初のやり取り
1. 共通項
一つ目の「最初のやり取り」に入っていきます。まず、注目したいのは、イエス様が二つにまとめたお答えの「共通項」です。それは「愛しなさい」という命令です。確認しておきたいと思います。30節の終わりだけ読むと、第一の戒めは、「あなたの神、主を愛しなさい。」となります。また、31節の中ほどを読むと、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」とあり、これが第二の戒めです。どちらも「愛しなさい」となっています。
⒉ 第一の戒め
次に、第一の戒めについて少し詳しく見ていきたいと思います。二つの要素があります。
① 主は唯一である
一つ目は、愛すべき神は唯一、ただお一人である、ということです。このイエス様のお答えは、実は、旧約聖書からの引用です。旧約聖書申命記6章4節というところです。新改訳聖書ですと旧約聖書の325頁の下の段の終わりのあたりからです。4節と5節を読みます。
「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
出だしの「聞け」というところはヘブライ語で「シェマ」と言います。神殿を失った捕囚期以降のユダヤ人は、この「シェマ」から始まるこの4節から9節までの部分と、他に申命記からもう一か所、民数記からもう一ヵ所を祈りの朝夕一回ずつ中で朗読することが定められていました。
ですから、イエス様は大胆にも、当時のユダヤ人がだれでも一日二回唱えていたことが一番大切だ、と答えられたのです。
② あなたのすべてをもって
二つ目の要素は、「あなたの心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」というところです。「尽くし、尽くし」と4連発しています。
要するに、あなたの持てるものすべてをもって、しかもそれを尽くして、最大限に総動員して、ということです。
③二つの要素の関係
ここで第一の戒めに含まれている二つの要素の関係について考えてみたいと思います。なぜ、神を愛することと、その神が唯一であることが関係しているのでしょうか。しかも、第一の戒めの第一の要素に「神は唯一」ということが言われるのでしょうか。
愛の側から言うと、「愛」には本質的に「集中」ということが入っているのです。ちょっと考えてみてください。大好きな人が現れたとします。恋人でも、推しでもいいです。すると、私たちの存在のすべてが自然にその人に向けて総動員されるのではないですか。胸だけはキュンとなって心臓は高鳴るけれども、何をすればその人が喜ぶかなどといったことには思いがちっとも働かない、その人と会うためには仕事を集中して早く終わらせようとする力も出て来ない、なんてことがあるでしょうか。愛は、努力しなくても、愛している対象に向かって、自分のすべてを総動員させるのです。しかも、ここまでにしておこうという抑制は効かず、どこまでもその動員力は突き進んでいきます。
そして、イエス様は、「あなたの全人格を総動員して愛する対象が神でなければならない、それが聖書が語る律法の一番大切なものだ。」と言っておられるのです。
我々現代人は、そういうことを聞くと危うさを感じるかもしれません。「それって、ちょっと行き過ぎじゃない!」っと。しかし、もし、本当に聖書が言っているように、天地万物を造られた神がおられ、その神が、今もこの天地万物のすべてを御手の中に治め、私たち一人一人に深い関心をお持ちになり、今も生きて歴史を導いておられるとしたらなら、その神様を私たちのすべてをもって愛することは、決して行き過ぎではありません。むしろ、そうすることは、当然です。
そして、この第一の戒めは、私たちに対するメーカーからの「取説」です。神はそのように私たちを造られたのです。そのように、私たちに全人格、全能力、すべての気力、すべての感性、すべての力が集中していくとき、それこそが私たちが一番幸せを感じる状態なのです。そのように私たちは造られているのです。神は唯一です。というのは、「わたしがあなたの創造者なのだ。わたしがあなたの存在の根本原因なのだ。わたしと何かではない。わたしだけがあなたの全責任をもって持っている神なのだ。」という神様の側からのお申し出のようなものなのです。
⒊ 第二の戒め
イエス様が言われた第二の戒めは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。
①自分自身のように
「自分自身のように」の部分を先に考えたいと思います。「自分自身」については、厳密にいうと、「愛しなさい」とは言われていません。「自分自身を愛する」ことは、命令される前から前提とされている、という扱いです。しかし、実際には、この意味を特定することはなかなか難しいです。
一つ、新約聖書からヒントになることばを引いてきたいと思います。それは、エペソ人への手紙5章29節です。そこにこうあります。「いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。」口語訳では、「自分自身を憎んだ者は、いまだかつてひとりもいない。」となっています。
現代人の多くは自己肯定感が低く、「自分が嫌い」ということに悩んでいます。しかし、そんな人であっても、本能的に自分の身を大切にします。目に虫が入りそうになったら、咄嗟に目をつぶります。お腹がすいたら食べます。疲れたら休みます。そのレベルでは、みな神様から自分を大切にする本能を組み込まれています。やったりやらなかったり、のムラはありません。それと同じように、すなわちいつでも、ムアなく、当たり前のこととして、隣人を愛しなさい、というのがここでの趣旨ではないかと私は思います。
②あなたの隣人を
次に、「あなたの隣人を」の部分です。これは、第一ではなく、第二の戒めです。しかし、第一の戒めだけでは完結しません。第一の「神を愛する」愛が本当なら、必ず第二の「隣人愛」が生まれてくるのです。
⒋ イエス様のまとめ
そして、イエス様は「これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」と二つも一つにして最上位に置かれました。イエス様はここで、はっきりと比較級の構文で話されました。この二つがその他すべてに勝って最も重要である、と。比較的重要でない律法と、ここに律法の精神のすべてが集中してのしかかっている最重要の律法とが歴然と存在しているのだ、ということを堂々と宣言されたのです。
先程、今回の質問と回答は、当時のユダヤ人にとっては、目新しいものではなかったということを申し上げました。しかし、今回のやり取りで際立つイエス様の権威は、この比較級で語られたということだと言えると思います。
神様と私たち人間との関係は、その間に何百もの戒めが散りばめられているというような平面的なものではないのです。神様はご自分のすべてを尽くして、私たち一人一人の人間を愛してくださり、私たちも私たちの存在のすべてを傾けて神様を愛することが期待されている、という愛という一つの関係が強く働いているダイナミックなものです。そして、愛は、すべてを総動員させる力なのです。
Ⅱ 続く会話
次に、イエス様が律法学者からの質問に回答されたあとの会話の部分を見ていきたいと思います。これまでの、権威問答、納税問答、復活問答には、このようなイエス様のお答えのあとの会話はなかったのですが、今回は、悪意をもった質問者ではなかったために、続編があるわけです。
⒈ 律法学者からイエス様へ
この律法学者は、イエス様のお答えに対して、第一の戒めの出だしの部分を繰り返して、「まさにそのです」と答えました。そして、続いて第二の戒めを繰り返して、「どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」と答えました。
⒉ イエス様から律法学者へ
それに対して、イエス様は34節で短く、「あなたは神の国から遠くない。」とコメントしました。この言葉は、この質問をした律法学者だけでなく、今日、共に礼拝をささげている私たち一人一人にも一つのことを問いかけてきます。それは、「あなたはどこにいるのか。」という問いです。
あなたは、わたしに対して「まさに、そのとおりです。」と言うところにいますか。「あなたが言ってことは、どんなことにもまさって、はるかにすぐれています。」と言うところにいますか。それとも、「神を愛しています。隣人を自分自身のように愛しています。」というところにいますか。
私自身のことを胸に手を当てて考えてみると、この問いかけに対する返答は、「私はこれまで神も、隣人も愛することができませんでした」「私はわたししか愛していませんでした。けれども、それは、本当には自分さえ愛せていなかったのです。」ということではないかと思います。しかし、ここから始めてよいのです。ここからなら始められるのです。
Ⅲ 最後の週の文脈において
三つ目のポイント、「最後の週の文脈において」に進んでいきます。
⒈ イエス様の真の偉大さ
今日の聖書箇所に現れているイエス様の偉大さは、比較級で語ったところだと、先ほど申し上げました。しかし、もう一つあるのです。それは、語られたことをご自身の生涯で実践されたということです。
⒉ 私たちの問題
ここで、私たちの問題を掘り下げてみたいと思います。今日のところで出てきた「愛」には、①神を愛すること、②隣人を愛すること、③自分を愛すること、の三つの面があるといえるでしょう。そして、私たちはこのように考えていないでしょうか。「自己中心的な自己愛は、誰もが本能的に持っていると。そして、その自己中心的な自己愛から脱皮して、以下にその愛に対象を隣人にそして神様にと昇華させていけるかが問題だ」と。
しかし、そこには、大きな落とし穴があります。そのように昇華させていことすると、最後まで、自己中心的な自己愛がついてくるのです。他人まで愛せるようになった自分を愛する。神様を熱心に愛している自分を愛する。それは、結局、ほんとの意味では、隣人をも神様をも愛しているとは言えないのです。最後まで、自分を愛しているのです。
しかし、今日、イエスが言われたことは、そういう閉じた世界から出られないでいる私たちには、革命的なことばです。
イエス様が言われた第一のこと、すなわち出発点は本能的な自己愛ではないのです。神様をあなたのすべてをもって愛しなさい。これが出発点なのです。そこから始めるとき、はじめて、私たちは、隣人を愛することができる、そして自分自身をも愛することができる、そして、不思議なことに自分自身を愛するように隣人を愛することができる、という不思議な世界に入っていくことができるのです。
⒊ 最後の疑問
最後に残る疑問はこれです。でも、いったい、私たちにそんなことが可能なのだろうか。それが可能だというのがキリスト教です。「主は私たちの神。主は唯一である。」という神様は、私たちに要求されるそのような愛で私たちをまず、愛してくださったのです。それが、クリスマスであり、十字架です。ご自分のすべてを与え尽くす愛で、私たちをまず、愛してくださった。心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、こんな小さな虫けらのようなわがままな私を愛いしてくださった。それが、イエス様が人なってくださった受肉の事実と、私たちの罪を身代わりに負って死んでくださった十字架に現れているのです。この受肉と十字架によって示された神の愛を受け取るとき、私たちの内に神様を愛する愛が芽生えるのです。愛は、どんなに小さなものでも、その中に本質的にすべてを総動員する力を持っているのです。心を開き、信仰をもって、神の愛を受け取ることから始まっていくのです。イエス様はそんな愛を私たちに渡すためにあと三日で十字架の上でご自分のいのちをお捧げになるのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は「すべての中でどれが一番大切か」という極めて重要なことを学びました。イエス様は、この難しい問いに、すっきり、きっぱりと答えられました。「神を愛すること。隣人を自分自身のように愛すること。」この二つが一つで、他のどんなことよりも大切なのだ、と言い切られました。自己中心的な愛は、神も、隣人も、自分自身さえも愛することができません。しかし、十字架の上で極みまで、罪びとである私を愛し抜いてくださった、イエス様の愛を受け取るとき、私たちの生き方は変わります。どうぞ、日々の生活のなかで、このキリストの愛を受けとり、それを神様に向け、周りの人々に流していく者としてください。
今週、神様に対して誠実に生き、私たちの周りの人々を大切にして歩ませてください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
