マルコの福音書を学ぶ(55)

  • 2025-11-09 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ12:18-27
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(55)「大変な思い違い」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 

A. 文脈

前回は、いわゆる「納税問答」というところをご一緒に学びました。イエス様にワナを掛けてきた実行部隊は、パリサイ人とヘロデ党の人たちでした。今日のところでは、また別の党派の人たちが登場してイエス様に論戦を挑みます。18節に「サドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。」とあります。

サドカイ人については、先週も少しだけ触れましたが、今日はもう少し詳しく触れておきたいと思います。このグループの人たちは、ローマ帝国からある程度の自治を認められていた当時のユダヤ人社会における支配階級でした。ユダヤ人社会のトップは、大祭司であり、この職位には、宗教的、政治的な権力が集中していました。そして、この大祭司は、ずっとサドカイ派から出ていました。彼らの宗教的な特徴は、律法とかモーセ五書という言い方もありますが、創世記から申命記までの旧約聖書の中の最初の5つにしか権威を認めないということでした。そして、モーセ五書には書かれていない死後の肉体の復活、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を否定するという考えを持っていました。それに対して、パリサイ派は、今挙げた三つのことをすべて肯定するというか、信じていました。

サドカイ派の人たちが今回イエス様にこの質問を投げかけて論争を挑んできた動機としては、二つのことが考えられます。

①パリサイ派への対抗意識

パリサイ派は、権力は持っていても貴族的で、庶民に広く根を張っているパリサイ派の方が人気はあったようです。ですから、一つ前の納税問答でパリサイ派が見事に退けられたのを目の前に見て、「チャンスだ、今度は自分たちの出番だ。パリサイ派と意見の違っている復活の問題でパリサイ人もイエスも、一緒にへこませよう。」というような魂胆があったと考えられます。

②もう一つは、ユダヤ人社会の中で権力を握っている彼らは、民衆から高い人気を得ているイエスがエルサレムに上ってきてローマに対する謀反の機運が盛り上がったりすると、やっかいなことになるので、イエスを潰したい、という支配者、統治者の論理というのもあったと思われます。

E. 本日のポイント

ここまでを序として、本題に入っていきたいと思います。

本日は聖書のことばどおり

Ⅰ サドカイ人の質問

Ⅱ イエス様の返答

の2つの項目でお話ししていきます。

Ⅰ. サドカイ人の質問

1. 彼らの自信と意図

18節の冒頭には、「復活はないと言っているサドカイ人たちが」とあり、彼らは、このことにおいては自信を持っていたようです。そして、一つの創作話によって、復活がいかにありえないことであるかを簡単に論証できると踏んでいたようです。ですから、「復活がいかに馬鹿げた空想話であるかを証明する」というのが彼らの意図でした。

⒉ レヴィラート婚

次に彼らが持ち出した創作話を理解するために旧約聖書申命記に定められていた「レヴィラート婚」という制度について説明します。申命記はモーセ5書に入っていますので、サドカイ人が根拠にするのは当然なのですね。申命記25章5節と6節を読みたいと思います。新改訳聖書ですと旧約聖書の358頁の下の段です。

「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務をはたさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」

私たちの感覚からするととんでもない規定に感じますが、簡単に言えば、家族の名前の継続と財産が家族の内にとどまるようにという定めです。サドカイ人たちにとっては、これは、申命記にはっきり書かれていることなので、権威があり何の問題もありません。しかし、これに復活を絡めると復活の方が明らかにおかしくなるだとう、という論理で彼らが頭の中で作りだした話を持ち出します。

⒊ 仮想の話

マルコの12章20節からのとことをご覧ください。

「さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」

前回の納税問答もものすごく巧みなワナでしたが、今回の復活問答の質問も「水も漏らさぬ用意周到な」質問に思えます。

「いやー、気が付かなかった。そういう極端な例で考えると、復活ということがいかにおかしい話かがわかったよ」と簡単に言いそうになってもおかしくないような気もします。

Ⅱ. イエス様のお答え

さて、それではイエス様はこの質問、詰問にどのようにお答えになったのでしょうか。今回のイエス様のお答えは二つの要素に分けて考えることができると思います。

⒈ 大変な思い違い

一つ目は、イエス様のサドカイ人たち対して語られた大変厳しい評価のことばです。24節には、「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」とあって、ここに「思い違い」ということばが出て来ます。また、27節には、「あなたがたは大変な思い違いをしています。」とあります。イエス様は、二度も「思い違い」ということばをサドカイ人たちに対してお使いになり、二度目は「大変な」という強調のことばも付けています。

そして、その「大変な思い違い」の原因が、「聖書も神の力も知らない」ことにあるということにある、とこはっきり述べておられます。サドカイ人たちは、モーセ五書の中の申命記という自分たちの得意箇所から聖書を引用して、それに基づいて復活のおかしさを証明したという意識だったでしょう。ですから「聖書を知らない」と言われるとは全く予想外のことだったと思います。このあたりがイエス様の鋭いところ、権威を感じさせられるところですね。

自分の正しさを証明するために聖書を引用する、というのがサドカイ人と聖書の関係でした。それでは、神の力はわからないのです。

しかし、私たちは簡単にサドカイ人たちを批判することはできません。私たちも同じようなことをやってしまいがちなのです。神様がどう働かれるのかを祈り求めることをせず、自分が正しいと思うことはすでに自分の中で決まっていて、その自分の考えをサポートしてくれる聖書箇所を探してきて、補強に使うというような聖書とのかかわり方をしていることがないかを反省させられます。

⒉ モーセの柴の箇所からの引用

イエス様からの返答の、もう一つの要素は、「聖書と神の国」を知っているということがどういうことかをイエス様がデモンストレーションされたということです。そういうふうには直接は書かれていませんが、イエス様が持ち出された「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という聖書とその解釈はまさに驚くべきものです。

順を追って、ご一緒に見ていきましょう。

①モーセの柴の箇所の文脈

イエス様が言及された旧約聖書の「モーセの柴の箇所」とは、出エジプト記3章のことです。旧約聖書の101頁下の段の終わりの方です。出エジプト記ですから、サドカイ人たちも権威を認めいてモーセ五書の中からのイエス様は引用されたのです。少し長めに1節から10節まで読んでいきたいと思います。

「モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」

ここは、モーセがエジプトの中で奴隷として虐げられているイスラエル民族をファラオの圧政から解放するリーダーとなるのだ、という使命を託される非常に重要なところです。実は、この時、モーセは偏狭の地で失意の中に長く暮らしていました。そんな彼が出エジプトという大事業のリーダーになるなどということは、考えられないことでした。そこで、神様は、二つのことをもってモーセに現れました。

一つは、燃えるけど燃え尽きない「柴」という不思議な現象です。柴というのは、「おじいさんは山に柴刈りに」の「柴」です。その辺にどこにでもある雑草・雑木です。それに火がついたらすぐに燃え尽きるものです。それが、いつまでたっても燃え続けているという不思議な光景を神様は、まずモーセに見せました。これは、不思議です。いったい、なんなんだろう、どうなっているんだろう、とモーセはそこに近寄っていきました。モーセは神様の声を聞くモードに入ったのです。

その時には、モーセはそう感じなかったかもしれませんが、このすぐ燃え尽きる柴とは、モーセのことを現わしています。実は、モーセは若い時に一度、イスラエル民族の待遇改善のために立ち上がろうとしたことがあったのですが、イスラエル人たちから、「偉そうにするんじゃない!」と受け入れられなくて、挫折したという経験があったのです。その挫折で心がぽっきり折れて、逃げ出して、このミディアンの地に逃れ40年間も燃え尽きたあとの生活を送っていたのです。自分で燃えるのなら、すぐに燃え尽きてしまいますが、神様が燃やしてくださるなら、燃え尽きることはない、ということをこの光景は暗示しているのです。

二つ目に神様がなさったことは、自己紹介です。神様がモーセにご自分はこういうものだ、と自己紹介されたのです。その時のことばが、6節のカッコのなかです。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」この部分の前半、「あなたの父祖の神」を省略した形で、今日のマルコのテキストでイエス様が引用されているのです。

この箇所を私たちが読んでいくとき、「モーセが属しているイスラエル民族が先祖以来ずっと信仰している対象である神」という意味だと取ると思います。何の変哲もない、ごく普通の表現で、ここから何か重要なことが引き出されるとは到底思えないようなところです。

②生きている者の神

しかし、イエス様は、このところから今日のサドカイ人たちからの復活についての質問に一言で的確に答える真理を引き出されます。これは、あまりに見事で、驚くばかりです。そして、そこにこそ、イエス様が「聖書と神の力を知っている」姿を見ることができます。

実は、出エジプト記の3章6節のヘブライ語にも、マルコ12章26節のギリシャ語にも「わたしは…である」の部分にBe動詞は使われていません。省略されているのです。「私は、…の神。」という形です。そして、ヘブライ語のBe動詞は、過去形、未来形の場合は明示し、現在形の場合は省略するというルールになっているのです。省略されていることが、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だった」ではなく「である」という意味である証拠なのです。イエス様はそこに注目されたのです。ヘブライ語のBe動詞がないという小さな小さな事実から、水も漏らさぬサドカイ派の意地悪な質問に堂々と回答をされたのです。

もし、モーセの柴の箇所が、「アブラハムの神だった、イサクの神だった、ヤコブの神だった」となっているなら、アブラハムもイサクもヤコブも死んで終わりで、どこにも存在しないことになる。神様の側からしても、アブラハムの神であったという役割は終わり、アブラハムとの関係も消滅している、ということになるわけです。けれでも、「わたしは今も現役で彼らの神であり続けている。それは、裏から言えば、彼らもその存在が、死とともに完全に消滅したのではない、やがての復活の日を待つ形で存在しているのだ。」ということを意味しているのです。

③聖書と神の力

最後に、イエス様がサドカイ人たちに対して「あなたがたは、聖書も神の力も知らない」と言われた、その「聖書と神の力」とは何か、ということをご一緒に考えてみたいと思います。

イエス様はあと三日後に私たちの罪を罪のないご自分の身に負って十字架に付けられて死んでいかれます。そして、イエス様を死に追いやる直接的な勢力は、サドカイ人たちを中心とするユダヤ教指導者たちです。聖書も神の力も知らないで、この世のこと、自分たちの目に見えること、自分たちの理解できること、その理解したと思っていることから類推できることですべてだという大変な思い違いによって死に追いやられていくのです。

しかし、そこに神の愛と知恵が結集しているのです。その死を通して神様は私たちの永遠の生命の救いを実現されたのです。そして、それが聖書に首尾一貫して書かれていることなのです。そして、その罪の力によって正義が曲げられることを通して罪の力にとどめが刺される、それが神の力であり、その最たる力が復活なのです。

ですから、復活は、単に死の次に起こること、という順番のことではありません。罪と死が、正義と愛に飲み込まれた証しなのです。そして、一番大切なことは、そのような「聖書と神の力」の神様が、今日、今、私たち一人ひとりに最高の関心をもって、共にいてくださるということです。モーセにこのように自己紹介されたのは、その事実がモーセへの最高の励ましとなるからなのです。信仰とは、それを私に関するあらゆる現実にまさる事実として喜んで自分をゆだねていくことなのです。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は「復活問答」と呼ばれるところを学びまいた。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」とあなたは言われました。私の死を先回りして解決して、私の死に至るまで、ではなく死を超えても共にいてくださる神として、今共にいてくださることを感謝いたします。それゆえに、この神様の手に余る問題は何一つありません。私も、私の周りも、世界も、あらゆる手に負えない問題に囲まれていますが、それでも神様の手に負えないという神ではい、そういう神様が共にいてくださることを信じます。この週も、この神様に伴われていく者としてください。そのようにして歩む者たちによって、この地上に平和をもたらしてください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。