マルコの福音書を学ぶ(54)

  • 2025-11-02 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ12:13-17
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(54)「神のものは神に」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 

A. 文脈

まず、最初に確認しておきますが、今お読みしました今朝のテキストは、場面としては、過去数回の続きです。イエス様の地上で過ごされた最後の一週間の火曜日、場所はエルサレムの神殿の中。いくつか続くユダヤ教指導者たちとの論争の一コマです。11章27節から33節までの権威問答、②12章1節から12節までの「ぶどう園と農夫のたとえ」それに続く三番目の論争です。短い名前を付けると「納税問答」ということになります。あとで詳しく見ますが、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」というイエス様の有名なことばが出てくるところです。

E. 本日のポイント

ここまでを序として、本題に入っていきたいと思います。

本日は聖書のことばどおり

Ⅰ わな

Ⅱ イエス様の返答

の2つの項目でお話ししていきます。

Ⅰ. わな

1. わなを仕掛けた側

①「彼ら」

さっそく、順をおって本日のテキストを見ていきたいと思います。まず、13節のところに「さて、彼らは」とあります。

この「彼ら」とは、この一連の神殿の中での問答が始まるときに11章27節で名を連ねている「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」を指していると思われます。三つまとめて、私はここ数回、「ユダヤ教指導者たち」と言ってきました。当時のユダヤ教には、サドカイ派とパリサイ派という二大派閥派閥があり、福音書には、圧倒的にパリサイ派の方が多く出て来ますが、サドカイ派が与党でパリサイ派は在野の野党という感じです。祭司長たちはサドカイ派、律法学者たちはパリサイ派でした。長老たちは、両方の有力者たちという感じでしょうか。

②実行犯

今回は、そのユダヤ教指導者たちが、パリサイ人とヘロデ党のものを数人遣わしてきたのです。ペロデ党というのは、サドカイ派やパリサイ派と違って、宗教勢力ではなく政治的なグループでした。ローマ帝国からこの地域の支配を任されているヘロデ一族を支持するグループです。

⒉ 彼らの意図

次に彼らの意図について見ておきたいと思います。13節に「彼らはイエスのこたばじりをとらえようとして」と書いてあります。権威問答のときには、正面から切り込んでいって撃退されたので、こんどは相手のミスをさそうという戦法に出たわけです。古い話ですが、吉田茂が首相だったときに、「バカヤロー解散」というのがありました。当時の社会党の西村栄一という議員が造船疑獄のことについて、非常に長い、そして執拗な質問を吉田茂にねちねちと続けたところ、吉田茂はしびれを切らして質問の途中で立ち上がり、「いい加減にしろ」「聴いておる」と言いました。それに対して西村議員が「何を言ってるんだ」と言い返したところ、吉田が「バカヤロー」と言い放ったのです。それで、懲罰動議、内閣不信任案提出、採決を嫌った吉田が衆議院解散に打って出て、総選挙で自由党が大敗、内閣不信任案可決、内閣総辞職と吉田は追い込まれたです。短期でワンマンな性格である吉田から失言を狙いにいった意図は明らかでした。

⒊ わなの仕組み

今回は、イエス様の性格に付け込んで失言を引き出そうというのではなく、完璧なワナでした。質問の内容は、14節にあるように「カイサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」というのです。

①税金について

ここで、少し税金について説明します。現代の日本でも税金は大きな問題です。「減税・積極財政派」と「増税容認・緊縮財政派」が水と油のようにかみ合わない議論をしています。古代においても税金は、権力との関係でいつも微妙かつ大きな問題でした。

聖書にも税金はよく出て来ますが、種類がいくつかあります。エリコの町で取税人の頭をしていたザアカイが集めていたのは、主に通行税や物品税などでした。しかし、今日、問題になっている税金は、人頭税です。

人頭税は、成人男性が一人残らず、定額を支配者に支配者が指定する貨幣で納めるものでした。そして、それは、支配を受け入れているという意味を現わしていました。

②イエスの時代

イエス様がお生まれになったときのユダヤ地方は、ローマの直轄地となっていて人頭税は直接ローマ皇帝に向けて納税されるものとなっていました。ローマ皇帝に人頭税を治めることは誇り高きユダヤ人たちにとって一番いやな現実だったのです。それに対してはいろいろな立場のグループがありました。

今日のところでイエス様のところに遣わされたペロデ党の人たちは、ローマの支配を積極的に受け入れる思想を持っている人たちでした。パリサイ派の人たちは、宗教的な戒律を守ることには命がけで口をだしてくるけれども、納税に関しては「しかたがない」という受け身の態度でした。

しかし、これまでも何度か申し上げてきましたけれども、イエス様は、ガリラヤで活動を始めて以来、民衆の大きな支持を集めてきたのは、民衆の中にイエスをメシアだとし、メシアは、ローマの支配からユダヤの国を解放してくれる、との期待を寄せられていたのです。

ですから、このカエサルすなわちローマ皇帝に人頭税を治めるべきか否かの問いに、

1)納めるべきだと言えば、ローマの権威になびく腰抜けとして民衆の指示を失うことになり、

2)逆に納めるべきではない、と言えば、ヘロデ党の者たちがすぐにローマへの反逆罪で逮捕するというからくりになっていました。

ですから、この問いは、一度発せられてしまうと、どちらに答えても失脚を余儀なくされるという完璧なわなだったのです。

Ⅱ. イエス様のお答え

次にイエス様のお答えを見ていきましょう。日本の政治家も相手に非常に答えにくい質問をぶつけて「イエスかノーかでお答えください」と畳み込んだりするシーンをよく目にします。けれども百戦錬磨の政治家は、絶対にイエスもノーも言わずに、相手に「しっぽをつかまれることのないように」忍耐深く巧妙に逃げ回ります。

イエス様も同じ手を使われたのでしょうか。

⒈ デナリ銀貨を持って来なさい

①デナリ銀貨の肖像と銘

イエス様がまず言われたのは、「デナリ銀貨を持って来なさい」ということでした。たとえを語るときのイエス様と同様にこの時も、イエス様は抽象的な議論や神学議論をするのではなく、生着密着型、だれでもが日常生活で経験しているものをもってお答えになられました。 

彼らがデナリ銀貨を持ってきて差し出すと、「これは、だれの肖像と銘ですか。」とイエス様が問われ、彼らが「カエサルのです」と答えました。

当時のデナリ銀貨には、表には、ローマ帝国第二代皇帝であるティベリウス帝の肖像が鋳込んであり、縁には「アウグストゥスの子、聖なるアウグストゥス・ティベリウス・カエサル」という「銘」がありました。

②支配と服従の証し

先ほども言いましたが、人頭税は、支配・被支配の関係を確認する意味がありました。支配者の顔が鋳込まれた銀貨で納税することによって、「わたしはあなたの臣民です」ということを表明していることになります。帝国内の臣民が一人一人口で誓ったり、誓約書を書いてサインしたりしなくても、皇帝の顔が彫られている銀貨で納税することによって、ごまかしようがないほどはっきりと服従を飲まされるのです。もし、仮に納税を拒んだなら、または、ティベリウスの肖像が彫られているのとは違う銀貨で納税すると主張すれば、たちどころに滅ぼされることになるのです。

③生活の通貨

しかし、そこには、もう一つ手前の前提があります。すなわち、このデナリ銀貨は納税のためだけに使われていたのではなく、普段の日常生活の中で使われていたのです。帝国内の経済活動は、このティベリウスの肖像が彫られている銀貨でしかできないのです。ですから、今日のところには出て来ませんが、熱心党などといったローマへの納税を拒否する主張をする輩たちも、日常生活ではティベリウスのデナリを使わないでは生活ができなかったのです。その時点で、すでにこの世にあって生きていく上で、この権力の範囲外で生きることは誰にもできないことだったのです。

⒉ イエスの返答のことば

ここで、イエスは短い一言を発します。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」この有名なことばについて考えていきましょう。

①これは逃げではない

これは、まず、イエスもノーも言わず、相手にしっぽをつかまれるような不用意な発言を注意深く避けた、という逃げの答弁ではありません。もし、あえて言うならば、「払うべきです。」と言ったと言ってよいと思います。前半の「カイサルのものはカイサルに」はそのことを言っております。

②相手の土俵に立たず、別次元からだけ語ったのでもない

また、相手の質問に対して正面から向き合わず、全く別の角度や次元から答えるというはぐらかしでもありません。相手の土俵にしっかり乗っています。

③「悪知恵VS神の知恵」ではない

実は、私は今朝学んでいるこの「納税問答」をずっと、「罠を掛けた方と罠にかからず逃れた方との知恵比べ」のようにして読んできていたと思います。そして、「イエス様の知恵ってとても素敵ね!」っというところに感心してきたと思います。

④「真実VS偽善」

しかし、今回このところを読んで、それは的外れな解釈だと思うようになりました。今回の論争の一番のポイントは「真実」です。「真実」という言葉は、14節のところに出て来ます。パリサイ人とヘロデ党の者たちがイエス様に質問するにあって、前口上として述べた部分です。ここで彼らは四つのことを言っています。

1)あなたが真実な方で

2)だれにも遠慮しない方

3)人の顔色を見ず

4)真理に基づいて神の道を教えている

これは、質問する前に相手を持ち上げることによってかえって、下手なことを言えなくして、相手の逃げ場を失わせるいやらしい作戦の一環でした。しかし、ここで彼らが言ったことは、すべて、イエス様に当てはまることです。

そして、イエス様も答える前に短い前口上を述べておられます。マルコでは、そのことば自体はありませんが、マタイの福音書22章18節では「偽善者たち」ということばを使われました。マルコでは、15節の冒頭「イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた」とあって、実質的に同じことです。

すなわち、ここで何と何がぶつかったのかというと、彼らの悪知恵とイエス様の聖なる知恵ではなく、彼らの欺瞞・偽善とイエス様の真実がぶつかったところだったのです。

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」は、イエス様から出てきた真実のことばだったのでのす。

⒊ イエスの生涯ということば

①「カエサルのものはカエサルに」

これはイエス様の生涯を現わしていることばだと思います。「カエサルのものはカエサルに」とは、この世で、この世の権力の支配下に身を置いて生きるということです。イエス様は、私たち罪人を天におられるままで憐れんでなんとかしようとされたのではなく、マリアを通して私たちとまったく同じ肉体を取り、人となってくださったのです。

しかも、そのお生まれのいきさつは、ルカの福音書2章に書かれているとおり、皇帝アウグストゥスからの人口登録をせよ、との命令で身重のマリアが権力によってナザレからベツレヘムまで移動させられた際に生まれたのです。この人口調査とは、今日問題になっているまさに人頭税徴収のためでした。ですから、イエス様は、お生まれになったということは、すなわちこの世の権力の下に、支配される側に、搾り取られる側に、紙っぺら一枚でどうにでも動かされる側に立ってくださったということです。「カエサルのものはカエサルに」という部分は、イエス様はお生まれになった時点ですべて受け入れておられるです。

②「神のものは神に」

しかし、それで終わりではありません。それに「神のものは神に返しなさい」という重要な部分が続きます。創世記1章に書かれているように、私たち一人一人の人間は、神に似せて、神の似姿に造られているのです。すなわち私たちの存在には、目には見えないですが、私たちの作り主である神のお顔、肖像が鋳込まれていてい、それがゆえに「神のもの」なのです。ですから「神のものは神に返す」とは、私たちが、神様の懐に抱かれ、神の子として、神様の恵みに生かされる歩み方をすることなのです。

しかし、私たちの中にある自己中心、神様に逆らう性質、罪のゆえにそれが出来なくなっているのが私たちの姿です。イエス様は、十字架にかかり、その私たちの罪を赦し取り除くためにこの世に来てくださったのです。イエス様の贖い、救いは、カエサルの圧政から人々を解放するためではなく、罪の圧政から開放して、神に返すためだったのです。

最後にそのことを一言で言い表しているお言葉を読んでお祈りしたいと思います。週報にも印刷しましたテモテへの手紙第一1章15節のお言葉です。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は「納税問答」のところを学びまいた。「カエサルに税金を納めるべきでしょうか、納めるべきではないのでしょうか」とのワナに対して、あなたは、「カイサルのものはカイサルに、神のものは神にかえしなさい」という短い一言で決着をつけられました。これは、巧妙なワナを逃れたさらに巧妙な知恵を現わしているのではありません。イエス様ご自身の生涯を現わしている言葉です。欺瞞と偽善に満ちている私たちに対して示されたあなたの真実を現わしているおことばです。どうぞ、この一週間、このイエス様の真実によって愛し抜かれているお互いであることを信仰によって受け止めて歩むものとしてください。そのようにして歩む者たちによって、この地上に平和をもたらしてください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。