マルコの福音書を学ぶ(53)

  • 2025-10-19 喜多見チャペル 主日礼拝
  • 聖書箇所 マルコ12:10-12
  • 説教題 マルコの福音書を学ぶ(53)「捨てられた石が要の石に」
  • 説教者 山田誠路牧師

序 

A. 文脈

先週は、ぶどう園と農夫のたとえをご一緒に読みました。収穫の一部を受け取るために、主人はしもべを遣わしますが、農夫たちは、そのしもべに暴力をふるい、はずかしめて追い返します。その後、主人は何度もしもべを遣わしますが、打ち叩かれたり、殺されたりします。それでも主人は、懲りずに、何度でも、何人でも、しもべを送り続けます。それは、旧約聖書の預言者を象徴していました。そして、最後には、自分の愛する息子を遣わしたところ、農夫たちは殺してぶどう園の外に投げ捨てたという結末でした。

今日のところは、その続きで、イエス様が旧約聖書からの引用でこのたとえを締めくくるところです。先週お話ししましたように、このたとえは、旧約聖書の二ヵ所からの替え歌のようなものでしたが、締めくくりの引用はそのものずばりの引用です。

B. 旧約から新約への引用NO.2

引用元は、詩篇の118篇の22節と23節です。そして、この詩篇の箇所は、新約聖書に引用されている旧約聖書のことばとしては、二番目に引用回数が多い箇所なのです。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書と、使徒、エペソ、第一ペテロと合計6か所です。

C. 旧約から新約への引用NO.1

実は、大変興味深いことに、新約聖書に引用される回数が断トツで一番多い聖書の箇所は、詩篇110篇1節というところなのです。こちらの御言葉を週報に印刷しておきましたから、ご覧ください。

は 私の主に言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」

というところなのです。こちらは新約聖書で20か所以上のところに引用されています。

D. 矛盾の中の深い真理

今回の私たちのテキストであるマルコに引用されている詩篇118篇の22、23節の主題は、「捨てられた者が土台になる」ということですが、今ご紹介した詩篇110篇の方は、滅ぼされるのは敵の方で、あなたは王座に着いていなさい、という命令です。この2つは、正反対の内容です。

方や、キリストはこれ以上ないほど高いところで納める存在として描かれています。しかし、もう一方では、キリストは殺されて捨てられて、そうして初めて使命を果たす、と言っているのです。これだけ分厚い聖書を一貫して流れる真理は、このように矛盾に満ちているように表現される重層的な深い真理なのです。

E. 本日のポイント

ここまでを序として、本題に入っていきたいと思います。

本日は聖書のことばどおり

Ⅰ 家を建てる者たち

Ⅱ 捨てた石

Ⅲ 要の石

の三つの項目でお話ししていきます。

Ⅰ. 家を建てる者たち

1. たとえとの接点

まず、先週のたとえと今日の詩篇の引用の結びつきを考えてみたいと思います。共通項は「捨てた」というところです。先週のたとえを思い出していただけると、しもべも何人も殺されましたが、殺さしたあとに更に「捨てた」という表現が使われているのは、「息子」に対してだけでした。そして、今日のところには、「家を建てる者たちが捨てた石」という言い方の中に「捨てた」が出て来ます。

⒉ 家を建てる者たち

石を捨てたのは、「家を建てる者たち」と書かれています。それは、家を建てることに関するプロということです。プロは、知識と技術と経験と目的を持っている人たちです。そして彼らが持っているそういう角度からのプロの目で見て、この石は役に立たない、と判断されて捨てられた石、と言っているのです。たまたま捨てられたのではありません。間違って捨てられたのでもありません。ランダムに捨てられたのでもありません。きちんとした基準に則って、不合格の結果が出て捨てられたのです。

Ⅰ 導入の例話

一昨日私は94歳になる母のところに行って、まる1日をすごしました。雲一つない秋晴れの気持ち良い日だったので、午前中に久しぶりに、母の車いすを押して散歩にしきました。前回散歩に出たのはいつだったか思えていませんが、熱くなる前で6月くらいだったでしょうか。数か月振りに行ったので、いつも通るルートにあるオタクの様子が大きく変わっているところがありました。熱くなる前の数か月、ある一画が更地になり、そこに家が建てられていくのを毎週のように見て通るところがありました。そのところが、一昨日通ったら、立派に完成して、車が置いてあって、植え込みの樹木が整えられ、自転車やごみ箱といった生活感あふれるものもいくつか置いてありました。「あ、立派な感じのいい家が建ったな。そして、もう人が住んでいるんだ」と思いました。

人生は家を建てることによくたとえられるます。私たちは、自分という家を一生かかって築き上げるという面があります。同時に、神様も私たち一人一人という神の宮という家を建てようとされています。しかし、この2つがまったく違う家なのだ、ということを考えていきたいと思います。

⒈ 土台が違う

まず、一つ目に、土台が違うということです。建物を建てるときに一番大切なのは土台です。土台がしっかりしていなければ、上にどんな立派な上物が建てあがっていてもその家は、危ない家です。

ここでもう一度先週のぶどう園と農夫のたとえを思い出していただきたいのですが、あのたとえに登場する悪い農夫たちは、今イエス様が目の前にしている祭司長、律法学者、長老たちといったユダヤ教指導者たちを指していました。今回のこの旧約聖書118篇22節、23節からの引用では、「家を建てる者たち」という表現が同じくイエス様が目の前にしているユダヤ教指導者たちを指しています。

彼らはどんな家を建てようとしていたのでしょうか。その建物が自然災害や時の流れによる風化、劣化に耐えて、いつまでも立派な姿をとどめるために必用な土台にはどんな石が必要だと考えていたのでしょうか。

考えらえるのは、①聖書、②神の約束、③メシア到来という希望などを土台としていたということです。これらの3つはどれも間違ったものではありませんでした。しかし、何かがズレておかしくなっていました。イエス・キリストという真のメシアが到来したのに、彼らは受け入れなかったのです。彼らが真にその到来を切望していたはずなのに、実際にそのメシアが現れると彼らはイエス様を全力で亡き者にしようとしているのです。

⒉ 価値観が違う

 それは、建てようとしていた家が違っていたということに原因があるのではないでしょうか。象徴的に言うと、彼らは最上階の特別室に自分たちユダヤ教指導者たちが暮らす家を建てようとしてたのです。そのためには、一般の人が知りえない律法の細かな知識、自分たちが独占している宗教的権威などが土台石として据えられているべきなのです。

それに対して、イエス様の言動は、その土台石を入れ替え、その建物のコンセプトを根底から覆すようなものだったのです。

イエス様が建てようとされていた建物は、ご自分が最上階のペントハウスでふんぞり返るというのの正反対の家です。ご自分が土台石そのものとなって、その家の建物の重量も、そこに住む人たちの重量もすべてをご自分が支える、そのポジションをご自分が占める家なのです。

Ⅱ. 捨てた石

次に「捨てた石」という言葉に注目していきたいと思います。この点についても先週まなんだ「ぶどう園と農夫のたとえ」との関連を確認しておきましょう。はじめの方で、「捨てた」が共通していると申し上げましたが、何を捨てたのか。たとえの中では、ぶどう園の主人の息子をでした。今回の引用では、「石」です。そしてこの両方が指さしている実態は、神の御子、人となられたイエス様です。そして、イエス様が3日後には、都の外のカルバリの丘の上で十字架に付けられ殺される、ということを意味しているのです。

イエス様は、建物の一番したで、全重量を支える土台石のポジションにご自身が立たれる使命に生きておられましたが、そのポジションにどうやってハマるかというと、捨てられることによってなのです。もっと言うと、別の家を建てようとしている、家づくりの専門家集団から廃られることによってなのです。

今日のテキストの11節には、「これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」とありますが、まさにその通りです。たイエス様が建てようとされていた建物は、ご自分が最上階のペントハウスでふんぞり返るというのの正反対の家です。ご自分が土台石そのものとなって、その家の建物の重量も、そこに住む人たちの重量もすべてをご自分が支える、そのポジションをご自分が占める家なのです。

そしてそのポジションには、ご自分が支えるその家の住人から捨てられ殺されることによってのみそこに就くことができる、それが神の知恵であり、罪人である私たち人間の頭では決して発想することができない不思議なのです。

現存する日本のお城のなかで石垣の立派さで有名なのは大阪城です。江戸時代の初期に幕府が大阪城を再建した際に、どの大名が一番大きな石を持ってこられるかという名誉を掛けた競争の要素もあり、大阪城の石垣は「天下の名石の博覧会」と呼ばれているそうですね。その中で最大のものは、「蛸石」と呼ばれる石です。これは、小豆島から運ばれてきたもので、小豆島は巨石の産地だったようです。小豆島からは蛸石以外にもたくさんの石が切り出されて大阪まで運ばれましたが、途中で捨てられた石も沢山あり、そのような石のことを「残念石」というそうです。途中で捨てられるはめになったいきさつにはいくつかのパターンがあるようです。①そもそも重すぎて切り出せなかったり、運べないので途中であきらめた、②搬送途中で割れたりして規格外になった、③設計変更で不要になったなど。今でも小豆島に行くとそのような石を見ることができるそうです。

イエス様のストーリをこの大阪城と小豆島の残念石に重ねて考えることができるかもしれません。家を建てる者たち、すなわち当時のユダヤ教指導者たちは、蛸石のような大きな石を土台に据えて、大阪城のような天下に江戸幕府の威信を示すお城を建てようとしていました。その築城には、イエス・キリストという岩は不要でした。いや、邪魔でした。ですから、捨てられ殺されたです。

しかし、小豆島で捨てられた小さな残念石、誰からも顧みられず、築城のための広い敷地の戦略上重要な位置に置かれた蛸石と違って、その辺の道端に放棄されたような、その石はなんの役にも立つはずがない、役目を果たさず役目を終えたとはずの一つの残念石を要の石、隅の親石としてキリストの教会、神の家を建て挙げるというあまりにも不思議な神様の御計画が実行されたのです。

Ⅲ. 要の石

 最後に一つ皆様とご一緒に考えてみたいことがあります。今日のテキストを原文のギリシャ語で確かめていたとき一つの発見をしました。それは、今日のテキストに出て来る「要の石」の「石」ということばギリシャ語では「ケファ」という言葉が使われているのです。これは、イエス様がペテロに付けた名前です。ペテロはギリシャ語で「石・岩」を意味することばです。イエス様たちはヘブライ語系のアラム後を使って生活されいたと考えられていまして、「ケファ」とはアラム語で「石・岩」を意味することばです。ですから、実際にはイエス様はペテロのことはいつも「ケファ、ケファ」と呼んでいたのです。

「要の石」とは「角で2方面からの力を支える最重要な働きをするペテロ」と意訳することができます。ここにもう一つの神様のなさる不思議を見る気がします。もちろん、第一義的にはこの「捨てられた石」で「要の石」となったのは、イエス様のことを指します。これは明らかなことで動かしてはならないことです。しかし、同時に、私たち一人一人も、この役目を仰せつかっているのではないでしょうか。ペテロは、実はイエス様を土壇場で裏切って捨てた人物です。先ほどから「家を建てる者たち」とはユダヤ教指導者たちのもとだと、申し上げているので、ペテロをその仲間に入れるには抵抗があります。ですから、あえて創作しますと、ユダヤ教指導者たちが江戸幕府の役人とするならば、ペテロは小豆島から石を運んでくる職人のようなものにたとえらるでしょうか。この石こそ、と思ってイエス様を一生懸命エルサレムまで運んできたけれども、土壇場で捨ててしまった。ところが、ペテロに捨てられたイエス様は御自身が要石になるだけではなく、自分を捨てたペテロに対しても、おまえはペテロ、要のケファだとおっしゃる方なのです。私を捨てたようなオマエこそ、教会の土台となっていくふさわしい人物なんだ。そういう人でしか教会は任せられないのだ。と言って、ペテロを回復させていったお方なのです。そして、私たち一人一人にもそのような目を注ぎ、そのようなお声を今日もかけてくださるお方なのです。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、旧約聖書の中で新約聖書に6回も引用されている大切な言葉を学びました。「捨てられた石が要の石」になる。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なこと。」とありました。あなたは本当に不思議なお方です。そして、ペテロに期待をかけたお方は、今日、私たち一人一人にも不思議な期待をかけて見守っていてくださいます。私たちは弱く、愚かで間違えやすいものですが、どうぞ、この1週間、不思議な主のご愛に支えられて生きるものとしてください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。