□2025-03-23 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書8:27-30
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(32)「わたしをだれだと言いますか」
□説教者 山田誠路牧師
導入 -問いの重要性―
今朝の説教題は「わたしをだれだと言いますか」といたしました。これは、問いですね。先週、目の見えなかった人を癒すに当たって、イエス様が宣言や命令ではなく、問いを発せられることによって癒された、ということをお話いたしましたが、今日も、イエス様は大変重要な問いを私たちに投げかけておられます。
一世を風靡した経営学者のピーター・ドラッカーは、「重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえないまでも役に立たないものはない。」と言いました。ドラッカー以外にも答えよりも問いの方が大切だ、という趣旨のことを言っている人は沢山います。
今朝のテキストに出て来るイエス様が弟子たちに発した「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」という問いは、私たちが向き合うべき最重要な問いだと言っても言い過ぎではありません。ということで、今朝はご一緒に、この大切な問いに向き合っていきたいと思います。
まず、序論として二つのことを抑えておきたいと思います。
1. 地理的なこと
一つ目は、地理的なことです。27節に「さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリアの村々に出っかけられた。その途中」と出てきます。ピリポ・カイサリアというところは、ガリラヤ湖の北端から約32キロ真北にある地域です。ヘルモン山という万年雪をたたえる山の麓で、ガリラヤ湖に流れ込み、ガリラヤ湖から死海に向かって流れ下るヨルダン川の主要な水源となっている泉があるところです。
前回の場面は、ガリラヤ湖の北岸で、ヨルダン川が流れ込むほんの少し東にあるベツサイダという町でした。ですから、イエス様とお弟子さんたち一行は、ベツサイダからヨルダン川沿いに真北に32キロほど旅をしたことになります。江戸時代の旅人は平均8里から10哩、一日に歩いたようです。日本橋を出て最初に宿を取るのは、33キロ先の保土ヶ谷だったそうなので、だいたいそれくらいの感じですね。イエス様はこのまる一日の旅路を弟子たちと進まれる途中で、この大変重要な問いを発せられたのです。
1. マルコの全体の文脈の中で
二つ目に序論として押さえておきたいことは、この場面のマルコの福音書全体における位置付けです。結論から言ってしまうと、この場面、あとで詳しく扱いますが、ペテロがいつものように弟子たちを代表して「あなたはキリストです」と告白した場面は、マルコの福音書の中での最重要の転換点です。これ以前のところでは、イエス様はガリラヤ湖を中心としたガリラヤ地方を回って、病気の人を癒し、悪霊につかれた人々から悪霊を追い出したり、といった奇跡の業をいたるところでなした、という記述が中心でした。ところが、今日の場面を境に大きな二つの変化が現れます。一つはガリラヤ地方を周遊する旅から、エルサレムへ向かう旅へと変化したこと。もう一つは、奇跡の話がめっぽう減って、繰り返される受難予告を中心に話が進み、十字架のクライマックスに進んでいくという転会になっていきます。
ということで、今日のところは、間違いなくマルコの福音書の前半最大の山場のところです。
これから本論に入っていきますが、ポイントとしては、
1. 問いかけ
2. 告白
3. 人々はとあなた方は
この3点でお話していきたいと考えております。
Ⅰ. 問いかけ
一つ目のポイントは問いかけということです。イエス様がこの重要な問いかけをされたということの中に更に二つのことを見たいと思います。
1. 時間とタイミング
一つ目は、時間をかけタイミングを計ってなされた問いだということです。イエス様はガリラヤ湖のほとりで網を繕っていた初対面のペテロにこんな問いは向けられませんでした。これまでのところで約3年間、イエス様は弟子たちと寝食をともにして行動してこられました。イエス様のなしたこと、話されたことをつぶさに見聞きして、心が整えられていきました。同じ言葉を同じ人が同じ人に向けて発するとしても、タイミングや受け取る側の準備の出来次第で、最高に生かすことばになることもあれば、相手に最大の傷を負わせる結果になることもあり得ます。
赤ちゃんの食事のことを考えてみましょう。母乳やミルクから始まって、親や兄弟と同じものを食べるようになるまでにはいくつもの微妙な段階を調節しながら徐々により、形のあるもの、固いもの、しっかり栄養がとれるものに移行していきますよね。もちろん個人差がありますが、だいたい生後何か月くらいからは、これこれ、歯が何本くらい生えてきたらこれこれ、とかいろいろな目安もあると思います。ミルクの次に、いきなり「これを食べなさい」といってステーキを与えることはしません。ステーキにどんなに栄養があったとしても、歯も生えていない赤ちゃんにとってもふさわしい食べ物ではないからです。
イエス様も弟子たちと常に旅をして回り、ご自分の業とことばに立ち会わせ、その反応を見て、この大切な質問をするタイミングを計っていらっしゃったのです。遅すぎず、速すぎず、一番よいタイミングでこの問いを発してくださったのです。私たちは自分のタイミングの感覚・基準を持っていて、神様に対して「遅すぎます」とか「早すぎます」とか文句をゆうことが多いのではないかと思います。その基準は自分の願いや計画、あるいは世間一般の常識、周りの人たちのトレンドだったりします。しかし、神様は私たちが自分ではわからないもっと多くの重要で複雑な要素をよくご覧になって、私たちを導いておられることを、この記事からも学びたいと思います。
2. イエスを誰とするかがキリスト教のマッ中心
二つめは、この問いはキリスト教信仰のマッ中心にある問いだということです。キリスト教信仰が他のすべての宗教、哲学、教えと違ってユニークな点、キリスト教信仰の存在意義はこの問いにあるのです。キリスト教とは、やさしい人になりましょうとか、平和を愛しましょうとか、感謝の心を持ちましょうとか、そういうことの寄せ集めで成り立っているのではないのです。それらのことも含まれるでしょう。しかし、それらのことだけであったらなら、他でも同じことを教えてくれます。
しかし、キリスト教の一番の中心は、今から約2000年前、ユダヤのベツレヘムに生まれエルサレムで十字架の上で刑死したナザレのイエスという人を誰だとするかというこの一点に掛かっているのです。
ユダヤ教は律法を守って生活すること、イスラム教も五行六信と言われる五つの為すべきことと六つの信ずべきこと守って生活することが根幹です。仏教は戒律を守るというより、諸行無常をはじめとした四諦(したい)や縁起といった仏教的人生観、世界観を受け入れて生きていくところにその根幹があります。しかし、キリスト教はどうでしょうか。「キリスト教の教えの中核となるものを教えてください」とAIに質問したら、「イエス・キリストを通じた神の愛と救い、三位一体、原罪と贖罪、復活」と回答してきました。とてもコンパクトにまとまっていて「さすがだな!」と思いました。しかし、同時にまだまだだなと思いました。実は、キリスト教の中核は、「わたしを誰とするか」との問いに応えていくところにあるのです。
Ⅱ. 告白
それでは次に大きな二つ目のポイントに進みたいと思います。二つ目のポイントは告白です。これは、一つ目の問いとセットになっています。問いかけられた人は、何らかの応答が期待されます。いろいろな応答の可能性があるでしょう。「あなたは〇〇だといいなと思っています」とか、「あなたは〇〇だと思っています」とか「あなたは〇〇だと信じています」などなど。しかし、今回、弟子たちを代表してペテロが示した応答は、「あなたはキリストです。」という言い切りの形でした。そして、それをキリスト教では「信仰告白」という言葉で言い表してきました。この「告白」ということばは、今の日本で、ほとんど好きな人に思いを打ち明ける、「告る」という意味で使われているように思います。
1. 辞書的な意味
「告白」の辞書的な意味を調べたところ、3つの意味があるとされていました。
①秘密にしていたことや心の中で思っていたことを、ありのまま打ち明けること。また、その言葉。
②恋愛において、好意を寄せる人に自分の気持ちを伝えること。
③キリスト教において、自己の信仰を公に表明すること。また、自己の罪を神の前で打ち明け、罪の許しを求めること。
私の中では、キリスト教の文脈の中での「告白」とは、端的に言えば、「公に言い表すこと」というように理解していました。心の中で信じてはいるけれども、それはウチに秘められているので他人からは分からない、という状態から、「私はクリスチャンです。イエス・キリストを信じています。」ということを会衆の面前で言うこと、という感じです。
その理解を前提に考えると、今紹介した三つの辞書的な意味の中では、3つ目の定義にしか「公」ということは出てきません。①は、秘められていたことを明らかにする、というところに重きを置いています。②の「告る」は、もちろん「公」にするという意味はほどんどなく、「告る」相手は一人です。その人に打ち明けるのです。
では、今日の場面のペテロは、どうだったのでしょうか。「あなたはキリストです。」という信仰告白は「公」に対してなされたのでしょうか。それとも、意識はイエス様という一人の人に向かっていたのでしょうか。
私は、この時のペテロは一緒にいた他の弟子たちに聞かせるという意識はまったくと言っていいほどなかったと思います。「いいか、お前らに聞かせておくぞ。この中で、まだそこまで思っていないヤツもいるかもしれないが、これはこの心境に達したから、今、お前らにハッキリ言っておく」というような意識はなかったでしょう。少なくともそのために言ったのではありません。「あなたは」と呼びかけるイエス様に対して告白したのです。
キリスト教の文脈の中で、信仰告白というものは大変大切にされています。私たちの教会でも毎週、礼拝ごとに「使徒信条」を告白しています。或いは、洗礼式の前には、会衆の前に、自分の信仰を自分の言葉で証しするということがどの教会でも行われます。その際、一番本質的なことは何なのかということを今回考えさせられました。それは、「公」にするという部分なのでしょうか。それとも「隠れていたことを表に出してきて明らかにする」という部分なのでしょうか。
2. 自分の言葉で物語る
私はもう一つの面があると思います。それは、自分の思いをことばにして、実際に自分の外に出すということです。
このことはそれだけのことのように思えますが、実は、ものすごい力を持っています。「あの人のことが好きだ。死ぬほど好きだ。」と何年間思い続けていても、それを閉まって置くだけでは思いは募るばかりで煮詰まって焦げ付いてしまうか、飽和して熱が冷めてしまうでしょう。しかし、勇気をもって一歩踏み出し、「告白」するとき、自分の思いを自分の言葉にして自分の外に出して、相手に届けるときに、まったく新しいステージに私たちは立つことになります。フラれたら立ち直れないほどの痛手を負うかもしれない恐怖を乗り越えて、告白するとき、告白する前の自分とは明らかに違う自分になるのです。あたかも、自分の告白が新しい自分を生み出すかのようです。
キリスト教信仰においても同じような面があります。聖書に出て来るイエスという自分物を、あるいは自分の周りの人たちが信じているイエス様を、自分も信じているイエス様を、すごい人だとか、目には見えないけれども私のことをいつも守っていてくれる存在だとか、そのように心で思っていることは素晴らしいことです。
しかし、私たちはイエス様から「あなたがわたしをだれだと言いますか」との問いかけに対する思いを言葉にして表していくことによって成長するものであることを意識したいと思います。
この点についてもう一つ加えたいと思います。この告白はなにか冷たい、固い真理を自分でもそうだと受け入れて口にするというようなことではありません。「直角三角形において、直角をはさむ2辺の長さの2乗の和が、斜辺の長さの2乗に等しい」というような定理の口にすることではありません。ユング心理学の大家であった河合隼雄は、「人間の心はわからないところがある。つまり物語らないとわからないことがある」と言いました。「あなたはキリストです」と告白するということは、聖書を読んでイエスがキリストだと証明されているということを真理として受け入れます、というようなものではありません。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」という常にかけられている問いに対して「あなたはキリストです」という、もっというならば、他のすべての人にとってはそうでないとしても、「わたしにとっては、あなたはキリスト、すなわち私の救い主です」という関係を選び取っていきます。私の生きていく価値と意味は、私とあなたがそういう関係にあるというところからすべて発生していきます。ということです。
Ⅲ. 「人々は」と「あなたがたは」
最後にもう一つ取り上げてみたいことがあります。それは、イエス様の問いかけが2段階でなされたということです。これは、先週の目が見えなかった人の癒しと同じですね。
1. 最初の問いかけの意味
はじめに、イエス様は「人々はわたしを誰だと言っていますか」という問いを発せられました。この問いかけは、その答えとして弟子たちが答えてくる内容を知りたいと思ってイエス様が質問されたのではないでしょう。弟子たちはこの問いに対して「バプテスマのヨハネ」とか「エリヤ」とか「預言者の一人」などという情報提供をします。それに対してイエス様は、一般の人々のイエス理解の進み具合を調査する目的で、その様々な答えに対して、「ここまで達したか」とか「まだまだ」とかそんな分析をされるおつもりもまったくなかったと思われます。
そうではなくて、この第一の問いかけは、第二の問いかけをする道備えをするということに唯一の目的がありました。私たちは、一般論を答える場合には、あるいは他人のことについてコメントを求められるときには、冷静な頭でするどく分析して適切に答えることは比較的容易です。しかし、それが自分の事になると途端に難しくなります。
2. ダビデと生涯と罪
大体BC1000年ごろ、ユダヤ民族にはダビデという名君がいました。ダビデは軍人として、詩人として、政治家として、優れた才能を持ち、誰からも慕われるキャラで多分イケメンでもあったと思われます。大谷が大リーグで最多勝と3冠王を同時に取り、また同じ年に小説を書いて芥川賞を受賞し、同時に国連事務総長を務めていると言った感じでしょうか。そのダビデは王位につくまでは一つ前の王様の嫉妬を買って、命を狙われていたので何度も絶体絶命の危機を逃れながら、逃げ回って生き延びてきました。王位についてからは、周辺諸国との戦争の連続でした。
それらのすべてに一段落がつき、国に平和と安定がやって来たとき、また個人的にもあらゆる問題から解放されたと思ったときに、大事件が起こります。ダビデは、部下の妻と関係を持ち、その証拠隠滅のためにその女性の夫であり、自分の忠実な部下を戦争の最前線に送り、故意に戦死させたのです。
ダビデは栄光の地位にありながら、あっという間に姦淫と殺人の罪を犯してしまいました。そして、それをひた隠して約一年間、国民の尊敬を集めながら王として変わりなく国を治めていました。
①ナタンの物語
そんな中、ナタンという預言者がダビデの所にある話をもってやってきました。このような話でした。Ⅱサムエル記12章の1節の途中から5節までをお読みします。
「ある町に二人の人がいました。一人は富んでいる人、もう一人は貧しい人でした。富んでいる人には、とても多くの羊と牛の群れがいましたが、貧しい人は、自分で買ってきて育てた一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちと一緒に暮らし、彼と同じ食べ物を食べ、同じ杯から飲み、彼の懐で休み、まるで彼の娘のようでした。一人の旅人が、富んでいる人のところにやって来ました。彼は、自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために料理しました。」
そこまで聞いていたダビデ王は、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言いました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。」
直後にナタンは「あなたがその男です。」と言いました。
この瞬間のダビデは、ある意味、「人々はわたしをだれだと言いますか」の問いに答えた後、「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」と問われている渡したちの置かれている今朝の私たちと同じだと言えるでしょう。
③まとめ
一般論を言うのは簡単なのです。他人事として聞いている分には、正しい判断をくだし、正しい感情を載せることもできるのです。しかし、問題はその後です。それが自分のこととなったとき、自分の内にある思いをそのまま内にあるままにしないで、自分のことばにして、自分の外に出すとき、思ってもみなかった神様の祝福の世界に一歩足を踏み入れたことに気づくでしょう。ダビデは「私は主の前に罪ある者です。」と自分を言い表した時、「あなたは救いの歓声で、私を囲んでくださいます。」という新しい泉が湧き出したのです。どんな成功体験ももたらし得ない、神様しか与えることのできない喜びが自分の内にもたらされ歓喜に躍ったのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、ピリポ・カイサリアへ向かう途中で、イエス様が弟子たちに、「人々はわたしをだれだと言っていますか」「あなたがたわたしをだれだと言いますか」と問われ、ペテロが代表して「あなたはキリストです」と答えたところから学びました。私たちがいつでもこのように問いかけられている存在であることを意識するものとしてください。そして、私たちも「あなたはキリストです」と自分のことばであなたに向かって言い表しながら生きるものとしてください。年度の入れ替えの時期にあるこの国を守り導きください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
