マルコの福音書を学ぶ(24)

□2025-01-05 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所 マルコの福音書6:30-44

□説教題 マルコの福音書を学ぶ(24)「パンを裂きお与えになった」

導入

A. 前回からの繋がり

今朝は、アドベントの4回と年末の1回、合計5週間のインターバルを越えて、マルコの福音書に戻ってきます。久しぶりなので、まず、前回までの流れを簡単におさらいしておきます。

イエス様のガリラヤでの活動がその影響を拡大していく中、6章の7節からのところで、弟子たちが2人ずつ組みになって、派遣されていくという新しい展開になりました。そして、その派遣の直後に、時の経過を演出するために、バプテスマのヨハネの殉教の話が同じ6章の14節から29節までのところに挿入されていました。ヘロデ・アンティパスと妻ヘロディア、彼女の娘サロメが登場するなんとも後味の悪い話でした。それを前回11月17日に共に学びました。今日は、その続きとなります。

B. 本日の流れ

1. 休息の指示

続きは何から始まるかと言うと、宣教旅行に遣わされた弟子たちがイエス様のもとに帰ってきた、ということです。30節に「さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。」とあります。前回にも申し上げましたが、不思議なことにマタイの福音書はこの弟子たちがこの宣教旅行で何をしたのか、どう伝えたのか、どんなことが起こったのか、うまくいったのか、行かなかったのか、その辺の所にまったく触れません。また、イエス様の口から「よくやったと」とか「そういう場合にはこうすればもっと良かった」などのコメントも一切聞かれません。

その代わりに、イエス様は少し奇妙と思えるようなことを言われました。それは、31節にある「あなたがただけで、寂しいところに行って、しばらく休みなさい。」という休息の指示です。イエス様は、福音を聞くべき一般の群衆の必要だけでなく、福音を伝える働きに全身全霊を投じて働いて来た弟子たちの、その時の必要をも最も適格に把握されている方なのです。

そして、これは、私の憶測も入りますが、その弟子たちの必要の中には、単に体を休める、精神的にリラックスする、という要素以外のものもあったのではないかと思います。人々の注目の的となっている状態、多くの力ある働きをなして、自分が相当のものだと思っている状態から、なるべく早く切り離して、周りに人のいない、寂しいところ、神様と親しく交わるのに適した環境に彼らを半ば強制的に追いやる、という霊的な必要も含まれていたことでしょう。

2. 群衆のおっかけ

しかし、これをイエス様の計算違いと言うのはいけないとは思いますけれども、実際のことの流れとしては、群衆が先回りしてやって来てしまったので、弟子たちリトリート、リフレッシュの目的は果たせなくなってしまします。

そして、これも少しだけオヤッと思うことですが、31節で弟子たちに「あなたがただけで」と言っておられたのに、イエス様はどうも弟子たちと同じ舟に乗って移動されていたようです。

3. 群衆を憐れむイエス

イエス様は、自分たち一行を追っかけて来た群衆を見てどうされたでしょうか。これは、今日のポイントには含まれませんが、とても重要なことです。34節を見ると、「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊のようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」とあります。

イエス様は、口を開いて素晴らしい教え、天の御国のことを語り始める前に、二つものを開いておられます。それは、よくご覧になるための目と、深くあわれむための心です。イエス様と私たちとの関係を考えるときに、ことことはとっても大切です。私たちは、「イエス様は今の私に何と語られるのだろうか」と、そういう観点からイエス様との関係を考え、祈り求めるというのが基本ではないかと思うのです。しかし、イエス様の口や声や言葉に注目する前に、イエス様の瞳に、イエス様のあつくなって、わなないている憐みに私たちの心を向けることが出来るならば、私たちに聞こえてくる主の御声も変わってくるのではないかと思います。

4. 困った事態に

そして、イエス様が教えておられるうちにどんどん時が経過しました。そこは、人里離れたところなのです。弟子たちは心配になってきました。このまま日が沈んでしまうと、大変なことになる。暗くなると身動きが取れなくなる、そして食料の問題が出てくる。そうならないうちに、この群衆をイエス様の口から解散させてもらおう。それが弟子たちの考えでした。極めて妥当で賢明な提案だったお思います。

しかし、イエス様というお方は本当に意外な方なのです。思いもよらないお言葉が飛び出します。それは、37節の「あなたがたが、あの人たちに食べる物を上げなさい。」という指示です。

群衆の人数については、今日読んだ最後の節にある「男が5千人であった。」を手掛かりに考えると女性や子供を含めて総人数を想像すると1万人を超えていたかもしれません。現代のこれだけいたるところにコンビニやスーパーがある時代でも、日が暮れかかってからいきなり1万人分のお弁当を準備しろと言われてもできるものではありません。20や30、まあ100食くらいなら少し広範囲を回って確保してくることはできるかもしれませんが、1万食はまったく不可能です。

弟子たちも同じように答えました。さあ、困ったことになりました。今、「困ったこと」と申し上げたのは、弟子たち目線でのことですね。さあ、ここまでくると、イエス様がご自分の業をなさる準備が整いました。イエス様はこの事態に何から、どのようにことを進めて行かれるのでしょう。

本日は導入が長くなり過ぎましたが、ここで本日のポイントを3つ申し上げます。

Ⅰ. 一人分のお弁当

Ⅱ. 私たちの一人前

Ⅲ. イエス様の一人前

残る時間この3点でお話していきます。

Ⅰ.  一人分のお弁当

まず、イエス様が最初にされたことは現状把握でした。38節「パンはいくつありますか。行って見てきなさい。」とあります。群衆の中には準備がよくて食料を持ってきている人たちも確かにいるかもしれません。仮に全体の3分の1の人が何か食べる物を持っていたら、それを3人でシェアーして食べれば、小腹の足しくらいにはなり、なんとか窮地をしのげるかもしれません。弟子たちはそんな風に考えて、調べに行ったのかもしれません。しかし、結果は「5つのパンと2匹の魚」という報告が上がってきました。これは、よく言われるのですが、当時の一人分のお弁当の量だというのです。

1万人の人々のお腹を満たす必要があるのに、それに応えるための持ち合わせは一人分のお弁当でした。これが、イエス様の出発点です。また、私たちの出発点です。ここからいくつかのことを学ぶことができると思います。

A. ゼロではない

一つと二つの差は1。1つとゼロの差も1、ということに計算上はなりますが、1と2の違いとゼロと1の違いは本質的に違います。一つでも、一人分でもあるなら、あるのです。なければないでそれまでです。私たちは自分自身を見る時に、自分の小ささ、足りなさ、くだらなさ、と言うところにばかり目が行きがちではないでしょうか。しかし、私たちはどんなに小さな存在でも、ゼロではないのです。イエス様によって与えられた命があり、イエス様が活かしていてくださる命があるのです。いのちはだれも作り出すことはできないのです。

B. 石をパンにはしない

二つ目に、ここでイエス様が公生涯に入って行かれる直前に受けた荒野での試みの一つ目を思い出してみましょう。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」でした。イエス様はその時、きっぱりと石をパンに変える奇跡を起こすことを拒否されました。これが誘惑として成り立つには、イエス様にはそれをやろうとすればそれができる力が備えられていた、ということが前提とされています。イエス様は、この人里離れたところで1万人の人々の食料の必要が発生しているという状況でもその奇跡を行なう力を発揮することはありませんでした。あくまで一人分のお弁当を用いようとされるのです。

C.イエスの手に握られた

3つ目に、この5つのパンと2匹の魚が多くの人々の必要を満たすことができた秘訣は、これらのものがイエス様のところに持ってこられ、イエス様の手に握られたということです。これは、端的に言って奇跡物語です。いったいどのようにして一人分が1万人分にまで増えたのかについては、いくつもの想像が可能でしょうが、聖書はその具体的なプロセスについては記述していません。どのようにして増えたか、ということはここでは追及すべきポイントには設定されていないのです。そうではなく、むしろ、イエス様の手に握られた、ということが秘訣なのです。イエス様の御手に握られるとき、不思議なことが起こるのです。

Ⅱ.  私たちの一人前

それでは次に、この増えていったパンや魚は何を象徴的に現わしているのか、ということを考えていきたいと思います。二つあります。一つ目は「私」という一人の人間のことです。

このところは、多くの場合、あるいはほとんどの場合、そのように解釈されていると思います。そのようにこの箇所を受け取る場合に私たちに流れてくるメッセージは二つです。

A. 少な過ぎることはない

イチローは、引退の記者会見で「後悔などあろうはずがありません」という有名なことばを残しました。正直言って、私は今のところ正反対です。私のこれまでの生涯に後悔はいっぱいあります。でも、イエス様はおっしゃるのですね。今あるものを私のところにもっておいで。私が持って行けるものとしたら、これまでの失敗の数々の残骸かもしれません。しかし、イエス様は、これで少なすぎることも、小さすぎることも、ダメすぎることもない、と仰るのです。旧約聖書・新約聖書を通じて神様に用いられた器たちは、ほとんど例外なくかなり失敗した人です。イチローのように「やり切って、お手付きも後悔もない」と言い切れる人はいません。旧約のアブラハムも、モーセも、ダビデも、新約のペトロもパウロも、神様の御手にお捧げできるものとしたら、痛恨の失敗と後悔の数々だったと言って過言ではないと思います。

B. 今からでも始める

しかし、神様はそれでもこうも仰るのです。それで始めよう。今、始めよう。わたしがいるから大丈夫。あなたの過去も、今も、これからも、失敗も全部私の手に握られているから大丈夫。

そう言われても、人間的な計算では、一人分で1万人を満たすことがまったく不可能であるように、今の私で今とこれからの必要に答えていくことはまったく不可能にしか思えません。しかし、イエス様があなたの過去も、今も、これからのことも全部わたしのところに持って来なさい。それで始めましょう、と仰ってくださるなら、そうするしかないじゃないですか。神様は時を超えた永遠者です。その神が天地万物をお造りになり、時というものも創造され、時を支配しておられます。その神にとって、私とあなたの今は、遅すぎる時点であることはありません。今こそが、いつでも神の時なのです。

C. 創世記12章16節から

昨日、私は通読で創世記12章16節を読んでとても心に刺さりました。「アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。」という短い文章です。2017年版で訳が新しくなっているので印章に残ったのでしょう。アブラムがエジプトに降ったとき、殺されるのを恐れて妻サライを妹だと偽ったために、サライがファラオに召し抱えられて、そのためにアブラムに羊、牛、ろば、男女の奴隷など、現代でいう資産があった言う間に転がり込んできたという状況を描写している言葉です。

しかし、これは大いなる皮肉です。物質的には、表面的にはアブラムの生涯は豊かになりましたが、実際には彼の生涯に後で刈り取らねばならなくなる毒麦が蒔かれ、目を出し、育っていっている状態でした。目に見える世界だけを頼りに生きていくと、私たちは大きな落とし穴に足をすくわれることがあります。しかし、私たちの生涯が主の御手に握られているときに、見た目のあるいは短期的な成功、失敗を離れて真の祝福の道を進んでいくことが出来るのです。

Ⅲ.  イエス様の一人前

A. イエス様こそ5つのパン、2匹のさかな

5つのパンと2匹の魚が象徴している二つ目のことは、イエス様ご自身の生涯です。ヨハネの福音書12章24節にこういうお言葉があります。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」これを、今回の5つのパンと2匹の魚バージョンに直すとこんな風になるかと思います。「5つのパンと2匹の魚、一人で食べたら一人分で終わります。しかし、神の御手に落ち込んで割かれるなら、多くの人に命を与えます。」あるいは、更に意訳すると「わたしがわたしの地上生涯を自分のために生きるならただそれだけで終わってしまうだろう、しかし、わたしが十字架の上ですべての人の罪そのものとなって死ぬなら、多くのいのちがそこから芽を出し、実を結ぶだろう。」

今日学んでいる、5千人の給食とよく言われる奇跡物語の中に出てくる、たった5つのパン、たった2匹の魚が、イエス様の御手の中で祝福と感謝の祈りを捧げられた後に、裂かれ、配られるとそこにいた人全員が満腹し、さらに食べきれなかったものを集めると12のかごにいっぱいになったというのは、イエス様の御生涯を言い当てているというのが一番ぴったりきます。

私たちの小さな生涯をイエス様に捧げるというのも、もちろんこのストーリーに含まれているでしょう。しかし、それよりももっと直接的に言われているのは、このパンはこの魚は十字架に捧げれたイエス様のいのちそのものなのです。

B. 変貌山の出来事から

イエス様は神のみ子です。イエス様の地上生涯の一コマに変貌山と呼ばれる出来事があります。マタイは「弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」マルコは「彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」とその時の様子を表現しています。

イエス様は、故郷のナザレの町に行かれた時、「あれは大工の倅ではないか。兄弟たちも妹たちも、俺たちは良く知っているし、一緒にいるではないか」と言われました。簡単に言うと、イエス様には特別なオーラはなく、ごく普通の庶民としての生きざましかなかったのです。それが、変貌山でほんの一瞬、まばゆいばかりのオーラに変身されたというのです。しかし、これは、実は逆なのです。変貌山で見せたこの世のいかなるものでも真似ができないほどの輝いたお姿こそが、イエス様の地上生涯に唯一相応しい、神のみ子としてお姿なのです。

イエス様がご自分のお一人分のお弁当をお一人で召し上がるようにして、地上生涯をご自分のために過ごされたとしたなら、そのオーラを放ちっぱなしでずっと通すことになったでしょう。しかし、イエス様は、あえて、地に落ちて、死んで、すなわちご自分の栄光を現わすことをせずに、なんの輝きもない、蔑まれた、呪われた極地のお姿にまであの十字架の上でくだられました。そして、それによって多くの身を結ばれたのです。それがイエス・キリストの生涯です。

私たちは、そのようにして差し出され、裂かれ、配られたイエス様のいのちに与って生きていくように招かれているお互いなのです。2025年という新しく始まった年を、一日一日、このイエス様のいのちを食して豊かにせられていく道を選び取って歩んでまいりましょう。

一言、お祈りいたします。

 恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、新しい2025年の新年最初の礼拝でした。このように集められてあなたをともに礼拝することが揺れされて感謝をいたします。今朝、私たちは、5つのパンと2匹の魚は、イエス様ご自身であることを学びました。イエス様が差し出され、裂かれ、配られたいのちに日々与る者としてください。それ以外の食料ではなく、このようにして私たちに届けられているいのちの食物で生きていくものとしてください。また、同時に、そのようにして生きていき私たち一人一人の生涯をイエス様の御手に握られるものとしてください。今年、一年、どのような事が私たちに、日本に、世界に起こり来るか私たちには予測がつきません。しかし、どうぞ、私たちを御心の通りに、平和の子、光の子、地の潮・世の光として生きるものと導いてください。

このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。