□2024-11-17 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書6:14-29
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(23)「イエスの名が知れ渡った」
導入
- 前回の復習
前回は、マルコの福音書6章7節から13節までのところを扱いました。イエス様が12人の直弟子たちを連れて歩くのではなく、初めて彼らだけで二人ずつコンビを組ませて、宣教の業に遣わされた、というところでした。
イエス様は、ご自身がそれまでにしておられたのとまったく同じことをする権威を彼らにお与えになりました。けれども、そのようにして遣わされた弟子たちは、まだ福音の全貌も知らず、信仰告白にも至っておらず、ペンテコステも経ていない途上の人たちでした。しかし、イエス様は、お構いなく彼らを遣わされたのです。
そして、現代の私たちも欠けだらけの者たちですが、イエス様と同じ業をなす権威を与えられて、それぞれの生活の現場に遣わされていることを学びました。
- 今日の流れ
さて、今日のところは、内容的にはイエス様にヨルダン川で洗礼を授けたバプテスマのヨハネの殉教について書かれているところです。しかし、少し演出が施してあります。どういう演出か少し説明いたします。
先週お話したところで12弟子たちが宣教に遣わされました。そして、来週お話する30節のところで弟子たちはイエス様のもとにそれぞれの所から帰って来て集合します。その間の弟子たちの宣教活動の様子は、逐一報告されません。たとえば、ペテロとアンデレのチームはペツサイダの町に行って、何人に宣べ伝え、何人の病人を癒し、何人の悪霊付きの人から悪霊を追い出した。ヤコブのヨハネのチームはカナに行って、大きな反対にあったけれどもそれを乗り越えて、多くの改宗者を得たとか、そういう具体的な報告は一切ありません。しかし、“遣わしました”の次の節で“帰って来ました”では、弟子たちの“働いた感”がまったくでないので、文学的手法として、他の話を挿入して、そちらにしばしの間、読者の意識を移して、別の話に注意を向けるのです。それから、元の話に戻し、弟子たちが帰って来た場面につなげます。すると、読者の側で、弟子たちが働いた時間が疑似的に感じられるというわけです。
ということで、今日は、イエス様が12弟子を遣わしたところと、12弟子たちが宣教から帰って来たところに挟まれたバプテスマのヨハネの殉教のところを学んでいきます。
大項目としては、
Ⅰ. イエスのうわさがヘロデの耳に
Ⅱ. 洗練者ヨハネの殉教とその顛末
Ⅲ. 二つの問い
この3点でお話していきます。
Ⅰ. イエスのうわさがヘロデの耳に
それでは、さっそく第一の項目、「イエスのうわさがヘロデの耳に」に入って行きます。
A.どのヘロデ?
まず、今日のところに登場するヘロデという人物について簡単にご説明します。新約聖書に出てくるヘロデという名の付く人物で一番有名なのは、多分、イエス様がお生まれになったときに、ユダヤ地方を王とし支配していたヘロデ大王です。東方の博士たちから新しい王として誕生したとの情報をキャッチして、ベツレヘム近郊の2歳以下の幼児を皆殺しにした“あのヘロデ”です。今日のところに登場するのは、その息子でヘロデ・アンティパスという名前の人物で、ガリラヤ地方を治めていました。
B.どんなうわさ?
14節の頭に、「イエスの名が知れ渡ったので」という言葉が出てきますが、これは、12弟子たちが様々なところに出かけて行って、一斉に働きをしたので、その効果が出て来たという意味も含まれていると思われます。
そして、人々はどんなことをイエス様について言っていたかが、14節から出てきます。ここでは、3つのうわさが紹介されています。
うわさ①:バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。
私たち読者は、この言葉に接するまでバプテスマのヨハネが死んでしまっていることについては、マルコの福音書の中で知らされていません。1章14節に「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて言われた」とあるように、バプテスマのヨハネが捕らえられたことが、イエス様の宣教活動開始の直接的な発車ベルのような役割を担っていたということを伝えています。しかし、殺されたとはまだ聞いていません。読者は、「えっー、そうだったんだ!」と驚くわけですが、この後、回想シーンとしてバプテスマのヨハネの殉教の出来事が展開していきます。その前に、うわさの後の二つを見ておきましょう。
うわさ②:彼はエリヤだ。
エリヤは、旧約聖書に沢山出てくる預言者と呼ばれる尊い働きをした人々の中の代表選手です。そして、旧約聖書の最後の書であるマラキ書4章5節に「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」という預言があります。そこで、イエス様の時代、ユダヤ人たちはメシアの到来を待望し、同時にメシアの到来の前に必ず現れると預言されているエリヤの再来にも敏感になっていたのです。ですから、当時の人々は抜きんでた人物が現れると、彼こそは、「来るべきエリヤなのではないか」と期待を寄せたのです。もし、その人物が本当に「来るべきエリヤ」だとするならば、メシアの到来が目前に迫っている。そして、メシアが来たなら、ユダヤ人たちはローマの圧政から解放されて、ソロモンの時代のような栄光が回復するということメシア信仰に望みを託していたのです。
マルコの福音書では9章13節で、イエス様の口から「来るべきエリヤ」は、バプテスマのヨハネのことだ、とはっきり言われます。人々がイエス様に対して、「来るべきエリヤ」ではないかと噂するということは、バプテスマのヨハネが「来るべきエリヤ」である、ということを認めなかったという間違いを犯していることを示しています。と同時に、その当然の帰結として、イエス様が「来るべきメシア」であるというさらに重要な真理に到達できない段階にあることを示しています。
うわさ③:昔の預言者たちの一人のような預言者。
これはずいぶん持って回った言い方ですね。実は、旧約聖書最後の預言者マラキのあと、400年間預言者が現れない沈黙の時代が続いていたのです。ですから、ここで言われているのは、その400年の預言の沈黙を破る、新しい預言者という意味だと思われます。こちらも、バプテスマのヨハネがその役割を果たしたと考えることもできます。
C.ヘロデの反応とその理由
これらのうわさは3つともヘロデの耳に入ったのですが、ヘロデとしては、個人的な理由から、直感的に①の「バプテスマのヨハネが甦った」説だと確信します。それは、自分が正義を曲げて、バプテスマのヨハネを処刑したという良心の呵責があったからです。
そして、このあとかなりのスペースを割いて、バプテスマのヨハネの首がはねられた経緯が続きます。
Ⅱ. ヨハネの殉教とその顛末
ここから、二つ目のポイント、ヨハネの殉教とその顛末に進んでいきます。
A.ヨハネの投獄
ヘロデ・アンティパスは、自分の異母兄弟ピリポの妻だったヘロディアという女性を妻にしました。腹違いとは言え、自分の実の兄弟の奥さん、すなわち義理の妹を略奪婚で自分のものとするという強引なことをしたのです。それを見とがめて、バプテスマのヨハネが18節にあるように「あなたが兄弟の妻を自分のものとするのは、律法にかなっていない」と直言したのです。しかも一度いっただけではなく、「言い続けた」とあります。それでヘロデはヨハネを捉えて牢屋に叩き込んだのです。
B.ヘロデの揺らぎ
しかし、ここから更にことが複雑になっていきます。実は、自分の不正を糾弾されて怒ってヨハネを牢につないだヘロデでしたが、20節にあるように、ヨハネが正しい人だと知っていて、彼を恐れて、保護し、それだけではなく、なんと「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」というのです。
まあ、このヘロデ・アンティパスという男は、権力を乱用できるお坊ちゃまだったけれでも、根っからの悪党というわけではなかったのでしょう。
C.ヘロディアの残忍さ
それに対して、夫を乗り換えた側のヘロディアという女性は悪女でした。一つ戻って、19節に「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思っていた」が、夫が今言ったような態度を取っているので、恨みを果たせないでいたのです。
そこに事件が起きてしまいます。ヘロデの誕生パーティーにヘロディアの娘が入ってきます。ヘロディアと前の夫との娘で、聖書には名前は書かれていませんが、サロメという人物のことです。このサロメが踊りを踊ったところ、ヘロデがご満悦になり、サロメに何か褒美を遣わそう、「何でも欲しいものを求めなさい。お前にあげよう。」とつい口走ってしまったのです。サロメが無邪気に自分の欲しいものを言えばこんなことにはならなかったでしょうが、サロメは母親のヘロディアに相談するのです。せっかくそう言ってもらっているのだから、できるだけ大きなお願いとするのがいい。自分で考えるより、人生経験のある母親に相談したほうが、よりデカいこと考えてくれるかも、と思ったのでしょうか。そうしたら、なんとこのお母さん、娘に「バプテスマのヨハネの首を盆に載せてきてください」と言わせたのです。
26節を見ますと、「王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって」という理由から、ヨハネの首をはねさせたのです。
Ⅲ. 二つの問い
ここまで聖書を読んでくると、私たちは何とも言えない怒りに胸がいっぱいにならないでしょうか。「こんなことがあってよいのだろうか!?」と。ここから本日の三つ目のポイントに進んでいきたいと思います。それは二つの問いです。
A.正しい人がどうして殺されるのか?!
一つ目は、正義の人が、どうしてこんなにも簡単にそして、こんなにも邪悪な理由や目的から命を奪われるということが起きるのか!という問いです。
神は義なる神であり、悪と不正をお嫌いになり、それを許さない神であると聖書の至るところに書いてあるではないですか。そもそも、バプテスマのヨハネが自分の命の危険を顧みずに、「それは不正です。律法にかなっていない!」とズバッと正しいことを言ったのは、神様からの迫りがあったからに違いありません。もしそうであるならば、神は、バプテスマのヨハネが命がけで正しいことを言うまでは、正しい側に立って焚きつけ、ヨハネが捕まってからは牢屋に放っておいたのでしょうか。ヘロディアに入れ知恵されたサロメが「ヨハネの首を盆にのせてほしゅうございます」と言ったときに、ヨハネを見捨てたのでしょうか。
或いは、ヘロディアの心にそんな邪悪な思いが昇る段階で、どうして介入なさらなかったのでしょうか。疑問はとめどなく起きてきます。
これらの問いに対してハッキリしていることは、私たちにはその“どうして?”に対する答えは通常、この地上では与えられないということです。
どうしてこんなことが起きるのかわからない、ということが起こり続けているのが私たちが生きている生の現場です。
B.神はどうして助けないのか?!
一つ目の問いに答えを出さずに、というか、答えは与えられないと言ってしまったので、そのままもう一つの疑問に行きたいと思います。二つ目は、どうして、神は助けないのか。どうしてイエス様は介入なさらないのか。ということです。
バプテスマのヨハネは、イエス様にとっては遠いながらも親戚関係にあたります。また、ヨルダン川に自分に洗礼を授けてくれた大切は先輩でもあります。もし、この関係を人間的に捕らえるならば、イエス様は自分の何を犠牲にしてもバプテスマのヨハネを守りたいと思うのが人情というものだと思います。
荒野で「石をパンに変えたらどうか」との誘惑を受けたとき神の子としてのミラクルな力をご自分のために使うことは一切拒否されましたが、最も近しい、最も大切な友を守るためには、そのミラクルな力を遺憾なく発揮されてどこがわるいのでしょうか。
しかし、父なる神も、人となられた、そして、この記事に至るまで数多くの奇跡の業をなしてこられた御子イエス様も、ダンマリを決め込んでいるかのように、指一本動かそうとしないのです。これはいったい、どういうことなのでしょうか。
もっと言うならば、私たちは、こんなに重要で大切な場面で、何もしない神を信じていていいのでしょうか。そんな神様を信じる価値があるのでしょうか?!
答えはないけど答えはあります。それは、これらのことはこの地上では辻褄が合わないということ。しかし、神様の目から見えている世界全体では、別の景色になっているのだろうとこいうことです。
C.もう一つの球場
一つのたとえ話をします。また、古い野球の話で恐縮ですが、2007年にサンフランシスコ・ジャイアンツを引退したバリー・ボンズというMLB史上最高のホームランバッターがいました。生涯通産本塁打762本、1シーズン73本ともMLB記録の保持者です。
現在日本ハムの監督とやっている新庄剛は、2002年の一年間だけでしたが、このバリー・ボンズと同じサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーをしています。その時、ボンズからこんな話を聞いたと言っています。
「打席に立った瞬間、俺は野球場をもう一つ作るんだ。そして2個目のスタンドに入れるつもりで打つんだ。」
ボンズ以外のすべての野球選手にとっては、野球場は一つです。それは当たり前の話です。そして自分が立っている、自分が見ている球場で活躍するためにプレーをする。しかし、ボンズだけが違っていたのです。皆には見えていない、もう一つ隣の球場のしかもその観客席を意識して、そこに向かって打っていたというのです。
ボンズの頭の中に存在していたもう一つの球場は、物理的に隣にあるとイメージされていました。しかし、神様の目に映る、私たちに対して用意されているもう一つの世界は、物理的に向こう隣りということではありません。
・同時進行している異次元の世界かもしれません。
・時間軸で言うならば、私たちのこの地上生涯のいのちの営みが終わった後の世界かもしれません。
あるいは、もしかしたら、これらの想像さえ、私たちが見えているものを土台にしているに過ぎないものなので、神様のご覧になっているもう一つ別の世界は
・私たちの現実世界ともっと別の意味で隣接しているのかもしれません。
話をバプテスマのヨハネの死に戻しましょう。私は、信じるのです。このマルコ6章に出てくる、なんとも後味の悪い出来事も、あるいはここで命を落としたバプテスマのヨハネの生涯も、神様が見ておられるもう一つの世界までを視野に入れると、必ずや、神様の聖名を心から崇めずにはいられない景色になっているのだと。
ですからクリスチャンとはもう一つの球場をイメージして打席に立つ人たちだと、定義することができるかもしれません。そして、もう少し、私の妄想にお付き合いください。バリー・ボンズは、隣の球場目指してバットを振って、実際には一つ目の球場のスタンドにホームランを打ったのです。しかし、私たちクリスチャンはもってダイナミックな世界に生きています。一つ目の球場で、見逃しの三振、ボテボテの内野ゴロで打ち足られたはずが、もう一つの球場では逆転満塁ホームランになっているような、そういう別の球場が用意されているのです。
もう一つの球場、そちらの世界は、私たちには見えませんし、想像もつきにくいです。しかし、イエス様には、それがハッキリと見えている。そうであるならば、そちをも見て私たちを導いておられる主イエス様に信頼してついていくのが一番素晴らしいことなのです。今週もこのイエス様にお従いしてまいりましょう。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。今朝は、バプテスマのヨハネの殉教の話を学びました。なぜ、彼ほどの人物が、こんなに簡単に、こんなに邪悪な理由で殺されるのか私たちにはわかりません。なぜ、父なる神様も、御子イエス様も助けに入らないのかわかりません。しかし、あなたには、私たちが見えていないもう一つの世界を見ておられ、そこまで視野にいれるとヨハネの殉教もまったく別の風景となって見えてくるに違いないと信じます。表面的には神さが、見捨てて、手をこねいていて何もなさらない、としか見えませんが、そうではないと信じます。あなたの目には今も、すべてが神様の支配の中にあり、麗しく治められていることを信じます。
どうぞ、目の前にことしか、自分で見えている世界にしか信頼を置けない者ですが、イエス様に一歩一歩お従いしていく者としてください。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
