□2024-10-06 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書箇所 マルコの福音書4:35-41
□説教題 マルコの福音書を学ぶ(18)「いったいこの方はどなた」
導入
- 前回の復習
前回は、マルコの福音書3章21節から34節までのところを扱いました。「明かりのたとえ」「量りマスのたとえ」「ひとりでに成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」と4つの小さなたとえが並んでいました。そして、これらの小さなたとえを前々回の「種まきのたとえ」の解説の補足的だと位置付けました。結論としては、究極の神の言葉である種は、イエス・キリストであり、私たちがイエス・キリストに聞く態度には無限の可能性がいのちとして秘められている、とお話ししました。
今日の流れは、
今日は、たとえ話が終わったあとに移っていきます。
大項目としては、
Ⅰ. イエスを舟に乗せたまま
Ⅱ. イエスが言い出したのに!
Ⅲ. いったいこの方はどなた?
この3点でお話していきます。
Ⅰ. イエスを舟に乗せたまま
A. 話の流れの確認
まず、今日のテキストに記されている出来事の流れを確認しておきたいと思います。35節と36節をもう一度お読みします。
「さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに『向こう岸へ渡ろう』と言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの船も一緒に行った。」
冒頭、「さて、その日」と出てきますが、それはどの日、どんな日なのでしょうか。読み返してみると、4章の1節で、「イエスは、再び湖のほとりでお教え始められた。非常に多くの群衆がみもとに集まったので、イエスは湖で、舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、湖の近くの陸地にいた。」とあります。今日のテキストの「その日」は、このイエス様が、舟に乗って、岸にいる群衆に向かって、一連の「たとえ」を語られた日です。
「夕方になって」という時の経過を表すことばが出て来ます。そして36節に面白い表現が一つ出てきます。「そこで弟子たちは群衆を残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。」という中の「イエスを舟に乗せたまま」という部分です。私の手元にある9種類ほどの日本語訳聖書を調べて見ましたが、見事にこの部分はすべて同じように訳されていました。
次のポイントになるので、今は詳しく言いませんが、「向こう岸へ渡ろう」とイエス様がおっしゃったので、移動手段は最初から舟と決まっています。そして、イエス様はすでにそれなりの時間、舟の中から群衆に向けて話されています。ですから、イエス様は改めて舟に乗る必要はなく、「もともと舟の中にいるので、そのまま」くらいの意味合いがこの「イエスを舟に乗せたまま」ということの意味だと思われます。それほど、この移動は自然な流れの中にあったのです。
また、次の展開として突風が吹いてきて船が沈むそうになること。それから別の時には、イエス様をお乗せしないで弟子たちだけでガリラヤ湖を横断中に、向かい風で漕ぎあぐねるという出来事があったことを思い浮かべる時、この「イエスを乗せたまま」という表現は、意外な意味の広がりを私たちの信仰生活に与えるような気がいたします。次の項目で少し展開していきます。
Ⅱ. イエスが言い出したのに
今回のエピソードを簡単に言うと、イエス様と弟子たちが舟でガリラヤ湖を横断中、突然激しい突風が吹いてきて、舟の中まで水が入ってきて、弟子たちは死の恐怖を感じた。そこでイエス様が風を叱りつけ湖に「黙れ、静まれ」と命令され、凪になった。そして、弟子たちはイエス様から叱られた。ということになります。
A. こんなはずじゃ
そして、私たちはいくつかの点から、これは無茶苦茶な話だと思います。一つは、この舟での移動はそもそもイエス様が言い出されたのです。自分が行きたいから漕ぎ出したのなら、突風に見舞われてもしょうがないなと思うでしょう。イエス様は行くなと仰ったのにそれを振り切って出て来たのなら、死にそうな目にあってもしょうがないと思うでしょう。しかし、今回はイエス様が言い出されたのです。イエス様が言い出しっぺだということがハッキリしているプランを進めている途中で、アゲンストの風が思いっきり吹いてくると、私たちはこんなはずじゃなかったのに、と思いっきり思ってしまいます。ましてや、真剣にこれで命落とすかもしれない、というまでの窮地に立たされたならば、余計に、「神様、あなたが言い出したんでしょう。冗談じゃないですよ。責任とってください。」と私たちは神様を恨む気持ちさえ持つかもしれません。
B. イエス様がともにおられるのに
そして、それだけではなく、イエス様が共におられるのです。イエス様が別のところにおられ、イエス様と一緒でない状況で、こういうピンチに陥ったなら、私たちは、イエス様が共におられるならば、恐れるものは何もない、という信仰の公式を自分の心に当てはめて、ひたすら「主よ、早く来てください。ともなってください。」と祈ることでしょう。しかし、この命の危機に直面させるこの突風は、イエス様が言い出されたというだけではなく、イエス様がまさに目の前に、すぐそばに共におられる舟に乗っている最中に吹いて来たのです。神様の力が弱くて及ばないところがあるので、サタンに攻め込まれている、のではないのです。
しかし、私たちの生涯では、むしろこのようなことは普通によく起こることなのです。神様に示された道を歩んでいる。イエス様が共に歩んでくださっている。しかし、そこに、私たちがもうこれで命を落とすかも、と思うほどの試練が突然やってくるのです。そして、そのような試練を通して、私たちは本当に学んでいくのです。或いは、そのような試練を通して初めて、本当のことを学んでいくのです。
C. 船尾で寝ているイエス様
今回のエピソードで無茶苦茶だと感じることが、もう一つあります。それは、イエス様の対応です。
明治安田生命が毎年行っている「理想の上司」というアンケートがあります。2024年の理想の上司は、男性がウッチャンこと内村光良(てるよし)、女性が水卜麻美(みうらあさみ)さんで、これは男女とも8年連続の一位で、お二人とも不動の地位を築いていらっしゃるようです。一位に選らばれた要因のトップはお二人とも、親しみやすさだそうです。
また、こちらは日経新聞の調査ですが、「ついて行きたいと思われる上司、5つの習慣」というのがありました。それによると、「背景と意義を必ず説明する」というのと「結果だけではなく過程をほめる」というのが5つの内に入っていました。
今回のガリラヤ湖を横断中の舟の中でのイエス様の姿はどうでしょうか。これが、結構とんでもないのです。自分で言い出して向こう岸に向かっている最中に、突風で舟に水が入って来て沈みそうになっているのに、イエス様は船尾で寝ておられたのです。理想の上司なら、その逆ではないでしょうか。
みんなが寝ている、或いはみんなが安心して楽しくやっている最中に、迫りくる非常事態を一人だけ一早く察知して、状況を注視し、出来る手をいち早く打っている。そこに、弟子たちが、先生、どうしたんですか。とやってきたら、「実はな、君たちにはわからんかもせれないけれど、どうもこれから風向きが急に変わって、突風が吹いてくる兆候があってな。今は、私一人で見張っているが、その時にはみんなの応援を頼むぞ」なんて立ち回りこそ、信頼されるリーダーに相応しいのではないでしょうか。
D. 弟子たちを叱るイエス様
そして、一番、これは無茶苦茶だと感じれるのが、命の危険を感じ、慌てて寝ているイエス様を起こし、なんとかしてもらった弟子たちに対してイエス様は「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と非常にネガティブなコメントをされたことです。さきほどの理想の上司の5ポイントの中に「結果だけではなく、過程もほめる」というのがありましたが、その真逆です。結果のみならず、過程まで叱責された、という感じです。普通に考えるとそりゃー誰でも慌てふためくでしょう。「イエス様がいれば大丈夫」なんていって、泰然自若としていられっこありません。それに肝心のイエス様は、さっきまで寝ていらっしゃったのですから。しかし、イエス様は、このような状況でも、怖がる必要はない。信んじていれば、それで神様がかならず守ってくださるのだ、としていられるのが当たり前だと言わんばかりです。いったい、この私たちの普通の感覚とイエス様の当たり前は、どうして、これほどズレがあるのでしょうか。
Ⅲ. いったいこの方はどなた?
その疑問を解くカギが、41節の最期にある「このお方はいったいどなたなのだろうか」という言葉にあると私は思います。
イエス様は弟子たちから起こされた後、何をされたかというと、「風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた」のです。
詩的表現としては「風よ吹け、波よ打て」というセリフはあり得るでしょうが、突風で大しけとなり、すでに船にかなり浸水している段階で、「風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言う人は一人もいません。私たち人間はどんなに自分自身の信仰が進むようなイメージを持つとしても、このようなことができる霊力を身に着けることを思い描いてはいけないと思います。人間は、いと弱く、大自然の前にはなんの力もなく、その恩恵のゆえにのみ生きていけると同時に、その威力の前にはひとたまりもなくもてあそばれる存在でしかありまえん。
それに対して、天地万物をお造りになったまことの神が人となられたイエス様は、このことがおできになるのです。マルコの福音書はこれまで、ずっと繰り返し、イエス様が、あらゆる病をいやし、悪霊を追い出す権威を持っていることを書き表してきました。そして、今回は、対人ではなく、自然に対してもおことば一つで状況を一瞬にして変える力と権威をもっておられることを示しました。
イエス様のおことばに大風も大波もたちどころにひれ伏したことを目の当たりにした弟子たちは、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」と言いました。このときの弟子たちの驚きは、単純に、自然界までもがイエス様のおことばどおりになるというイエス様の権威に驚いているわけです。また、マルコの福音書は、ある意味、一貫して、この「イエスとはいったいどういうお方なのか?」という問いを大切にしていきます。
しかし、問題はこれからです。その答えは、この方は、あらゆる病をも癒す権威をお持ちの方です。悪霊を追い出す権威をお持ちの方です。風も湖もおことば一つで従わせる権威をお持ちの方です。けれども、それで終わらないのです。それだけの権威を持った方が、やがてストーリーが進んでいくと、人間に簡単に捕らえられ、不正な裁判で死刑になり、十字架上でこれ以上ない醜態をさらし、神の助けなく死んでいくという展開となります。ここまでくると、この「いったいこの方はどなたなのか?」という問いは「こんなことまでできてスゲー」という意味ではなくなります。
これだけ、なんでもできる方が、どうして殺されるの?という人間の理解を越えた問いに弟子たちが、私たちがぶち当たったときに、はじめて、私たちは本当の意味で、「この方はいったいどなたなんだろう」という問いを発することが出来るのです。
4章41節の「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」の問いは、正直言って、弟子たちがまだそこにぶち当たる前の段階で発した問いです。しかし、イエス様はそんな弟子たちとともにいてくださるのです。そんな弟子たちとともに舟にのってくださるのです。そんな弟子たちとともに、舟に乗ったまま連れ出されてくださるのです。そして、その途中で、思ってもみなかったことが身に降りかかってくることを通して、イエス様は、私たちが本当にぶち当たるべきところにぶち当たるところまで導き、私たちが本当の問いを叫ぶところに連れて行ってくださるのです。
一言、お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの聖名を心からほめたたえます。私たちはあなたの導きがなければ、本当に驚くべきことに驚くことができず、本当に叫ぶべき問いを発することができない、愚かな者たちです。どうぞ、そんな者たちを、私たちの小さな人生の小舟に同船してくださって、たどり着くべきところにたどり着けるようにお導きください。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げ致します。アーメン。
