マルコの福音書を学ぶ④「福音を信じなさい」

□2024-05-12 喜多見チャペル 主日礼拝

□聖書箇所:マルコの福音書1:14-15

□説教題:「福音を信じなさい」

皆さん、こんにちは。喜多見アッパールーム・チャンネルにようこそおいでくださいました。今回は「マルコの福音書を学ぶ」の第4回目で、今読まれました1章の14節と15節から「福音を信じなさい」という題でご一緒に学んでいきたいと思います。

今日のポイントは

Ⅰ. 神のタイミング

Ⅱ. 福音を信じる

この2つです。最後まで、ご視聴いただければ嬉しいです。

Ⅰ. 神のタイミング

1. 時が満ちた

まず、「時が満ちた」という言葉から見ていきたいと思います。ここから2つのことを学んでいきます。

①二種類の時

1つ目は、二種類の時の概念です。日本語の「時」に当たるギリシャ語の言葉には2つあって、一つは、一般的には時間の流れや連続性を指す「クロノス」です。これは私たちが普段感じる秒、分、時間、日、年などの物理的な時間の経過を表します。それに対してもう一つの方は、特別な意味や価値がある瞬間で、「カイロス」と呼ばれます。イエス様が「時は満ちた」と仰った“その時”とは特別な時間ですから、当然、「カイロス」の方が使われています。

②機が熟した

2つ目に、同様のことを別の表現や例話を用いて考えて行きたいと思います。日本語でも「時が満ちた」という言い方がないわけではないようですが、どちらかというと、「機が熟した」の方がニュアンスとしては近いかもしれません。ずっと放っておいても問題ないという時間もあります。例えば、卵をゆでる時のことを考えてみましょう。冷蔵庫から取り出したばかりの卵をお湯からゆでる場合、半熟が8分、やや固ゆでが11分、しっかり固ゆでが13分だそうです。固ゆでにするにも、硬さや、黄身の黄色の色具合などの好みによってベストの茹で時間は存在するでしょう。しかし、少々茹で過ぎても、黄身の外回りが緑がかってくることはあっても、問題なく食べられます。おでんに入れて煮込むことを考えると、すんなり納得できると思います。しかし、半熟はそういうわけにはいきません。柔らかすぎず、固すぎず、ちょうどよいトロトロ具合の半熟卵を作るには、ベストのタイミングで火を止める必要があります。ですから、固ゆで卵の茹で時間は、「クロノス」、半熟卵の茹で時間は「カイロス」なのです。

 先輩であるバプテスマのヨハネが捕らえられた時は、イエス様にとっては、まさに「カイロス」だったのです。

2. 旧約時代がここで終わった

①バプテスマのヨハネは最後の旧約預言者

 なぜ、この時がそんなにベストのタイミングだったのでしょうか。バプテスマのヨハネという人は、新約聖書に登場する人物ですが、実は、旧約聖書の時代の最後の預言者、そして最後のというだけではなく、預言されていたメシアであるイエス様から始まる新約の時代への橋渡しをする人物なのです。バプテスマのヨハネは悔い改めの預言者という言われ方をします。マルコの福音書では1章4節で「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」と書かれていました。他の福音書を読むと、このヨハネがいかに強烈な言葉でユダヤ人たちに悔い改めを迫っていたかがわかります。

②バプテスマのヨハネは律法を指し示した

 この15節の言葉は、いわゆるイエス様の宣教第一声です。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」それに対して、マタイの福音書3章2節には、バプテスマのヨハネの宣教第一声が記されています。それは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という言葉です。

この二つを比べると、とても似ていて、少し違うことがわかります。イエス様の方にあって、バプテスマのヨハネの方にはないのは、「時が満ちた」というところと「福音を信じなさい。」というところです。

バプテスマのヨハネがユダヤ人たちに悔い改めを迫ったのは、ユダヤ人たちが表面的には神に熱心に仕えているようなそぶりは見せていても、その実質で神様から遠く離れていたからです。そして、離れているかいなか、どれくらい離れているかを測る唯一の基準は律法です。簡潔に言うと、バプテスマのヨハネは、律法からの逸脱を厳しく指摘し、律法が示すところに立ち返るように問いた預言者です。

③バプテスマのヨハネはメシアを指し示した

と、同時に、彼の役割はそれだけではありませんでした。自分の後にくる、来るべき約束のメシアを指し示すのが彼の役割でした。そして、それは、また律法の役割でもあるのです。律法は、人を救う力はありませんが、人に罪を自覚させ、メシアに至らせる橋渡しをするのです。

 そのバプテスマのヨハネが捕らえられ、その活動に終止符が打たれたのです。旧約時代のすべての活動が余すところなくなされ、そしてそれに休止符が打たれたのです。私は、これこそが、マルコ1章15節冒頭の「時は満ちた」の意味ではないかと思います。

3. 神の国は近づいた

①当時のユダヤ人は神の国を待望していた

 そして、「時が満ちた」のもう一つの重要な意味は、それに続く「神の国は近づいた」と言われていることです。新しい時代の始まりの特徴は、「神の国」の始まりです。マルコの福音書15章3節に、十字架上からイエス様の亡骸の下げ渡しを願い出たアリマタヤのヨセフという人物について「神の国を待ち望んでいた」と紹介されています。当時のユダヤ人は、メシアの出現とセットで実現していく神の国の到来を待ち望んでいました。メシアがこの地上に来られた以上、もう神の国はすぐそこまで来ているのです。

②神の国についての2つの問題

私は正直に言って、今回この「神の国は近づいた」の部分をどう扱うかについてずいぶん悩みました。主に二つ悩みがあります。

(ⅰ)神の国のイメージ

一つは、何をもって「神の国」と理解するのか、「神の国」のイメージです。これから、イエス様が宣教活動を開始していかれますと、悪霊が追い出され、病は癒され、これまで誰も語らなかった新しい権威ある教えが説かれていきます。イエス様と同時代人、たとえば一番弟子になったペテロなにとっても、そのようなことが進展していくことが正しく「神の国」の到来として理解され、最終的にはイエス様がエルサレムに上って、ローマからの独立を勝ち取り、この地上にダビデやソロモンの時代のようなイスラエルの繁栄と平和が回復されることを思い描いていただろうと思います。しかし、そのような人々の期待は裏切られていったわけです。イエス様は、そのような地上的な意味での神の国をこの地上に実現されるために来られたのではなかったのです。もし、その目的のためにこの地上に来られたのだとしたら、十字架に付けられて殺されてしまったのは、完全な失敗と言わなければならないでしょう。

しかし、本当の神の国は、人々がイメージしたのではなく、神様が実現させようとご計画し、準備され、建設を実行された「神の国」は、むしろ人々が失敗だ、敗北だ、恥辱だ、いやそれらの極みだと感じた十字架による死を通して実現したのです。神の国の実現を阻む力、それは罪の力ですが、その力のありったけがイエスの身に覆いかぶせられて、罪にできるありったけの力を発揮させて、人となったイエスをいったん死に追いやり、しかし、その死を乗り越えてイエス様が死からよみがえられたことによって、神の国が実現した、というのです。ここには、かなり複雑なようそが埋め込まれています。一筋縄ではいかないのです。

 ということは、この宣教第一声を上げられた時、イエス様が「神の国は近づいた」と仰ったとき、その意味を本当に理解した人はほとんど、あるいは全くいなかったということです。人々は、その手前の、自分たちで理解できる神の国をイメージして、このことを聞いたのに違いありません。イエス様のこの地上での活動には、最初から、このようなズレがあった、ということを心にとめておくことが重要だと思います。

(ⅱ)神の国とその後の歴史

 「神の国」をイメージするときの二つ目の問題は、イエス様が地上に来られてから今日に至るまでの約2000年の歴史についてです。「神の国は近づいた」とイエス様がおっしゃったという事実と、その後の2000年の人類の歴史をどのように調和をもって理解することが出来るのか、という問題です。

 罪の力を破り、イエス様が死からよみがえってくださったという出来事、事実があるにも関わらず、人類の歴史はどうしてこうも悲惨に2000年間もの間辿って来たのでしょうか。この地上は依然として罪の世界です。戦争、紛争、虐殺、流血、差別、裏切り、ありとあらゆる悪が幅を利かせてこの地上で行われています。もちろん、その中で福音は全世界に宣べ伝えられ、多くの人を個人的に、罪から救い、神の栄光をあわわしてきました。しかし、なぜ、こんなに悲惨な歴史が、イエス様の復活後に2000年も続いているのか、ということについては人間の理解ができません。しかし、神様を信じるということは、自分が理解できないことも含めて、神様はすべてをご存じで、最高最善に導いておられるということを含めて信じる、ということも含まれているのです。そして、そのことはとても大切なことです。

Ⅱ. 福音を信じる

 次に大きな2つ目のポイントに移ります。

1. バプテスマのヨハネとの一致と相違

15節の後半、「悔い改めて、福音を信じなさい」というところに進んでいきたいと思います。「悔い改めて」の部分は、先ほどから比較のために引き合いに出しているバプテスマのヨハネが伝えたことと同じです。ヨハネはそのことをヨルダン川での水による洗礼によって象徴させていました。人々は、ヨハネの元に来て、古い自分をヨルダン川の中につま先から頭のてっぺんまでぜんぶ沈めて、その古い自分を洗い流し、あるいは、川底に沈め、新しい自分となって水から出てくる、という儀式を通して、生き方を根本的に改めること表明していました。神に背を向けて生き方から、神に従う生き方へ。罪の力に支配される生き方から、神の愛に導かれる生き方へと。バプテスマのヨハネは、ここまでは言いましたが、ここで止まっていました。

イエス様は、そこにもう一言大切なことを加えました。「福音を信じなさい」ということです。

2. この文脈での“福音”

①入れ子になっている“福音”

ここで、14節の後半から読んでみます。「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』」です。ここに「福音」ということばが2回出てきます。単純化していうと「イエスは、福音を宣べ伝えてこう言われた『福音を信じなさい。』」これは、入れ子になっている感じがします。

②まだ語られず・聞かれていない“福音”

福音の内容は、これからイエス様が様々なところをめぐり、人々に語り、いろいろな業をなし、究極的には十字架と復活を通してその全体像が初めて明らかにされていくものです。ですから、この宣教第一声の時点では、イエス様も福音をまだ語っていないし、人々もまだ聞いていない、ということになります。

③信じるだけでよくなった“福音”

 それでも、「イエスは、福音を宣べ伝えてこう言われた『福音を信じなさい。』」とここに書かれているのはどういうことでしょうか。これは、すなわち、神の御子が人となってこの世に来られ、30年の隠れた生活からいよいよ公の活動を始められ、ヨハネの元で洗礼を受け、「あなたはわたしの愛する子」という天からの声があり、荒野での試みを通過し、バプテスマのヨハネが捕らえられることによって、旧約の原理が支配する時代が終わり、すべてのことば整った以上、あとは、信じるだけでよくなった、ということ、そのこと自体が福音なのだ、ということをマルコの福音書はここで明らかにしているのです。「福音を信じるだけでよくなった」ことが福音なのです。

3. “悔い改めて”とは?

①個人史の中での方向転換だけではない

それとの関係で、後付けで悔い改めを定義すると「信じるだけでは足りないという原理」の古い時代に生きることをやめて、「信じるだけでよくなった」新しい時代に生きるように、生き方を転換することです。悔い改めとは、自分という小さな一人の人間の中の個人史の中で、「あんな悪いこと、こんな悪いことをやって来たけれども、もうそのようなことはしません。これからは、悪いことはしません。神様の御心に適うことだけをします。という誓いをたてることではありません。悪魔にしたがって、悪魔の奴隷とされて生きてきましたが、これからはイエス・キリストを主として、イエス様に従っていきます、と主人を変えることでもありません。そうではない、と言い切ると少し言い過ぎかもしれません。それらも含んでいるとしてもそれだけではありません、とした方がより正確かもしれません。

②二分された時の新しい方に立つ

そうではなくて、時の流れのなかに、古い時代と新しい時代の境界線をはっきりと引くという人間にはできないことを、神様の側がしてくださったのです。クロノスという時間の流れを二つに分けて、ここまでが古い時代、これからはまったく新しい時代だと、神が分けてくださったのです。私たちが悔い改めるということの本質的な意味は、神が引いてくださった線の向こうからこちらに渡ってくるということです。しかも、自分で移動することはできないのですが、自分が身を置いている今という時が、神によって線が引かれてまったく新しい時代になった方の、新しい時代なのだという事実の中に生きることを意味します。

サタンの働きは、この境界線をうやむやにしようとすることです。私たちが、せっかく神が用意し、私たち一人一人に与えてくださった恵みから逸れてしまうために、サタンはごちゃごちゃとあれやこれやと悪さをする必要はありません。「オマエが立っているところは古い所だ。」という暗示にかけてしまえば、すべて終わりです。しかし、そのような策略に騙されてはなりません。私が引いた線引きなら、時間と共にかき消されていくこともあるでしょう。もっと強い勢力がやってきて、別なところに引き直すこともあるでしょう。

しかし、福音とは、私が線を引いたのではないということにあるのです。これは、神様が引いてくださった線なのです。誰もそれを消すことも動かすこともできません。大胆に信じようではありませんか。イエス様が、時が満ちたことを見て、今だ!とカイロスを捕らえ、永遠に変更され得ない境界線が引かれたことを。そして、私たちは新しい時代に立っていることを。今日も「福音を信じなさい」という新しい原理だけが支配している神の恵みの世界に生きるように招かれていることを。

一言お祈りをいたします。天の父なる神様。心から御名をあがめて感謝いたします。今日は、マルコの福音書1章14節と15節から、あなたのガリラヤでの宣教第一声のところを学びました。どうぞ、福音を信じて、神によってはじめられた新しい時代を生きるものとしてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。