□2024-04-21 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書 マルコの福音書1:9-11
□説教題 「イエスは水の中から」
導入
今回は「マルコの福音書を学ぶ」の第2回目で、今読まれました1章の9節から11節までのところからご一緒に学んでいきたいと思います。
1. 地理的な移動
まず、導入としまして、イエス様の地理的な移動をイメージしてみたいと思います。9節に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた」とあります。ここに、ガリラヤのナザレからヨルダン川への移動が書かれています。次に、今日の範囲ではありませんが、12節に、「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」とあります。ここで、次の移動、「ヨルダン川から荒野」が言われています。そして、次に14節には、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」と出てきます。ここがいわゆるイエス様の宣教開始の時点です。ここでいうガリラヤは、16節でガリラヤ湖のほとり、21節にはカペナウムという町の名前が出てきますが、イエス様が育ったナザレとはまた違ったところです。
2. なぜわざわざヨルダン川に
まとめると、イエス様は、ガリラヤのナザレから出て来て、ヨルダン川で洗礼を受け、荒野に行って試みを受け、ガリラヤに戻り、ガリラヤ湖のほとりで宣教活動を始められた、という流れになります。ここで、一つの疑問が浮かんでこないでしょうか。なぜ、イエス様は、同じガリラヤなんだから、ナザレから出て、ガリラヤ湖のほとりで活動を始めるというコースを取らなかったのだろうか。なぜ、わざわざ、ヨルダン川まで行って、そこから荒野経由でガリラヤに戻ってこられたのだろうか?という疑問です。
今回は、まず、導入でこの疑問を提示して、それに答える形でお話を進めて行きたいと思います。
本日のポイントは3つです。
一つ目は、ヨハネがそこで活動しいていたから
二つ目は、ミッションのスタート・ラインに着くために
三つめは、ミッションの目的が明らかにされるために
この三つです。
Ⅰ. バプテスマのヨハネがそこで活動していたから
1. 神様はいつでも働いておられる
このマルコの福音書の出だしのところからだけでも読み取れるイエス様の活動についての大原則は、すでになされている神様の働きに加わっていく、ということです。たまに、「自分以外は、自分より以前のものはみな間違っている。」「正しいのは自分だけだ。」と主張して、自分の意見が100%通るような環境、組織でしか働かない、というようなタイプの人がいたりします。しかし、イエス様はそういう人ではありませんでした。すでになされてきた働きを尊重し、自分もそれに加わって行こう、というのが、イエス様の基本姿勢です。
2. 神はバプテスマのヨハネを用いておられた
そして、神様は、時に応じて、ある特定の個人を特別にお用いになることがあります。イエス様が活動を始めるころには、バプテスマのヨハネがそれに該当する人でした。イエス様は、その神がお用いになっている器に会いにいって、その人を通してなされている神の業に自らもあずかろうとします。
3. 神の導きに従う
このことは、言ってみれば神の導きに従うということです。「自分が単独でやっているのだ」ではなく、神様のお仕事をしているのであれば、それまでに神様がさまざまな人を用いて続けてこられた働きと何らかの繋がりの中に自分の働きが位置づけられていくのです。
例えば、宗教改革者ルターにしても、1517年10月31日に突然、彼が一人で宗教改革を始めたわけではありません。ルターが感じていた違和感も、彼一人の特殊な能力やセンスで感じたものではありません。ルターを遡ること100年、200年、300年と数多くの人が、命を奪われながらも戦い続けてきたその延長線上にのみ、ルターの働きがあり得るのです。神の御子イエス・キリストの働きでさえ、そうなのです。イエス様が、この地上で、神の導きに従って活動を始められたとき、地上での先輩である、パブテスマのヨハネのところに行って、その働きと関係するところから始められたことに、イエス様の働きの正統性の一つの根拠を見出すことができます。
Ⅱ. ミッションのスタート・ラインに着くために
1. スタート・ライン
私は導入で提示しました疑問、すなわち、なぜ、ガリラヤで育たれたイエス様がガリラヤで伝道を開始するのに、わざわざヨルダン川に行かれたか、という問いに対する二つ目の答えに移ります。それは、ヨルダン川の川底に、イエス様の地上での宣教活動のスタート・ラインが引かれていたからです。陸上競技の単距離ランナーは、トラックのどこでも自分の好きなところを100m走ればいいわけではありません。ちゃんと、スタート・ラインが決められていて、そのラインに合わせて位置に付かなければなりません。また、大相撲では、行司が制限時間になると軍配を返して「待ったなし」「双方手をついて」「はっけよい」と声を掛けます。立ち合いの正式な姿勢は、双方が蹲踞(そんきょ)して手を土俵について、お互い見合ってタイミングをとって、というものです。
イエス様のスタート・ラインは、ヨルダン川の川底に引かれていたのです。ですから、そこからしかスタートできなかったのです。ガリラヤのナザレからガリラヤのカペナウムに移動して、そこから始めたのでは、フライングなのです。
2. 旧約聖書におけるヨルダン川①
なぜでしょうか?ヨルダン川が、旧約聖書の中で登場する一つの重要な記事があります。それは、列王記第二5章に出てくるアラムの将軍ナアマンについても話です。当時、イスラエルとアラムは敵対関係にある隣国でした。アラムの将軍ナアマンは、
「主君に重んじられ、尊敬されていた。しかし、この人は勇士であったが、ツァラートに冒されていた」
と記されています。イスラエルにエリシャという預言者のところに行けば、治るということを聞いて、ナアマンは、アラムの王からの紹介状と、金・銀・晴れ着のお土産を沢山持って出かけました。ところが、エリシャのところに到着してみると、エリシャは家から出て来もせず、使者を遣わして一言の指示だけを与えました。それは、「ヨルダン川へ行って7回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」ということでした。
ナアマンはカンカンに怒りました。「なんてことだ。預言者自ら出て来て、彼の神、主の名を呼んで、患部の上で手を動かして直してくれると思ったのに。ヨルダン川だと、川ならアラムの方には、もっと立派な川がいくつもあるではないか。なぜ、わざわざこんな二級河川のヨルダン川につかれというのか!」
そして、ナアマンは怒ってそのままアラムに帰ろうとしました。ところが、賢い家来が一言、ナアマンに助言します。「難しいことを、あの預言者があなたに命じていたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は、『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」と。
ナアマンは、その助言を受け入れて、ヨルダン川に下って行き、神の人が言ったとおりにヨルダン川に七回身を浸しました。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった、と書かれています。
すなわち、ヨルダン川は、かつて敵国アラムの将軍ナアマンがツァラートに罹っていた自分のからだを七たび沈めたところだったのです。ナアマンは、自分が癒されるのなら、これこれこういう手順で、これこれこういう動作や言葉で、という自分の考えを持っていましたが、それらを捨てました。勲章がいっぱいついた軍服を着ていたでしょうが、それを公衆の面前で脱ぎ捨て、ツァラートに冒されている自分の体をさらしました。ヨルダン川には、裸一貫となった自分と神の言葉だけがそこにありました。その時、ナアマンの体は清くなったのです。
3. 人、そして罪人と同じになるために
イエス様は、ヨルダン川に来てヨハネから洗礼を受けるまで、ガリラヤのナザレという片田舎の町で大工として隠れた生活を30年間送ってこられました。当時の平均寿命は40歳台だったと聞いたことがありますが、もしそうなら、もう人生の大半を生きたと言ってもいいぐらいだったかもしれません。マルコにはイエス様の誕生に関するストーリーは載せられていません。今日、ご紹介しているように、ガリラヤのナザレからヨルダンに来られたというところから始まります。
イエス様も、すでに名もない片田舎の大工という人でしたが、ナアマンと同じようにヨルダン川の川底にまで下られて、ご自分の計画や思いもすべて、もう一度お捨てになり、神の独り子という勲章付きの軍服もお脱ぎになり、罪人と同じものとなり、神のお言葉の約束だけがあるところに立たれたのです。そここそが、イエス様にとってスタート・ラインだったのです。
Ⅲ. ミッションの目的が明らかにされるために
なぜ、イエス様はガリラヤからわざわざヨルダン川に下られたかの三つ目の理由を考えて行きたいと思います。それは、ミッションの目的が明らかにされるためでした。
1. 旧約聖書におけるヨルダン川の②
旧約聖書にヨルダン川が登場するもう一つの重要な場面があります。それは、イスラエルの民が奴隷だったエジプトを脱出して、40年後、約束の地、カナンの地に入って行く時に最後に渡った川がヨルダン川でした。出エジプトの時には、後ろから追ってくるファラオの軍勢と行く手に広がる海に挟まれ、絶体絶命の危機に陥ったときに、目の前の海が二つに割れて、海の真ん中の乾いた地面をイスラエルは進んでエジプトを脱出しました。いわゆる紅海が二つに分かれたと言われる記事です。それから、40年後、イスラエルは東からヨルダン川を越えてカナンに侵入していきます。ヨルダン川を渡る際も、奇跡が起こりました。神の箱を担いだ祭司たちの足がヨルダン川に入った瞬間に流れがせき止められて、やはりそのときもヨルダン川の真ん中の乾いたところを渡ったと記されています。
紅海を渡った記事ほど、このヨルダン川を渡る記事は有名ではありませんが、この二つの出来事には共通点と相違点があります。共通点は、二回とも奇跡的に水が分かれ、通れないはずのところを、おぼれそうになりながら、なんとか渡ったのではなく、乾いた道を渡ったという点。相違点は、紅海は、奴隷の国から脱出するために渡ったのに対し、ヨルダン川は約束の地カナンへの入国のために渡った、ということです。
イエスというお名前は、ヘブライ語的にはヨシュアとなります。すなわち、ヨルダンを渡ってカナン入国を果たした時のイスラエルのリーダーの名前と同じです。出エジプトを果たした時のリーダーはモーセでした。モーセは、旧約をそして律法を代表する人物です。そのモーセがなし得なかった約束の地への入国は別のリーダーであるヨシュアが果たしました。
2. 神の国への入国の道を開くヨシュア、イエス
イエス様がヨハネから洗礼を受けられた当時、多くのユダヤ人は、ローマ帝国の圧政からの解放を求めていました。しかし、イエス様は、ローマの圧政からの解放者としてお仕事を始められたのではありませんでした。これからマルコの福音書を読み進んでいくと出てきますが、イエス様が始められたことは、私たちを「神の国」へ入国させる働きだったのです。目の前まで来て、この川の向こうに入って行くべき約束の地、神の国があるのに、この川を越えていけない。しかし、イエス様は、乾いた川底を踏んで神の国に入国させるために、このヨルダン川をせき止めて、そこに乾いた道を用意してくださるために、今、まさに、働きを始めようとされているのです。そのために、ヨルダン川に下られたのです。それは、イエス様のミッションの目的が明らかにされるためでした。
2. 天からの承認
このようにして、ヨルダン川の川底に引いてあったスタート・ラインに手をつき、神の御計画、神のお言葉に全存在を委ねてそこから立ち上がって、ご自分に託されているミッションを果たすために川底から一歩を踏み出されたイエス様を、天の父が喜んで承認されました。10節、11節をお読みします。「イエスは、水から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。すると天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」
このイエス様が水から上がられた直後の記述は、イエス様のヨルダン川での受洗が、民衆、大衆に見せびらかせて人気を取るパフォーマンスではなく、父と子の間の極めて親密な個人的な出来事であったことを物語っています。御霊が鳩のようにくだるのをご覧になったのは、イエス様ご自身です。聞こえた言葉には、「あなた」と「わたし」しか出てきません。そんな父と子の親密な閉じた信頼の中に、私たちすべての人に対する救いの道が開かれていくのです。
まとめ
まとめていきたいと思います。イエス様は、ガリラヤの片田舎ナザレで30年間隠れた生活を送り、本当の人となってくださいました。しかし、それに留まらず、ヨルダン川に下ってこられ、そこに身を浸すことによって、私たち罪人と同じになってくださいました。そして、ヨルダン川の水から上がられたとき、御霊が降り、天の父のお喜びの声が聞こえ、イエス様はこの地上にあって神の子と証しされたのです。
一言お祈りをいたします。天の父なる神様、今日は、活動の一番はじめにイエス様がガリラヤからわざわざヨルダン川まで、ヨルダン川の川底まで下れたことの意味を考えました。どうぞ、ヨルダン川の川底からスタートされたイエス様の生涯によって開かれた救いの道を今日も辿る者としてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
