□2024-04-14 喜多見チャペル 主日礼拝
□聖書 マルコの福音書1:1-8
□説教題 「福音のはじめ」
□説教者 山田誠路
導入
前回で、主の祈りを学ぶシリーズを終えました。その前はというと、使徒信条のシリーズをやりました。それで、次は何をしたらよいかと祈り、考えましたが、マルコの福音書を取り上げることにしました。
キリスト教の世界の中で「使徒信条、主の祈り、十戒」を三要文という言い方があります。これらは、どれも短いものですが、聖書の教え、キリスト教のエッセンスをコンパクトに凝縮して言い当てています。また、礼拝の中で大切に扱われてきたという伝統があります。それで、三要文の最後の十戒を取り上げようか、という考えもあったのですが、一度、聖書講解的なシリーズを組む必要を感じるところから、福音書の中からマルコを取り上げることとなりました。やってみないと全部で何回かかるかはわかりません。使徒信条は26回、主の祈りは14回でしたが、今回から始まるマルコのシリーズは、もっともっと長くなるだろうと思います。YouTubeではコメント欄をオンにしておきますので、ぜひ、視聴者の皆様からも反応をいただきながら、ご一緒にマルコの福音書を読み進めていきたいな、と考えております。みなさま、どうぞ、よろしくお願いいたします。
マルコの福音書の概要
さて、導入として、いくつかマルコの福音書の概要について簡単にお話しておきたいと思います。マルコについての“二つの一番”ということをお話したいと思います。
1. 一番はじめに書かれた福音書
①「福音」「福音書」という言葉
一つ目は、マルコの福音書は一番はじめにに書かれた福音書だということです。そもそも、日本語の福音書ということばですが、これは、ギリシャ語のユーアンゲリオンということばの和訳です。ユーアンゲリオンは、「良い知らせ」という意味です。前半の「ユー」はユートピアのユー、後半のゲリオンは、エンジェル(天使)とつながることばです。ユーアンゲリオンというギリシャ語は、福音書が書かれる以前からギリシャ語の語彙の中に普通にありました。有名なマラトンの戦い後、伝令が42.195km走って伝えた戦勝報告も、一種のユーアンゲリオンだったと言えるわけです。
実は、日本では四つある福音書を〇〇の福音書という呼び方をしていますが、ギリシャ語で書名がそのように付けられていたわけではありません。現在、私たちが手にすることのできるギリシャ語聖書では、カタ・マルコン、すなわち「マルコによる」とだけ書かれています。他の三つの福音書も同様です。すなわち、ギリシャ語としては、書名には「福音書」という言葉は使われていないです。
②福音ということばをイエス様について初めて使った
しかし、マルコの福音書の本文の1章1節は、日本語では「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」ですが、ここに真っ先に「福音」ということば、ユーアンゲリオンが出てきます。「福音のはじめ」の「福音」は英語では、ゴスペルとなっているものとグッド・ニュースとなっているもののだいたい二種類の翻訳がありますが、英語のこれらのことばには、日本語での「福音」と「福音書」の区別はありません。
マルコの福音書は、現存する、そして聖書におさめられた文書としては、初めてイエス・キリストの生涯と、イエス・キリストがもたらしたものに対して、ユーアンゲリオン、福音ということばを使ったものなのです。
③マルコが一番はじめに書かれたと推測する根拠
なぜなら、4つある福音書の中で、マルコが一番先に書かれたものであると考えられるからです。その理由をウィリアム・バークレーは次のように説明します。まず、四つ目のヨハネの福音書は他の三つよりもかなり後に書かれたということをここでは、前提として話を進めますが、①マタイ・マルコ・ルカの三つの福音者の内容はかなり重複しています。②詳しく分析すると、マルコには661節、マタイには1,061節、ルカには1,149節全体であります。そのうち、マタイはマルコから606節を、ルカは320節をマルコから借りてきている。更に、マタイの中でマルコに借用されなかった55節のうち31節がルカで借用されている。なので、マタイにもルカにも借用されていないマルコの節はたった24節しか残らない。三つの福音書の相互関係のこられの事実から、マタイとルカは福音書を書く時、すでに存在していたマルコを基礎として用いたと思われる、ということです。
2. 一番短い福音書
次にマルコの福音書は、一番短い福音書だということです。ギリシャ語の単語数で4つの福音書の長さを比較すると、長い順にルカ19,482語、マタイ18,345語、ヨハネ15,635語、そして最後がマルコで11,025語となります。章の数で言うと、マタイが28章、ルカが24章、ヨハネが21章、マルコが16章となりますが、より厳密に単語ベースで比べると、マルコが以下に短いかがわかります。一番長いルカの57%です。ですから、新約聖書の一番初めにはマタイの福音書が収められていますが、二番目のマルコの福音書を先に読んでみるものおすすめです。
3. 著者について
①マルコという人物
次に著者について少し触れておきましょう。こういう問題に関しては、学者によっていろいろと言うことが異なります。私は、割と保守的な立場からお話しますが、マルコの福音書は、マルコ、或いはマルコと呼ばれるヨハネという名前で新約聖書に度々登場する人物によって書かれたとされています。このマルコは、
(1)母親が使徒12:12で出てくる初代教会の集会所となっていた家の持ち主、
(2)バルナバの甥、
(3)パウロの第1回伝道旅行に同行したものの、途中で離脱した、
(4)パウロの第2回伝道旅行の際、彼を連れていくかどうかで、パウロとバルナバが袂を分かつきっかけとなった、
(5)しかし、どこかの時点でパウロとの関係が修復され、コロサイ、ピレモン、第二テモテなどの書簡には、パウロが信頼する数少ない弟子として名前が出てくる。
(6)そして、最後にはペテロとも関係が深かった
ということが挙げられます。
聖書の中でも第一ペテロ5:13に「私の子マルコ」という呼び方で登場しますし、初期キリスト教関係の文書で、マルコはペテロの通訳者であったと書かれています。
②ペテロとの関係
ということで、マルコはマタイのように12使徒、直弟子ではありませんでしたが、読んでいくとわかりますが、四つの福音書の中で、様々な出来事についての描写が最も写実的です。言い方を変えると、そこにいた人しか書けないような目撃者証言のような記述が、ところどころに出てきます。一例をあげると、イエス様が弟子たちと一緒に船でガリラヤ湖を移動中に暴風にあって、舟が沈みそうになったとき、一声で嵐を沈めたという記事が、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に共通して出てきます。しかし、舟の中のどの位置にイエス様がおられたのか、嵐を沈める時、なんというセリフをおっしゃったのかを書いているのはマルコだけです。そんな詳しいことをマルコだけが書いているのに、なぜマルコは断トツで短いんですか?と今、頭の中にクエスチョンマークが大きく浮かんだ人がいるかもしれません。答えは、マルコは、イエス様が語られた説教を長く載せることをほとんどしないからです。マルコには、説教はほとんどなく、出来事中心に、簡潔で力強い記述で、「すぐに」という繰り返しでてくる単純なつなぎ言葉で、ドンドンとシーンが展開していくのです。
長くなりましたが、ここまでが導入ということにして、残る時間、少しだけでも、本日の本題に入って行きたいと思います。
本日のポイントは2つです。
一つ目は、旧約聖書との連続性
二つ目は、神様の積極的な歴史への関与
です。
Ⅰ. 旧約聖書との連続性
1. 冒頭の旧約聖書からの引用
それでは、さっそく、一つ目のポイント「旧約聖書との連続性」に入って行きたいと思います。マルコは福音書を何から書き始めているかというと、旧約聖書からの引用です。2節に「預言者イザヤの書にこのように書かれている」とあり、次の行から一文字落として、カギカッコの引用部分が続きます。しかし、実際には、2節の「見よ。」から「彼はあなたの道を備える。」は、イザヤではなく出エジプト記23章20節からの引用です。3節の「荒野で叫ぶ者の声」というところから「主の通られる道をまっすぐにせよ。」までがイザヤ書40章3節からの引用です。二つまとめて「イザヤの書に」とまとめてしまっているわけです。
2. バプテスマのヨハネについての言及
そして、この預言は、4節に登場するバプテスマのヨハネのことを指しているのだ、というのです。マルコの福音書は、表題として、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉ではじまりますが、内容はイエス・キリストから始まるのではないのです。イエス・キリストより前から始まるのです。このバプテスマのヨハネは、ルカの福音書のクリスマス・ストーリーを読みますとわかりますが、イエスの母マリアの親類にあたるエリサベツから、イエス様が誕生する半年前に生まれた人物です。
このヨハネはイエス様が公生涯を始められる前に、すでにヨルダン川周辺で活動をして当時のユダヤ社会に一大センセーションを巻き起こしていました。パブテスマのヨハネが目立った理由は大きく二つあります。
①バプテスマのヨハネの衣食住
一つは、彼の衣食住が尋常でなかったからです。らくだの毛の衣に、革の帯、食料はイナゴと野蜜。住んでいたのは、人が住めないような荒野だったのです。おおよそ、すべての点で規格外の人物でした。人が通常、社会生活の中で手にして快適に過ごしたいと思うすべてのものを拒否しているライフ・スタイルです。
②バプテスマのヨハネの衣食住
彼がセンセーショナルだった二つ目の要素は、彼の活動内容です。4節に「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」とあります。そして、5節を見ると、この呼びかけに応じて、「ユダヤ地方とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とあります。
③洗礼について
洗礼あるいはバプテスマという言葉は旧約聖書には一度も出てきません。旧約時代とイエス様お誕生の間の中間時代と呼ばれる時代に出てきた言葉です。これは、簡単に言うと、ユダヤ人でない生まれの人がユダヤ教に改宗する際に求められた儀式でした。ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫として生まれたという理由だけで、生まれながらにして清い、神の祝福を受けるべき選びの民なんだという意識をもっていました。そういうプライドを持ちつつ、実際の生活では、神の前に罪深い生活を送っていたユダヤ人を、ヨハネは大胆に、悔い改めに、そしてそれを形にし、公に現わす洗礼に招いたのでした。それはそれは、当時の人々の考え、生き方に根本的な問いかけを与える力があったのです。
④バプテスマとイエスとの関係
そして、そのヨハネが、自分の次に出て来る人物こそがまっすぐにされた道を通って進まれる主、すなわちメシアなのだ、ということを公言していたのです。ヨハネは、自分と次に登場する方とを比較して、執拗に自分を卑しめます。7節と8節を見ましょう。①私より力のある方が私の後に来られます。②私には、かがんでその方の履物のひもを解く資格もありません。物のひもを解くのは奴隷の仕事でした。奴隷以下ということは、優劣では語れない、次元が違う、ということを現わしているのです。③私は水でバプテスマを授けるが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになる。これは、質の違いでしょう。自分自身、当時の人の生き方を根底からひっくり返す活動をしていながら、自分の後に来られる方は、自分とはダンチ、レベチなんだとしきりに強調したのです。これが、マルコの福音書が描く、イエス登場の場面設定です。
Ⅱ. 神様の積極的な歴史への関与
次に、二つ目のポイント、神様の積極的な歴史への関与について短く見ていきたいと思います。イエス様が登場する前に、道備えの働きがなされていた。また、それは、旧約聖書に預言されていたことの成就であった、とは何を意味するのでしょう。
Ⅰ. 神の歴史への注視
①神は歴史に用意周到に
それは、第一に、神はそれまでの人類の歴史をずっとよくご覧になっていたことを意味します。突然、脈絡なく、イエスが誕生したのではありません。どんなに良いものでも、脈絡なく、これはいいからいい、といって押し付けのように提供されるものは、たといそれが本当に良い物であっても、ダメになってしまいます。神様は、救い主なんだから、メシアなんだから、神の独り子なんだから、タイミングなんて関係ない、思い立った時に人類の歴史の中に送り込めばよい、とは考えられなかったです。細心の注意を払い、人類の歴史を見守り、そして、周到な準備をして、この世に独り子イエス様、救い主を与えてくださったのです。
②個人史でも同じ
そして、それは、全人類の歴史というイメージしづらいほどの壮大なスケールだけではなく、私という小さな一人の人間の生涯の中でも同じことが言えると思います。神様は、私たち一人一人のパーソナル・ヒストリーをよくよく、ご覧になっていて、一番良い時に、御顔を啓示してくださるのです。
2. 突然出てきたものは偽物
①放置する神は偽物
二つ目に、当然出てきたものには真理はない、ということです。これは、今申し上げたことを反対側から言い直すに過ぎないのですが、もし、何の預言もされていないメシア、救い主が、なんも道備えもなく、なんの脈絡もなく出てきたら、それは、偽物だということです。なぜなら、もし、本当にそのメシアが本物だとして、突然の登場までに、人類に対して、神様の側から何の預言も道備えもなければ、神は人類を不幸と罪の中に放置しておいたということになるからです。そして、そのような放置をされる神は、本物でないと言わざるを得ないからです。
私たちが存在する以上、そして、この宇宙、地球、自然、人間世界が存在する以上、これを造られた神がおられる。そして、天地万物をお造りになり、私たち一人一人を作ってくださった方が、私たちも放っておかれるはずはないのです。ですから、イエス・キリストを救い主として信じることの根拠の一つは旧約聖書に預言されていたものとぴったりと一致するということがあります。
②神の関心の証明はイエス・キリストがどんな方であるか
そして、マルコの福音書は、その歴史を通しての神様の大きく、深く、そして時を捕らえて働かれる神様の愛が、表題に「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあるように、「イエス・キリスト」がどのような方であるか、という一点に集中して、惜しみなく現わされるのだ、ということをこの福音書全体を通して語っているのです。
私たちは、これから学んでいくこのマルコの福音書を読み進めていく中に、この神様の用意周到な、そして実現した救いのご計画、そこに示された神様の大きな深い愛が自分にも向いていることを知ることができたら幸いです。
一言お祈りをいたします。天の父なる神様、今日から礼拝講壇でマルコの福音書を学んでいくことを導いてくださいまして、ありがとうございます。どうぞ、この福音書を通して、神様の御愛をもっと深くしることができますようにお導きください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
